ティンブンヤー(天文屋)のウシュマイ(御主前)、岩崎卓爾
<真鍋淑郎(しゅくろう)氏ノーベル賞・物理学賞>
米プリンストン大上席気象研究員・真鍋氏は、物理法則に基づいてコンピューターを用いて地球の気候を再現する「気候モデル」という手法を1960年代に確立。地球温暖化予測の基礎を築き、気候変動対策に貢献したことが評価された(2021.10.6毎日新聞)。
「温暖化予測基礎築く」研究内容は解らないが、良いニュースで心が明るくなった。「米国籍」が少し寂しい。日本の研究環境が整わず、この先も研究者が出ていくのだろうか。
さて、沖縄や石垣島を観光したことがあるが飛行機でひとっ飛び。しかし、日清・日露間の明治30年代、東北から遠く離れた沖縄先島諸島に赴任するだけでも一仕事。その遠距離をものともせず任地で大い働き、研究にいそしみ、島人に敬愛された気象観測技師・八重山民俗研究家がいる。岩崎卓爾である。
岩崎 卓爾 ( いわさき たくじ )
1869明治2年10月17日、仙台・伊達藩士・岩崎享平・母いわの二男に生まれる。
長男が夭逝したため卓爾は跡継ぎ。
5月、函館五稜郭で榎本武揚ら降伏、戊辰戦争終わる。
年末、数十年ぶりの寒波が東北地方を襲い困窮。亘理城主・伊達邦成など北海道へ移住した旧藩士も多かった。
1877明治10年、西南戦争。卓爾8歳。
叔父の岩崎省三(のち宮城県志田郡役場の書記)が従軍、城山の西郷隆盛の軍と戦い武勲をたてる。その省三、「若い内は他の土地に出て人に会い、見聞を広げ、新しい知識が必要」と、*林子平『三国通覧図説』『海国兵談』を愛読する卓爾に影響を与えた。
林子平:1793寛政5年、56歳で病没。「親もなく、妻なく、版木なく、金もなければ、死にたくもなし」。大きな世界地図の上に横たわって死んでいたという。
1888明治21年、宮城県立第一尋常中学校卒業。第二高等中学校(現東北大学)入学。
1891明治24年10月、3年で中退。北海道で北海道庁の「物産共進会」アルバイト。
1892明治25年9月、気象観測手(測候手)の試験を受ける。
北海道でははじめて道内各地の天気予報を報じる業務を開始。測候手を増員することになり応募したのである。
10月、見習い測候手(気象研究生)として北海道庁札幌一等測候所に入所。
1893明治26年11月、正式な測候手となり根室測候所に転勤。4年間勤務。
この年、探検家・笹森儀助が沖縄本島・先島諸島の民情調査。
―――八重山諸島人民の一大困難のもととなっている旧慣取り扱いは残酷きわまる。水田のない各村に米を納めることを命じ、その村民たちに西表(いりおもてじま)島のマラリア有病地に水田を開かせたことである。鳩間島・黒島・竹富島・新城(あらぐすく)島の4島の人たちは、近くても二海里(約3.7km)、遠くは八、九海里以上も隔たっている西表島へ黒潮を越えてクリ舟で水田を耕しにいっている・・・・・八重山の人たちがあまりにも気の毒である(八重山諸島)。
1894明治27年、日清戦争。
1896明治29年10月、北海道庁測候所を退職。
1897明治30年2月、中央気象台雇員。
1898明治31年6月、高層気象観測のため他の職員と富士山頂で約2ヶ月測候。
9月、沖縄県八重山の中央気象台付属・石垣島測候所に技手として赴任。
石垣島赴任がきまると卓爾はいったん故郷の仙台に帰る。肉親に別れをつげ、神戸に向かい、神戸から月一回台湾の基隆(キールン)にむかう連絡船に乗り、石垣島に着任。
岩崎省三の世話で同郷の御殿医、八重樫家の三女・貴志と結婚。翌年、妻・貴志、仙台より来島。やがて7人の子をもうける。
<沖縄県>
