西洋楽器製造元祖の一人、松本ピアノの松本新吉
千葉県富津市の尾棹進さんからメールを頂いた。
―――山東直砥の長男・宗の弟(隆)のお嫁さんが、松本新吉の長女「ゑい」とは思いもよりませんでした。松本ピアノは私が勤務していた「君津市消防本部」庁舎から車で3~4分の所にありました。地元でも有名な事業所で、松本新吉は立志伝中の人物です。
松本ピアノは消防法上の「工場・作業所」に分類され予防査察の対象になり、昔、査察に行ったことがあります。
工場と言うよりピアノ工房と言った方がふさわしい趣のある工場で、熟練の職人が丁寧に作り上げている。そのような感じでした。
私の在職中に工場は取り壊され、今は、漬物工場になっております(後略)。
ちなみに、山東宗(はじめ)の長女・初は現参議院議員議長・山東昭子氏の母。宗の姉・田鶴は青山学院長・石坂正信、妹のコズエは和歌山出身衆議院議員・児玉亮太郎と結婚。
取材で山東家にお伺いしたおり、銀座にあったピアノ店の話を伺った気もするが、山東直砥と直接の交際がないようで深く気にとめなかった。改めて調べてみると、子孫の手になる『明治の楽器製造者物語』があった。
今回は引用しなかったが、『日本のピアノ100年』(前間孝則・岩間裕一2019草思社)が、ピアノづくりに賭けた人々をよく伝えて興味深い。
松本 新吉
1865慶応元年2月23日、千葉県君津郡周南村常代(すなみむらとこしろ)で生まれる。父・松本治良吉、母・みや。
1883明治16年5月、近所の山田家の長女(西川虎吉の姪)るゐと結婚。
?年、日本西洋楽器製造の鼻祖といわれ西川楽器創立者・西川虎吉の実家(伊藤徳松)と松本新吉の生家は隣同士。
1880明治13年、音楽取調掛としてアメリカ人リーサー・W・メーソンがオルガン(風琴)をもってくる。
日本楽器製造のパイオニア、西川虎吉・山葉寅楠・松本新吉がよく知られるが、3人ともはじめオルガンを手がける。
1887明治20年、新吉は妻のるゐと共に横浜日の出町の西川虎吉の楽器工場の見習いとして6年ほど修行。
見習いは、古くから伝わる職人の育て方、文字通り見て習う「理屈わけはあとから汽車でくる」。給金はもらえず、一人前の手間(給料)をもらうため難行苦行。しかし、兄弟子より早く仕上げるとそれも問題であった。のち新吉は解雇されるが、理由はその辺にもあったらしい。
1893明治26年6月、上京。妻と長男・広、長女・ゑいの4人で住み、楽器の修理と販売をする。「ゑい」はのちに山東直砥の次男・隆と結婚する。
1894明治27年1月25日、『音楽雑誌』に西川虎吉の松本新吉の解雇広告がでる。
解雇の理由は、新吉が西川虎吉の調律を盗聴したらしい。防音室が無い時代、明瞭に聞こえたらしい。調律ができなければピアノ製造技術者になれない。新吉は、日本橋区下槇町に住み、6年間の経験を生かし「楽器修理販売業」を営む。
1896明治29年、京橋区築地新湊町に楽器製造所を興し、「紙巧琴」とオルガンを売り出す。年末、『音楽雑誌』に広告を掲載。
小型楽器「紙巧琴」の製造人、ピヤ(ア)ノ・ヲ(オ)ルガン調律師松本新吉という広告を出す。発売元は銀座の尾張屋(山口幸次郎)である。「銀座尾張屋」は洋品四品小物を扱う大店で二つの「*勧工場」を持っていた。
勧工場:第1回内国勧業博覧会の売れ残り品処分のため物品陳列所を設置したのが始まり。全国各地に民営の勧工場も開設される。デパートの先駆。
<紙腔(巧)琴>
紙腔琴、発売は十字屋音楽部が元祖で製造は横浜西川楽器製造所。西洋のストリートオルガンのようなものらしい。音源はオルガン用リードを使用した。
新吉は無断で拝借、紙巧琴として製造したので、十字屋から「まぎらわしいものに御注意」の広告が出された。紙腔(巧)琴はどちらも学校音楽教育のため爆発的に売れた。
まもなく、蓄音機・マンドリン・オルガン・ピアノが普及し紙巧琴は姿を消すが、この築地新港(湊)時代の4年間は工場を建て、全部で6人の子を育てながら、新規事業のオルガン製造と販売に努力する。
霊南坂教会で作曲家・教会音楽家の大中寅二が演奏した松本オルガンの写真が残っている。
1899明治32年、ヤマハ創業者・山葉寅楠が文部省の嘱託として楽器事情の視察に渡米。
