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2021年9月11日 (土)

明治の煙草王、岩谷天狗こと岩谷松平

 新型コロナウイルス感染が収まらない。人に会うとマスク越しに短い挨拶、そそくさ立ち去る。でも外の空気を胸一杯吸いたい。一人キャンプが流行ってるらしい。
 しかし、そうそう遠くへ行けない。それでなのか、近所の家が庭でバーベキューをしたら煙が充満、消防車が駆けつける騒ぎ。幸い大事に至らなかったが、ますます縮こまりそう。何しろ先が見えない。一見楽しそうな若者も内心不安かも知れない。
 こんなとき派手な人物はどうか。例えば、岩谷天狗。エピソードに事欠かず明治の社会を賑わしたが、書かれたものを読むと毀誉褒貶はなはだしい。
 味方は褒めるだろうし、商売敵は悪く言う。よくある話かも知れず、真偽の程は定かではない。

 今、喫煙者は肩身が狭そうだが、一昔前の映画では主役、脇役問わずタバコを吸っていた。その煙草の生産と販売で成功した岩谷松平、自宅で20人の愛人と同居・長者番付トップ・衆院選に最高点で当選・広告上手・国益の親玉と唱えたり話題豊富である。
 しかし、その生き様を快く思わない向きもあり、仲間入りを渋られる。
  ―――僕が日本貿易協会(官僚、実業家が設立)に入ろうと思ったとき、協会の人達は何を考えたのか、三度まで否決して入会させない。漸くの事で入ってみるとお歴々の方々が集まって天下を論じ合って居るが・・・・・(『明治の一郎・山東直砥』)。

     岩谷 松平    (いわや まつへい)

 1849嘉永2年、薩摩(鹿児島県)川内向田町、商家・岩谷卯之助の次男に生まれる。
 1862文久2年頃、両親と兄も熱病で喪い、伯母の夫である義理の伯父(大きな商家)から僅かな金をもらって行商して生活。
 1865慶応元年、16歳。義伯父に才能を認められ養子になる。
   鹿児島藩の税米回漕法を改善。また、藩外に販売を禁じられていた薩摩蝋(ろう)の払い下げを願い大阪で売り儲ける。藩のためにも、家のためにも大いに働いた。

 1875明治8年、台湾出兵(近代日本最初の海外派兵)。
   ―――時あたかも台湾征討の後にして西郷従道、大山巌の二氏その帰途、君(岩谷)を訪ひ同家に二泊せり・・・・・西郷氏はもし事を為さんと欲せば速やかに東京に上るべし・・・・・翻然大いに発明する所あり・・・・・(『東洋実業家詳伝』)。
 1876明治9年11月、上京。深川の下宿屋に投宿し名士を訪問。
   養家は豪商で時の顕官名士など鹿児島に来ると泊まったりして知人が多い。   
 1877明治10年、西南戦争。戦のさなか、琉球へわたり薩摩絣を仕入れ販売店を開く。
   ―――屋号を薩摩屋、丸に十を以てその看板となし店を銀座にひらき店先に「何でも交換便利」と掲出して鰹魚節・煙草・織物より以て薬剤・缶詰の類に至るまで交換売買せざるなし・・・・・新聞紙に割引の広告を出し・・・・・君の店頭(みせさき)は常に人馬居るが如く殆ど上景気の一乾坤となす・・・・・(『東京商人奇人廼智慧袋』)。

 1878明治11年、銀座三丁目に呉服太物商を開き、薩摩がすり*上布のみ売り出す。
   ―――三野村利助に三十万円を借りて鹿児島県金禄公債を百二円まで買い上げ。鹿児島県下を補助・・・・・(『在野名士鑑』)。
   上布:細い麻糸を用いた地の薄い上等の麻織物。
 1880明治13年、紙巻きタバコの製造を始める。
   「天狗屋」と称して「国益の親玉」「驚く驚く勿れ税額千八百万円」など奇抜な標語で宣伝し、<天狗煙草>は広く知られる。
 1881明治14年、日本商人共進会、共同運輸・帝国工業・大日本海産などを創立

 1882明治15年、<天狗煙草の岩谷松平は宣伝マン> 
   ―――ガラス張りの箱を着けし荷車に薩摩名産の品物を積みのせ、轡(くつわ)の門のある紺の半纏着たる屈強の若者五人にてこれを曳かせ、一人は車前に立ちて、さてまた薩摩の名産はと、かの千金丹の仮色(こわいろ)にて声高らかに売り歩くさまの珍しきより、我も我もと買い求むる者はなはだ多し・・・・・(朝野新聞15.12.12)。
   300円で石橋忍月を傭い、数千円を払って広告を各紙に掲載。
 1883明治16年、アメリカ、ギンボール商会と特約、日本代理店となる。
 1885明治18年、店頭演説で客寄せ。
   ―――銀座の薩摩屋が毎月曜日、店頭演説・・・・・来る二日の演題は「日清貿易の急務を論ず」岩谷松平、「信用の区別」井上竹麿二氏なりとぞ(東京横浜新聞18.3.1)。

 1890明治23年、東京両国中村楼で親睦会。
   岩谷は北海道長官・永山武四郎と日本郵船函館支店長・園田実徳から北海道を一巡して視察してくれるよう頼まれ、7月、手代を連れて北海道へ赴く。

