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2021年9月25日 (土)

博徒で学者で漢詩人、子分が三百人ばかり日柳燕石

 マスク生活もこう長引くとウンザリだが仕方がない。プロ野球、球場で応援したいがテレビ中継を見るだけ、それもガラガラのスタンドを見馴れたのがまた淋しい。これじゃ、少しはあったカラ元気も消える。そこで、活発でユニークな人物を選んでみた。
 前にも同じ事を考え天狗煙草の岩谷松平を書いたが、今回は幕末の博徒で初代総理大臣・伊藤博文とも交流があった日柳燕石を紹介。

   ―――日柳は博徒の頭で学者で詩人でこれが三百人ばかりの乾分(こぶん)を持っていた・・・・・(伊藤博文)。
 日柳の侠客名は加島屋長次郎、勤皇博徒で長州(山口県)から四国・讃岐国(香川県)に逃れてきた高杉晋作を匿ったことでも知られる。
 波乱に富んだその一生、知れば元気が出るか。それとも、さあこれからと出陣したものの命を落とした俠客に無情を思うか、ともあれ日柳燕石を見てみよう。

     日柳 燕石   (くさなぎ えんせき)

 1817文化14年、讃岐国那珂郡榎井(えない)村(香川県仲多度郡琴平町)で生まれる。
   名・政章、通称・長次郎。父・総兵衛、母・幾世。家は、榎井で質商を営む素封家・加島屋。
長じて博徒の仲間に身を投じたが、幼少のころから学問を好み、叔父の石崎近潔、儒医・三井雪航(みいせっこう)について経史詩文を学んだ。
 ちなみに、讃岐出身の平賀源内の志度町の旧宅には子孫が住んでいる。

 1833天保4年、16歳の頃、土地柄の影響もあり酒色を覚える。
   榎井村は金刀比羅宮(金比羅様)の社領に隣接する幕府領で、旅籠・茶屋が多く、また「榎井で博打を打たないのは石の鳥居だけ」と唄われたくらい博打が盛んだった。
 1837天保8年頃、父母を喪い、さらに放蕩に明け暮れ家産を使い果たす。
 1840天保11年、頼山陽に学んだ儒学者で志士・森田節斎に感化される。

 1844弘化元年、長崎を訪れ海外事情に触れる。
 1845弘化2年、28歳。自宅を売却。
   博徒の親分として知られるようになった燕石。自分が賭場を張る理由を、「すでに田畑を売り尽くし払ってしまって、来客に出す酒を買う金がない。有産者の家に育ったため、人に頭を下げることを知らず、能力もない自分には、博打のカスリを取ることしかできない」と。

 1850嘉永3年、尊王論者であった藩主一族の松平頼該(左近)に謁し、その紹介で藤川三渓と知り合う。
 1855安政2年、この頃から勤皇を論じ、久坂玄瑞・中岡慎太郎・伊藤俊輔(博文)・桂小五郎(木戸孝允)ら尊攘派の志士と交流。尊攘派の文人・侠客として世に知られる。
   ―――尊皇攘夷運動で中心的な役割を果たしたのは、藩士ではない草莽の志士とよばれる人たちであった。金比羅への参詣者よって讃岐の金比羅領には各地から情報がもたらされ、志士の往来も盛んであったから、金比羅では日柳燕石を中心にして・・・・・阿波の美馬君田・・・・・幕領池御料榎井村(琴平町)の長谷川佐太郎・奈良松荘ら尊攘派の人たちが活躍(『香川県の歴史』)。
 1863文久3年8月、天誅組挙兵。
   燕石は天誅組の松本奎堂と意気投合しており、参加する予定だったが病で実行できなかった。

   <幕末の讃岐>
   高松藩でも松平頼該(左近)ら尊皇派がいたが、薩摩・長州のような藩の背景がなかったため激しい弾圧を受ける。また、慢性的な財政難に苦しむ丸亀・多度津藩と違い、高松藩は徳川親藩であり、砂糖の専売制など財政豊かであった。鳥羽伏見の戦いでは高松藩は幕府軍につき、丸亀・多度津藩は新政府軍についたのである。
 当時、琴平は天領で幕吏の目が届きにくく呑象楼はたびたび志士たちの会合に利用されていたらしい。

   <呑象楼(どんぞうろう)
   日柳燕石晩年の居宅。もとは興泉寺住職の隠居所として建てたのを提供された家。その後、琴平駅から徒歩15分の現在地に移築。
 建物は屋根入母屋造・本瓦葺きの二階建て。からくり屋敷ともよばれ、吊り天井の戸板2階の壁をくりぬき、回転する壁など捕り手を惑わせる仕掛けが施されている。家の傍らに燕石の胸像がある。
 香川県出身の彫刻家・小倉右一郎による胸像は、日本一の大権現(象頭山)を呑み干すという気概を表現している。

 1865慶応元年5月、長州藩倒幕派・高杉晋作が反対派の追っ手を逃れて榎井村に来る。
   日柳は高杉とそのと愛妾を、自分の妾宅・呑象楼匿う。
   ―――当所にて日柳燕石と申す奇人に出会い、議論符合し・・・・・日柳氏は博徒の頭、子分千人ばかりもこれ有り、学問詩賦も腐儒迂生(ふじゅうせい)の及ぶ所にこれ無く、実に関西の一大侠客に御座候・・・・・(高杉晋作)。

   閏5月、高杉晋作は、無事長州へかえったが、燕石は美馬君田とともに晋作をかくまった罪で琴平の芳橘楼(ほうきつろう)で捕縛され、高松城下鶴屋町の獄に繋がれる。獄中で、高松藩内の保守派により入牢させられた藤川三渓と一緒になる。このとき、牢内が驚くほど不潔で死を覚悟する。

 1868明治元年正月、明治維新政府成立。燕石出獄、上京する。
    6月、北越征討軍・仁和寺宮嘉彰(のち小松宮彰仁親王)の日誌方となって出陣。
    8月25日、新潟県柏崎の陣中で熱病を発し、その生涯を閉じる。享年51。

 著書に、『呑象楼詩鈔』『象山雑詞』『江南遊記』『呑象楼遺稿』『西遊詩章』『呑象論文集』がある。その一部は国会図書館デジタルコレクションで読める。

   参考:『明治時代史大辞典』2012吉川弘文館 / 『香川県の歴史』1997山川出版社 / 『香川県の歴史散歩』2013山川出版社 / 『郷土資料事典 香川県』1998人文社 / 『日本人名事典』1993三省堂 

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