旧幕臣の実業家・秀英社創立・労働組合結成、佐久間貞一
昔、銀行勤めの時、お札を数え札束作りが苦手だった。それからウン十年、とある銀行のパート先で100万円束が次々出てくる機械に見とれた。久しぶりの社会は機械化が進み、諸事万端スピードアップしていた。
札束どころか現金不要のカード社会、スマホにコンピューター、便利で速い。しかし、ブログがやっとのおばさんはアナログでいいけど・・・・・無駄な抵抗か。
さて、明治期の印刷技術発達は世のため、人のためになったと思う。それに大いに貢献したのが佐久間貞一である。佐久間は活版印刷をはじめとして雑誌の創刊、製紙業その他に進出した実業家であるが、労働問題にも深い理解を示した。その事績を知れば知るほど素晴らしい。
2021令和3年10月、第49回衆議院議員選挙。世の中かまびすしい。佐久間貞一のような候補者に一票投じたいが、居るかなぁ・・・・・。
佐久間 貞一
1846弘化3年、江戸日本橋、幕府賄方佐久間甚右衛門の家に生まれる。
嘉永5年5月15日生まれとする資料もある。幼名・千三郎。
?年、安井息軒に漢学を学ぶ。
1865慶応元年、幕府が兵制改革で西洋式になり、佐久間も兵になり、同じ幕臣の*沼間守一と親しくなる。幕府の長州征伐のため京に赴くが撤兵、江戸に帰る。
沼間守一:政治家・言論人。『東京横浜毎日新聞』社長。嚶鳴社を主宰。
1868慶応4年/明治元年、戊辰戦争。上野の彰義隊に加わる。
1869明治2年、江戸開城とともに駿府を静岡と改称。静岡藩。佐久間も静岡に赴く。
1871明治4年、藩命で九州を歴遊し、各藩の動向、民情風俗を視察。
7月、廃藩置県。佐久間は時代の趨勢に感ずるところがあった。
1872明治5年、政府の北海道開拓計画に呼応。肥前天草の島民を率いて北海道に移住。
―――九州を廻って天草の島民が賃金が安くても熱心に働いていたので島の地主に相談、数十人を率いて北海道の浦川で椎茸栽培。政府も始めたので官業と競争になり、函館で友人と物産業を始める。
―――天草の島民を利用して潜水業を創め仏国博覧会へ出品の幾多日本の国宝が、フランス船ニール号、難破のため伊豆・女良港の海底に沈んだのを取り上げたのも氏の功労一つで、名古屋城の天守閣の金の鯱も取り上げた国宝の一つである(『春城代酔録』)。
1873明治6年、教部省*大教院(神仏合同布教による国民教化を推進)に出仕。
大内青巒(おおうちせいらん)と機関紙『教会新聞』を発行。
結婚。妻・保田天津子は内助の功あり、肺を病む佐久間をよく看病した。
1875明治8年、大教院解散。「教会新聞」を継ぐ形で『明教新誌』、『開智新聞』発行。
―――明教新誌、開智新聞などいふ当時の学者がこしらへたハイカラな議論ばかり載せた新聞雑誌(『英雄物語:良民講話』)。
1876明治9年10月9日、宏仏海・大内青巒と共同で活版所秀英社を設立。
秀英社を開業したものの当初は木版印刷で利益が上がらず、活版印刷の設備も不十分だったが、ベストセラー中村正直訳『西国立志編』(木版)の改正版の活版印刷を引き受け、初の純国産洋装本は大ベストセラーとなる。
このとき表紙の芯となる板紙は輸入、国内で入手できず佐久間自ら製造に取り組んだ。
1877明治10年、西南戦争。
戦争報道で新聞業界が活況を呈し、秀英社も日刊新聞を請け負い、仮名垣魯文『かなよみ新聞』、ついで沼間守一『東京横浜毎日新聞』 『国民新聞』を印刷し経営は安定。
まだ職工なども少なかったので、佐久間は職工に加わって文撰植字をした。また、自ら徒弟教育を行い、修養互助施設を設け9時間労働制、養老・退職手当積み立て制。勤続賞与・夏期休暇制など実施する。労資共存、工場法のなどの制定を主張。
―――佐久間氏は衷心労働を尊重し、社長でありながら、常に身を従業員と同じレヴエルに置き、率先従業員を導き、自ら活字を拾ふことも・・・・・病者が社員中にあると、下級の職工でも自分の別荘にやって保養せしめた・・・・・(『春城代酔録』)。