   ―――手塩の増毛から北見の宗谷、手塩の稚内方面にまわり手塩川沿岸を遡ったが、腸カタルに罹り将に死なんとした・・・・・ソレでも決して自己の天職は忘れない、何等かの利源を発見すべく進んだ・・・・・川一面に魚が居る、それが鯉(鮭?)である。この時は天塩川の上流ウインベツからハボロまで行って、しかして留萌、宗谷、稚内間に十二ヶ所、一千万坪の好殖民地を発見して札幌に帰って来た・・・・・以上の土地は自分個人として借地の許可を得た、従って自分一個の力で天塩川の両岸五十里の地を東西両本願寺に譲り、本願寺の力で殖民をやる計画をたてた・・・・・(『財界名士失敗談』)。
 1893明治26年、「北海道ニ対スル建議案」、北海道協会会頭の近衛篤麿に提出。
   北海道の事業、岩谷の話では、渡辺千秋北海道長官のせいで頓挫したと。

 1894明治27年、日清戦争
     <岩谷松平の実子二十一人
   ―――岩谷天狗の鼻高きゆえん一にして足らずといえども、或る人はひそかに語っていわく・・・・・知らずや、かの銀座街頭巍々乎たる丸十店に並列せる幾多の手代は皆天狗の実子なる事を。すなわち天狗は男女二十一人の子あり。・・・・・商売に出精して折り合いの円滑羨むべきは全くこの故なりと。天狗の鼻またえらしというべし(読売新聞27.1.21)。

 1898明治31年、<裸体画入り煙草箱は禁止
   ―――京都、村井兄弟商会にて煙草の箱へ裸体美人画を入れたるは、風俗壊乱なりと認められ、京都裁判所にて取調べ・・・・・右は外国の出版に係りたるものなれば出版条例違犯にあらざるをもって、無罪(読売新聞31.6.27)。
   村井兄弟商会のバージン煙草は外国産葉を混ぜたものを使っていた。兄弟商会は明治33年、アメリカ資本を導入。
 1901明治34年、<天狗煙草当世流行節>(広告) 
   ―――ままになるなら煙草のけむで、天狗でなんとしょ、世界中うぃばけむにして、日本の国益を、ほんとに計りたいね、テナコトオッシャイマシタヨ(国民新聞34.3.7)。
   岩谷は「国益の親玉」「税金何万円」をキャッチフレーズに、経済人の名を挙げた。
 1903明治36年3月、第8回総選挙。
   東京市から出馬し990票で1位当選。なお2位は秋山定輔(「二六新報」社長)。

 1904明治37年、 日露戦争
   煙草専売公布。政府は財源確保のため、煙草専売制実施。煙草製造官業反対の全国大会が開かれたが、岩谷松平だけは“国益”のためと賛成にまわった。
 1905明治38年11月、<豚天狗になった岩松平
   ―――「私はこれまで天狗煙草で皆さまの御贔屓になっておりましたが、今度煙草が官業になりましたについて、豚屋を初めて豚天狗になりました。今日は豚天狗の御披露でございます」というのが、渋谷の岩谷邸で催された園遊会の趣意であった・・・・・種豚ばかり千頭も飼って・・・・・お客様方いずれも辟易してたじろぐと、主人の天狗は「豚は臭いものです。しかし、私はこの豚臭紛々が、日本国中へ行き渡るようにならなければ無益だと思っています」と滔々として養豚の利益を説きだした・・・・・(国民新聞38.11.25)。

   天狗煙草のライバル、村井兄弟商会・村井吉兵衛はタバコ専売制を機に村井銀行設立。また、外資を導入したこともあって巨額の保証金を獲得した。
 一方、“国益の親玉”岩谷は雀の涙に満足し、養豚業を始める。
   ―――渋谷の停車場(ステーション)前に頗る立派な家を建てたが例の朱塗りで頗る立派なもんだ・・・・・床柱は榎の太い太い樹で枝つきの老幹である。家を建てるとき其処にあったものぢゃそうな、掛物は大きな絖本(ぬめ、絵絹)に「大安賣」と筆太に・・・・・おれの大安売りは良いものを出来る限り低い値で売るのだから真個(ほんと)の大安売り・・・・・驚く勿れ金は幾百万円あっても益には立たぬ、と天狗先生なかなかエライ(『珍物画伝』)。

 その他、商業会議所議員・日本家畜市場会社社長、東洋業業・宇治川水電・博多鉄道・商工相談会などで敏腕を揮う。
 1911明治44年、長崎炭鉱。
   ―――福岡県粕屋郡須恵村101.130坪、石炭32.006屯噸/翌大正元年、39.487屯。 岩谷松平、東京市豊玉郡渋谷村下渋谷715番地(『日本鉱業名鑑』)。
 1920大正9年、死去。享年71。

   参考:『財界名士失敗談. 上巻』朝比奈知泉(碌堂)編1909毎夕新聞社 / 『ニュースで追う 明治日本発掘』1995河出書房新社 / 『在野名士鑑』山田倬(秋村)・ 武部竹雨(弁次郎)編1892~1893竹香館 / 『成功百話』大月隆編1910 文学同志会 / 『珍物画伝』珍物子編1909楽山堂書房 / 『東京商人奇人廼智慧袋』佐野喜多編1884商弘堂 / 『東洋実業家詳伝. 第1編』久保田高吉編1893博交館 / 『日本鉱業名鑑』1913鉱山懇話会編 / 『明治豪商苦心談 : 南海立志』岩崎徂堂編1901大学館

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