(琉球処分)1872明治5年、琉球を鹿児島県の管轄から政府直轄の琉球藩としたが、1879明治12年、清国との宗属関係の断絶を目的に沖縄県を設置。
初期県政は一般に旧慣温存を名目とし、土地制度・租税制度・統治制度は王国時代そのままにすえおき、旧制度改革着手は1899明治32~36年土地整理からであった。
市町村制・衆議院議員選挙法などの施行も大幅に遅れ、大正後期ころからようやく諸制度も日本本土とほぼ同一になる。
<卓爾が赴任した明治30年頃の石垣島>
「島の人たちはまだ貨幣というものを信用しなかった。川平(かびら)や平久保あたりに行商して、マッチ1個と牛一頭を交換してきたという本当の話もあったくらいです」 宮古諸島や八重山諸島など、先島諸島には古いしきたりがそのまま残され、何百年も続いた人頭税など、非人道的・非人間的な古い制度の抑圧のため貧しかった。
1899明治32年9月、石垣島測候所長に昇進。
1901明治34年8月2日台風襲来。9月17日台風襲来。
1902明治35年、人頭税廃止。8月8日台風襲来。8月30日台風襲来。
1903明治36年7月30日台風・最大風速40.7メートル。台風は毎年襲来。
1904明治37年、日露戦争。
1907明治40年、メスアカムラサキ・ツマグロヒョウモン・カバマダラなどの蝶の標本を名和昆虫研究所に送る。イワサキクサゼミ発見。この他、岩崎の名を冠した新種はイワサキゼミ イワサキコノハチョウ イワサキワモンベニヘビなど。
1909明治42年、石垣島測候所新庁舎完成。『石垣島案内記』を自家刊行。
専門の気象のほかに石垣島を中心とする八重山諸島の自然、歴史、民俗に関心を寄せ、多くの論考をものにしている。身近なことをとりあげ、深い洞察をくわえる。
1912明治45年、『八重山童謡集』刊行。
八重山の気象観測と民俗研究に打ち込むが、当初は科学者としての生き方と島の古い風俗との溝はなかなか埋まらず、無理解から来る中傷や迫害を受ける。
やがて、その信念と誠実さは島人に理解され、敬愛され、ティンブンヤー(天文屋)のウシュマイ(御主前)と尊称され親しまれる。村夫子然たる生活に徹し、終生洋服・靴などは用いず和服で通す。
研究者が来島すると調査を助けるとともに、島の若者を案内にたてたりし郷土文化への自覚を促すことを忘れなかった。
以下、来島者名。
鳥居龍蔵。・ 菊池幽芳・ 田代安定・ 伊波普猷(いはふゆう)・ 武藤長平・ 柳田国男・ 田辺尚雄・ 折口信夫・ 鎌倉芳太郎・ 本山桂川・ 大島広・ 須藤利一。
1913大正2年、子の進学のこともあり妻・貴志は7人の子を連れて仙台へ帰り、卓爾一人の生活が始まる。
1914大正3年、八重山通俗図書館を創設。
台風襲来。6月30日・7月7日・7月12日・9月6日(台風観測中、右眼失明)・9月29日。
1917大正6年4月、「先島新聞」創刊。この秋より翌年5月にかけ190日日照り。
1919大正8年、勲八等瑞宝章。8月、コレラ大流行。
1920大正9年、『ひるぎの一葉』(国会図書館デジタルコレクションで読める)
1923大正12年、『やえまカブヤー』刊行。
1925大正14年、『沖縄写真帖. 第1輯』坂口総一郎著。石垣島測候所の前に立つ岩崎卓爾の写真掲載(同上)。
1937昭和12年、脊髄病に襲われ病状悪化。5月18日死去。享年88。
1974昭和49年、『岩崎卓爾一巻全集』刊行。
専門の気象のほかに、石垣島を中心とする八重山諸島の自然、歴史、民俗に関心を寄せ、多くの論考をものにし、科学的観察と詩情溢れる作品を残した。
参考: 『台風の島に生きる』谷真介1982偕成社文庫 / 『民間学事典』1997三省堂 / 『日本人名事典』1993三省堂 / 国会図書館デジタルコレクション
| 固定リンク
コメント