宇佐海軍航空隊、「平和ミュージアム」建設の願い
2021.9.11旅客機2機が世界貿易センターに突入したアメリカ同時多発テロ、日本人を含む2977人が亡くなった。あの衝撃、20年たっても消えない。
飛行機といえば旅客機を思うが、戦争の時代には戦闘機である。太平洋戦争の戦況悪化で宇佐もたびたび空襲される。それに対抗するため、特別攻撃隊(特攻隊)による非人間的な体当たり作戦が行われた。特攻隊は鹿児島県知覧が知られるが、大分県宇佐にも出撃基地があった。
宇佐は、全国八幡宮の総本社・宇佐八幡をはじめ歴史を偲ばせるものが多い。しかし、戦争の歴史を色濃く残す地でもある。太平洋戦争末期、特別攻撃隊の基地となった宇佐から、多くの若者が南の空に飛び立ったのである。
宇佐市
大分県の北部に位置する。1967昭和42年4月、駅川(えきせん)・四日市・長洲(ながす)・宇佐の四町が合併して宇佐市となる。市の開発の歴史は古く、弥生時代の墳墓郡など市内各所に多くの古代遺跡が散在、史跡文化財が豊富である。
奈良時代には宇佐神宮が創建され、朝廷の崇敬も厚く、その神領は福岡・熊本・宮崎・鹿児島の各県にわたり、このころ成立した門前町が、現在の中心市街の都市的起源とされている。
1928昭和3年、豊肥本線、全線開通。
1934昭和9年、久大本線、全線開通。
1939昭和14年10月1日、宇佐海軍航空隊、艦上攻撃機と艦上爆撃機の練習航空隊としてつくられた。
柳ヶ浦地区を中心とした基地は東西1.2km、南北1.3km。約184haの広さがあり、800名の隊員が所属。隊員たちは航空母艦での勤務に備え、宇佐で訓練を重ねた。艦上爆撃機の爆撃訓練に使われたコンクリート製の的が現在も宇佐市宮熊の沖に残っている。
―――宇佐海軍航空隊は、艦上攻撃機と艦上爆撃機の練習航空隊としてつくられ・・・・・柳ヶ浦地区を中心とした基地は東西1.2km、南北1.3kmで、約184haほどの広さがあり、800名の隊員が所属していました。隊員たちは航空母艦での勤務に備え、宇佐で訓練を重ねました。当時、艦上爆撃機の爆撃訓練に使われたコンクリート製の的が現在も宇佐市宮熊の沖に残っています(「宇佐海軍航空隊年表」宇佐市HP)。
1941昭和16年、大分放送局、開局。宇佐神宮、昭和の造営後、遷座。
12月8日、太平洋戦争開始。
―――宇佐は戦争の歴史が色濃く刻み込まれた土地の一つだ。真珠湾攻撃の先陣を切る爆弾は「宇佐海軍航空隊」に所属したパイロットの爆撃機が投下した。一方、終戦間際にはたびたび、空襲を受けた・・・・・地元に埋もれていた戦争資料や遺構の収集・発掘を初め、20年ほど前から市に資料館の建設を求めてきた。市も動き・・・・・航空機を格納する「*掩体壕」など周囲の遺構も保存する計画を・・・・・(毎日新聞2021.9.9)。
掩体壕(えんたいごう):第二次世界大戦中、軍用機を敵の空襲から守るための格納庫として建設。コンクリート製の屋根がある有蓋掩体壕は、10基残り、9基はゼロ戦や艦上爆撃機、艦上攻撃機用の小型掩体壕。このうち城井一号掩体壕は史跡公園として保存。
1942昭和17年、豊洲新報社・大分新聞社が合併して大分合同新聞社になる。
1945昭和20年1月初旬、有蓋掩体壕づくり開始。
戦況が悪化すると、宇佐海軍航空隊は特別攻撃隊の基地となる。
2月11日、宮崎県の赤江基地に所属する特別攻撃隊神雷部隊(人間爆弾「桜花」による特攻隊)が宇佐へ移動してくる。そのため、保有機157機・隊員2486人の特別攻撃隊基地となった。ここから154人が特攻による体当たり攻撃を行った。
<還らなかった友へ ~時代に翻弄された友人、そして家族~>
「攻撃に参加~二次攻撃隊として~」