山葉寅楠:紀州藩士の子。山葉風琴製造所(のち日本楽器製造株式会社)設立。
1900明治33年、西川寅吉の養子安蔵、松本新吉もピアノ製造技術習得のため自費で渡米。
このころ、のちに新吉の長女の婿となる山東隆の兄(宗)が正金銀行N・Y支店勤務で在米していたが、新吉と交流があったか定かでない。新吉のニューヨークの生活は貧乏だったが、故国日本でも新吉の妻るゐが6人の子を抱え苦労をしていたのである。
7月18日、シカゴに10日ほど滞在、キンボール会社など見学し日本人キリスト教信者に見送られてニューヨークに向かう。新吉はクリスチャンであった。
7月28日、ニューヨーク着。ジャパニーズ・ミッションに滞在。滞米中の動静は新吉の日誌が残されており『明治の楽器製造者物語』に精しく紹介されている。
ニューヨークでは困難な日々であったが、「ブラドベリーピアノ製造会社」社長F・G・スミスと出会い、運命が開ける。スミスの好意によって、ピアノ製作の全課程、ピアノの調律まで専門職の技術者から教わり、ノウハウを理解することが出来たのである。
<日本人ピアノ製造者=日出づる国の進歩的市民第一歩を踏み出す>『ミュージックトレード誌』のインタビュー記事の見出しである。
10月26日、帰国のためニューヨークを出発、11月22日、横浜入港。
12月25日、妻・るゐ没。新吉はいったん家族を連れて帰郷し、まもなく築地に戻る。
1901明治34年5月、新製品デスク型オルガンを発表。
9月、辻田つねと再婚。やがて娘二人生まれ、子は8男5女となる。
1902明治35年~36年、念願のピアノ製造、ベビピアノ二種を製造販売。
1903明治36年4月、小型ピアノ発売。第5回内国勧業博覧会に出品、二等賞。
1904明治37年、日露戦争。
10月21日、松本楽器合資会社とする。
1906明治39年2月28日、木材乾燥場から出火、全焼。
1907明治40年春、東京市月島西仲通りに月島工場を建てる。
農商務省山林局調査書―――ピアノの製作は複雑至難の業なるも是また完全の域に達し・・・・・本品の主なる製造者は日本楽器製造会社(浜松)、西川虎吉(横浜)、鈴木政吉(名古屋)、松本新吉(東京)にして・・・・・以上四カ所の製造高は・・・・・外貨獲得に貢献している。
1911明治44年、販売伸びる。銀座教文館2階のレコードコンサートは本邦初。
1914大正3年、第一次世界大戦始まる。
12月29日、オルガン工場より出火、工場4棟、隣接の月島第二小学校も全焼。
1915大正4年5月、株主総会で山野支配人が社長就任。松本楽器店から山野楽器店に。
8月、銀座を奪われた新吉は、松本楽器合資会社の本店を東京市四谷区忍町20番地に変更。月島工場の再建にあたる。
1918大正7年、第一次世界大戦終わる。
1923大正12年9月1日、関東大震災。
翌日、月島工場、柳町店ともに類焼。
松本楽器製造株式会社設立、商業登記。工場を二分し、月島工場は長男・広に任される。なお、広もまた渡米してシカゴでピアノ製造を学んでいる。
『全国工場通覧』(商工省大臣官房統計課編1931日刊工業新聞社)に、京橋区月島仲通、松本廣とある。
新吉は千葉県君津に帰郷。隠居所のそばに工場を作り、七男の新治(18歳)とピアノを作り続ける。内房線、君津駅の昔の名は「周西」(すさい)、そこから4km東、君津郡八重原村字箕輪の一角に「松本ピアノ第二工場」を新設。地元の人は「ピアノ屋」と呼んだ。
1924大正13年1月、工場完成。
世に言う「S松本」(千葉松)第1号ピアノを出荷する。千葉県内の学校の多くに、「S松本ピアノ、オルガン」が置かれている。
6月、広の「H松本」(東京松)、復興記念ピアノ第1号を完成、出荷する。
1932昭和7年7月版『全国工場通覧』に、松本楽器工場、千葉県君津郡八重原村 ピアノ 松本新治とある。
1938昭和13年、国家総動員法が出、「平和産業自粛の通達」で楽器製造業は壊滅的打撃を受ける。近世音楽史にいう、暗黒の昭和十年代に入る。
1941昭和16年5月3日、松本家の菩提寺光聚院の和尚が新吉の隠居所を訪ねて来て歓談中、新吉は発作を起こし、そのまま死去。享年77。
参考: 『明治の楽器製造者物語り 西川虎吉 松本新吉』松本雄二郎1997三省堂
| 固定リンク
コメント