伝説の卓球人・ピンポン外交、荻村伊智朗
ぴんぽん。基礎のフォア打ち大好き、部活経験なし。それでもクラブに入り愉しんでいたが、理不尽な目に遭い辞めた。もともとカルチャーおばさん、体育館に行けなくても行き先はある。ところが、コロナ禍!どこの講座も相次ぎ休講。
仕方なく近場で行き先探し。図書館はいいとして卓球場があるが、どうしよう。行ってみると、感染防止で戸窓開放の教室で中高年男女が数人、マスクしてラケット振っていた。ステイホームよりいい、教室に入れてもらった。
コーチとフォア打ち、ボールの感触にびっくり。ボールが生きてるよう。うまく説明できないが、そう感じた。そうして、とりあえずのつもりが、はや2年。
練習は愉しいが、呑み込み悪く動けず、つい言い訳。言い訳ネタに尽き、「今日は仏滅だから」と暦のせいにしたら、次回、「今日は仏滅じゃないですよ」とコーチに笑顔で返された。
荻村伊智朗の自伝『笑いを忘れた日』は、卓球と無縁の人でも前向きになれそう。後半は卓球の技術・戦術、強くなるための金言満載だが、「卓球が世界をつなぐ」編に惹かれた。そこで、荻村の文を引用しつつ、けやき流に荻村伊智朗の生涯を見てみた。
けやきのブログⅡ 2014.5.31<外来の体操とスポーツ・卓球を明治日本に、坪井玄道>
明治・大正・昭和の卓球
1885明治18年、坪井玄道・田中盛業編『戸外遊戯法』一名戸外運動法出版。
1894明治27年、日清戦争。
1902明治35年、東京高等師範学校・坪井教授が留学先のイギリスからピンポンの用具とルールブックを持ち帰る。
1903明治36年、第5回内国勧業博覧会(大阪)で美満津が「ピンポン遊技場」を設け、模範試合を一般公開。
1904明治37年、日露戦争。
1914~1918年(大正3~大正7年)、第一次世界大戦(列強の殖民地をめぐる世界戦争)。
英・仏中心の連合国と独中心の同盟国が総力戦を展開。日本も日英同盟(明治35)を理由に参戦、中国での利権拡大を図る。
1918大正7年、宗教大学(大正大学)の千々和宝典が「卓で行う」「卓越に通じる」ことから「卓球」と名付けた(『卓球用語事典』)。
1926大正15年、明治神宮体育大会に卓球正式参加。スポーツとして認められる。
国際卓球連盟設立(ITTF)、第1回世界選手権ロンドン大会。
1927昭和2年、上海・極東オリンピック大会。公開種目に日本と中華民国が出場、団体・個人とも日本が優勝。
1931昭和6年、日本卓球会(日本卓球協会)発足。第5回世界選手権ブダペスト大会。
荻村 伊智朗
1932昭和7年6月25日、静岡県伊東市に生まれる。父・素男、母・美千枝。
ちなみに、2021東京オリンピック混合ダブルス金メダルに輝いた! 水谷隼選手・伊藤美誠選手ともに静岡県出身。
1940昭和15年、*紀元二千六百年奉祝「汎太平洋卓球大会」を日本で開催。
紀元節:明治政府制定の建国祝日。昭和23年、廃止。昭和41年、建国記念日となる。
1941昭和16年12月8日、太平洋戦争突入。日本軍ハワイ真珠湾攻撃。
1945昭和20年8月15日、第二次世界大戦終る。日本、無条件降伏。
1946昭和21年、第1回国民体育大会。卓球も種目に加えられる。
1948昭和23年、16歳。東京都立西高等学校入学。本格的に卓球を始める。
1950昭和25年、ITTF、日本・ドイツ・韓国などの世界選手権参加を承認。
1951昭和26年、東京都立大学(現・首都大学東京)人文学部に入学。
1952昭和27年、日本各地で日本対イングランド戦が行われ、日本15戦全敗。
全日本軟式選手権初出場・初優勝。全日本硬式選手権は東京予選で敗れ、日記に「笑いを忘れた日」、すべての努力を卓球に集中することを決意。
1953昭和28年、日本大学芸術学部に転学。全日本硬式選手権、単複とも優勝。
1954昭和29年、第21回世界選手権ロンドン大会。
<日本初出場で男女団体、男子単(荻村)優勝>
当時、卓球協会はお金が一文もなく遠征費の自己負担金を一人80万円に設定・・・・・荻村はお金がなかったが、夜中まで練習していた吉祥クラブの仲間が三鷹・吉祥寺・西荻窪・荻窪の駅にたって10円募金、荻村も3ヶ月間駅に立って「荻村をロンドンへ!」など一生懸命どなって募金に加わり、親戚にもカンパしてもらいやっと80万円集まり、卓球協会に納め・・・・・女子選手二人は、会社も景気が悪くて応援してもらえず辞退。
―――羽田からロンドンへ55時間かかり、ついたときにはへべれけになって、三日間くらい何もできなかった・・・・・イギリスは殖民地を日本にとられ・・・・・戦勝国なのにバターと卵は配給、行列できているありさまで、日本人がにくかったのです。
―――試合が始まると、私たちも「スポーツの本場、卓球発祥の地のイギリスでやっと試合がやれる。晴れ舞台だ」と、喜び勇んで試合場に入ったのですが、なにせ日本人がにくいのです・・・・・日本選手がサーブミスをしても拍手をします。一万人ぐらいの観衆が、どこの国の選手とやっても、日本選手が一本とられれば必ず拍手・・・・・スタンドで足を踏みならす・・・・・しかし、そうした雰囲気の中で、私は昂然と顔を上に向けるようにしてふるまい、調子も上がる一方でした・・・・・勝ち進んでいくと、観客だけでなく審判が敵になりました・・・・・ありとあらゆる意地悪をされ・・・・・そのような対日感情の嵐の中で、冷静な論評をしたのは『ザ・タイムス』紙「強いものは強い。日本選手は打法もすばらしいし、よく動く。若いが上手だ。無用な揚げ足とりはつつしもう」。