1885明治18年、石版印刷の泰錦堂を設立。
1886明治19年、東京板紙会社を設立。
1889明治22年、大日本図書会社設立。社長に就任。
―――*文部省は編輯局を置いていたが、民間にも学者が出来、活版事業なども盛んになって、競争するのは馬鹿らしいと、編輯や出版を止めることに・・・・・色々の著述や翻訳したりした原稿を反古にする訳にも行かぬ、本屋の誰彼に下げ渡しても公平でないと、一大図書会社を組織し、維持方法が確かなら下げ渡すことに・・・・・佐久間は東京中の書林と図り、大日本図書会社を設立し、文部省の版権や原稿を譲り受けた(『英雄物語:良民講話』)。
―――政府は佐久間氏の目論見の斬新なるを危ぶみ、ややもすると二の足を踏むような事があったが、氏の人格に信頼して思ひきつてやらせるようになつた。やらせて見ると着々成功するから、氏の信用は益々増長した。あの多病で身体の弱い人が、よくも百難を冒して邁往したものと、その気迫と勇気に感服させられる(『春城代酔録』)。
「東京開市300年祭」委員をつとめる。
牛込区選出の市会議員。
1890明治23年、活版印刷業組合設立、頭取となる。
*生巧館を起こし、西洋木版彫刻を奨励。
生巧館:けやきのブログⅡ2015.11.28<明治の西洋木版・東京美術学校フランス語教師、合田清>
1891明治24年、吉川泰次郎と謀り吉佐移民会社を設立。
日本は資源に乏しく人口が多いことをおもんばかり、日本郵船と結んで移民所業にも取り組む。
『印刷雑誌』印刷技術の向上発達を目指して創刊。欧米の関係18紙と交換し出版の国際交流をはかった。
1892明治25年、『国民の友』に改良主義的社会政策論を発表。
職工は幼いときから長時間、低賃金で酷使され、早世であることを知り、労働者の保護育成、労働条件の改善、労働環境の改革に向けて職工条例・工場法の制定に奔走。また、「職工組合の必要」を発表、ストライキも辞さないことを提唱した。
工場法:婦人・少年労働者を保護(1911明治44年制定)。12時間労働制など規定した最初の労働者保護法。ただし、例外規定や零細工場には適用されず不十分であった。
1896明治29年、貸資協会・国民貯蓄銀行を創設。労働者の相互扶助、経済的自立を目指す。
1897明治30年、*労働組合期成会評議員となって労働運動を支援、<労働運動の大恩人>と。
労働組合期成会:労働者の教育と組織化を目的として作られた労働運動団体。
1898明治31年11月6日、牛込区二十騎町の自邸で死去。享年52。
―――貞一が起こした事業は東洋移民会社、東京精米会社、国民貯蓄銀行、東京貸借協会、東京工業協会などで、東京市会議員、牛込区会議員、商業会議所議員、農工銀行重役、農高商会高等会議員等の役目を引き受けて公共のために寝食を忘れて働き・・・・・死んだ時には借金が十万円もあつたといふことです。之を以ても、自分のことは少しも思はずに、公共のために尽くした貞一の労を思はねばなりません(『英雄物語:良民講話』)。
―――わが国労働運動の大恩人にして、日本のロバート・オーエンとも云ふべき人なり(*片山潜)。
片山潜:明治・大正・昭和期の社会主義者。
参考:『100年目の書体づくり』2013大日本印刷 / 『出版会365日小事典』1996日本エディタースクール / 『民間学事典』1997三省堂 / 『日本人名事典』1993三省堂 / 『英雄物語 : 良民講和』河本亀之助 編1911良民社 / 『春城代酔録』市島春城1933中央公論社 / 『佐久間貞一小伝』豊原又男1904秀英社庭契会 / 『春汀全集. 2巻』鳥谷部春汀1909博文館 / 国会図書館デジタルコレクション
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