髙橋さんは、宇佐海軍航空隊から航空母艦「蒼龍」の爆撃機搭乗員として任務に就いた。そして、1941昭和 16 年12 月に西太平洋での攻撃へ参加し、搭乗機が被弾したため、米軍の艦艇に体当たり攻撃し、戦死した。髙橋さんの20歳の誕生日まで、あとひと月あまりの出来事であった・・・・・(滋賀県平和祈念館年報・平成26 年度企画展)。
3月1日、宇佐海軍航空隊が作戦部隊となる
3月18日、宇佐海軍航空隊、最初の空襲を受ける。
4月19日、出撃前の野村茂上飛曹が長洲国民学校のピアノで「トロイメライ」演奏。
4月21日、空襲により航空隊は壊滅的被害を受ける。
この日の空襲では航空隊関係者だけでも320人が犠牲になり、宇佐からは105機が特攻出撃し、そのうちの82機、154人が戦死。
アメリカ軍のB29爆撃機の空襲により、宇佐航空隊一帯は焦土と化し、柳ヶ浦高等女学校(柳ヶ浦高等学校)も炎上全壊した。
高等学校の左手に1954昭和29年、宇佐航空隊の慰霊のため忠魂碑が建てられ、「飛行予備学生出身仕官死者氏名」74人の名前が刻まれている。
8月6日、広島に原子爆弾投下。
8月8日、航空隊周辺地区に空襲。
8月9日、長崎に原子爆弾投下。
8月15日、天皇「終戦」の詔勅放送。
終戦。約6000名の隊員を抱えた宇佐海軍航空隊もその幕を閉じる。幅80m、長さ1800mの滑走路をはじめ航空隊の設備の多くは取り除かれ田畑に戻された。
掩体壕や滑走路跡などの遺構から宇佐海軍航空隊の姿がうかがい知れる。
爆弾池(大字上田):大分空襲においてB29による爆撃で生じた直径約10m、深さ5m以上に達したと推定される穴が現存。
宇佐海軍航空隊落下傘整備所:レンガ造りの建物の壁に無数の弾痕。
蓮光寺生き残り門(江須賀):空襲で近隣一帯が全焼、連光寺の本堂も全焼したが、山門だけは奇跡的に焼失を免れ、通称「生き残り門」と呼ばれるようになった。礎石や柱には弾痕もあり、空襲の被害を今に伝えている。
1995平成7年、城井1号掩体壕(大字城井):大日本帝国海軍宇佐海軍航空隊の遺構。城井1号掩体壕史跡公園として整備。
2013平成25年6月29日、宇佐市平和資料館開館。
―――市内には、城井1号掩体壕をはじめ、空襲の痕が残る落下傘整備所や爆弾池など、多数の戦争遺跡が現在も残っており、戦争の悲惨さを伝えています。 宇佐海軍航空隊の歴史や、宇佐への空襲について展示する・・・・・宇佐海軍航空隊の歴史や宇佐への空襲、宇佐から出撃した特別攻撃隊、市内の戦争遺跡について解説・・・・・命の尊さや平和の大切さを学ぶ場として、当館をご利用いただければ幸いです(宇佐市平和資料館)。
―――宇佐海軍航空隊施設、学生・生徒を含む地元の人々の勤労奉仕で造られ、現在も10基残る。*掩体壕の中には零戦のエンジン・プロペラが展示され、北東側には鎮魂の記念碑があります(城井一号掩体壕史跡公園)。
2021令和3年、「平和ミュージアム」建設が、白紙・延期に。
―――全国各地で進められていた公共的な施設の建設計画が、「東京オリンピックによる建設工事費の高騰」を理由に、相次いで白紙や延期となっている・・・・・「大分・宇佐」東京ドームの面積の半分に当たる約2万5000平方㍍の敷地に雑草が生い茂る・・・・・(中略)・・・・・「五輪は五輪で大事」と是永宇佐市長は語るものの、同市で行うはずだった海外チームの事前キャンプや交流は中止になった。ミュージアム建設を求めてきた平田さんは落胆する。「『平和の祭典』の影響で平和のための資料館が建設できないのは、皮肉でしかない」(毎日新聞2021.9.9)。
参考: 『大分県の歴史散歩』2008山川出版社 / 『郷土資料事典 大分県』1998人文社 / 『宇佐・国東散歩26コース』2001山川出版社 / 『近現代史用語事典』1992新人物往来社
2021.9.17
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