―――戦争中、日本軍がさんざんなことをしたので、反日宣伝が行き届き・・・・・ところがお互いに眼で見てわかるようになって、なるほどと思って変わってくる・・・・・今はイギリス人とも非常に仲良くさせてもらってます。イギリス人も大変だった、こっちも大変だった世界選手権でした。ちなみに荻村は英語が堪能。
1956昭和31年、日本大学を卒業し、三洋繊維に入社。
第23回世界選手権東京大会。団体・単・複の三種目を制す。
1957昭和32年、世界選手権ストックホルム大会。団体4連勝・混合複優勝。
森田時美と結婚。
1959昭和34年、第25回世界選手権ドルトムント大会。団体・複・混合の3冠。
11月~翌年4月、スウェーデンに招かれコーチ。その時、教えた17歳のアルセアはのちヨーロッパチャンピオンになる。
1961昭和36年、世界選手権北京大会。混合・複に優勝。
―――中国へは、まず香港に行き、一泊して入国ビザをもらって、境界線の深圳まで汽車で行き、そこから中国側に渡り、別の汽車に乗り換えて広東へ行き一泊して、それから北京へ・・・・・四日かかって北京へ・・・・・日本チームの訪中は中国側に大変喜んでもらえました・・・・・そのとき初めて周恩来総理と会ったのです・・・・・わざわざ日本選手団のために、明日発つという日に歓送会をやってくれました。
1962昭和37年、日中交歓卓球、中国と日本の双方で始まる。
1964昭和39年、東京オリンピック開催。東海道新幹線、開業。
1965昭和40年、現役引退。日本卓球協会理事、新設の強化対策本部の強化主任。
1966昭和41年、全日本硬式選手権を「全日本選手権」と改称。
第3回北京国際大会。文化大革命の嵐の中で開催。
1971昭和46年、第3回世界選手権名古屋大会。男女とも日・中で決勝。
<ピンポン外交>
―――荻村は前から中国の国際卓球舞台への復帰に向け水面下で活動。その働きかけのおかげで、中国の首相・周恩来は中国代表が世界卓球選手権名古屋大会に参加することを許可、中国代表が6年ぶりの復帰を果たし、やがてリチャード・ニクソン大統領と毛沢東主席の会談にまで繋がる。
1972昭和47年、ATTUアジア卓球連合結成。日本・中国・朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)などが中心になり、北京で開催。
第二次大戦後、アメリカの軍政下に置かれていた沖縄が返還される。
1973昭和48年、沖縄で沖縄復帰記念特別国体。ITTF国際卓球連盟理事。
海外での指導にも積極的に関わる。
1979昭和54年、第35回世界選手権ピョンヤン(北朝鮮)大会。
ITTF国際卓球連盟会長代理。
段位制を導入。全日本選手権出場に「有段者であること」を義務づける。
私事ながら、卓球教室のコーチは有段者、全国大会によく出場する。
1980昭和55年、日本卓球協会専務理事に就任。
第1回ワールドカップ、中国優勝。日本は斎藤清の4位が最高(2003年の記述)。
1981昭和56年、国際オリンピック委員会(IOC)が、卓球競技をオリンピックの正式種目に加え、ソウル大会から実施を決定。
1987昭和62年、荻村伊智朗、現職のエバンス会長を破り、第3代ITTF会長就任。
日本人初の国際競技連盟会長として卓球の発展と国際化に尽力。
1991平成3年、JOC日本オリンピック委員会の国際委員長に就任。
世界卓球選手権千葉大会。「統一コリア」の参加を実現。
大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の「統一コリアチーム」結成と千葉大会出場を実現させ「ピンポン外交官」と呼ばれ内外から高く評価された。その際、荻村は韓国に20回、北朝鮮に15回足を運び、朝鮮半島で統一チームを結成するように訴え続けた。また、日本の地元首長にも呼びかけ、長野市・長岡市・千葉市で合同トレーニングキャンプの設立に成功した。
1994平成6年12月4日、肺がんで死去。享年62。
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1997平成9年、世界卓球殿堂入り。田中利明、松崎キミ代、江口冨士枝らと共に。
、 ジャパンオープン卓球選手権大会を、荻村杯国際卓球選手権大会と改称。
―――「相手があってこそ」相手がいなければいいゲームができないのですから、試合直後は、やはり相手といいゲームを作ったことをおたがいに喜び合い、讃え合うというところからはじまらなければいけないと思います。それは、生きる喜びを知っている、スポーツがふたたびできる喜びを知っている人たちには、自然にできたことです。
参考:『笑いを忘れた日 伝説の卓球人・荻村伊智朗自伝』2006卓球王国 / 『卓球知識の泉』藤井基男2003卓球王国 / 『卓球用語事典』伊藤条太2021誠文堂新光社 / 国会図書館デジタルコレクション
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2022.9.29
<日中国交正常化50年> 新たな「共存」築く努力を
―――日本と中国が国交を正常化してから50年を迎えた。戦争状態に終止符を打ち、友好の土台を作った記念すべき日である。だが、政治対話は滞り、両国関係はぎくしゃくしている。祝賀ムードは感じられない・・・・・(2022.9.29毎日新聞)。
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