登山家・植物学者・尾瀬の父・武田久吉、父はアーネスト・サトウ
<日本人で初めて万国郵便連合(upu)トップに選出>
・・・・・UPUは、1874明治7年に設立された国際機関。国際郵便のルール作りを担い、約190ヵ国・地域が加盟・・・・・目時政彦さん(62)「郵便は世界中の国と国民生活に密着した重要なインフラ。いかに人類の文化や社会、経済に貢献できるかが私の使命だ」。8月、国連の専門機関である万国郵便連合(UPU、本部・スイス)の次期事務局長に日本人として初めて選出された(毎日新聞2021.9.28)。
郵便大好き、友人知人によく手紙を出す。娘と同世代でアメリカ・ソルトレイクに嫁いだ彼女にはメール、たまにはハガキを出す。ハガキは世界各国70円均一。普通葉書63円に7円足し、相手国の言語で宛先を書けば日数はかかるがちゃんと届く。
ところで、黒船騒ぎから開国したばかりの幕末日本、郵便制度どころか海外との往来が一大事業。そうこうするうち時代は大転換、公私を問わず来日外国人は増えるばかり。その外国人、また相手をする日本人にとっても欠かせないのが通訳である。
外国人通訳の中には日本を愛し日本に骨を埋めた人物もいれば、帰国しても日本が忘れられず再来日、また著述で世界に日本を紹介した人物も少なくない。
武田久吉の父は、日本を愛したイギリスの外交官、日本研究でも著名なサー・アーネスト・サトウである。
けやきのブログⅡ 2017.10.7<英国公使館員アーネスト・サトウが信頼する会津藩士・野口富蔵(福島県)>
アーネスト・サトウ (佐藤愛之助)
1843天保14年、イギリスで生まれる。
1862文久2年、駐日イギリス公使館通訳生として来日。1865慶応元年、通弁官。
1868明治元年、書記官。イギリス公使オールコック・H・S・パークスを助けて活躍。反幕派の志士と交わり、反幕派を支持するイギリス対日政策の展開に貢献。
勤務地日本の歴史・地理・宗教・美術・文化などの研究に努める。
1881明治14年、『中部および北方日本旅行者案内』サトウ、ホーズの共著。
―――親日家のサトウは、佐藤の姓を名乗った。これが日本人に親しみやすかったので、大きなメリットとなったようだ・・・・・現地調査を行ったため、学術的色彩の濃いものとなった「中部及び北日本旅行案内」は、外国人たちが旅行する際の手助けとなった。(富山県立山カルデラ砂防博物館博物館だより62)。
1883明治16年、帰国後、シャム(タイの旧称)などに勤務。武田カネとの間に二男・久吉生まれる。
1895明治28年、イギリス公使として再来日。
1900明治33年、中国公使として義和団事変などを処理。
1929昭和4年、死去。享年86。
武田 久吉 (たけだ ひさよし)
1883明治16年3月2日、東京で生まれる。
父のサトウは久吉が生まれてすぐに帰国するが、麹町区富士見四丁目(千代田区富士見二丁目)に家を購入して離日。後年、武田邸の跡地を法政大学が買収、80年館(図書館・研究室棟)が建てられた。
母校の法大図書館が武田家の跡地とはしらなかった。コロナが収束したら行きたい。
1884明治17年ごろ。サトー、シャム総領事休暇中に日本を訪れて家族と再会。
1889明治22年、富士見小学校入学。理科の授業はまったくなかった。
1890明治23年、サトウはウルグアイ駐在領事時代、7歳の久吉に近況を知らせる日本語の手紙を書き、英語を学ぶよう進言。
1892明治25年、久吉はモロッコ駐在領事となった父のサトウに英語で手紙を出す。
以降、植物と登山を共通の趣味とする父子の文通はサトウの最晩年まで続く。
1897明治30年~1901明治34年、東京府尋常中学校(のち日比谷高校)。
―――牧野富太郎先生に親炙するの機会を得、野外において親しく草木を観察し、その性情をを知悉せんと努力をつづけ(武田久吉)。
1901明治34年、東京外国語学校で語学を学ぶ。傍ら、植物採集をして牧野の研究資料に供し、知識も得る。
1905明治38年夏、尾瀬に入る。これまで「花の姿」を訪ねて各地の山に登っていたが、尾瀬を訪れてこの世のものとも思えない「自然の楽園」に感動し「尾瀬紀行」と題し『山岳』に発表。
―――見よ眼前に展開した尾瀬沼。背にした燧(ひうち)には未だ薄雲がまつわるが、湖を距てて大清水平から三平にかけた平らなスロウヴは夕栄えに輝いて、風に動く湖面には金波銀波が踊る(武田久吉)。
尾瀬の存在を国内にひろく紹介。尾瀬の保護に力をそそぎ、ダム建設計画、道路計画などの反対運動に果たした久吉の役割は大きい。尾瀬を破壊しようとする権力に対して投げかける言葉はきわめて厳しく、一般の観光客のモラルへも批判を向けた。
尾瀬で若き日の中沢厚(民俗学者)と出会い、山梨の民俗・考古を綴った山中共古(笑えみ)、『甲斐の落葉』を彼に教え影響を与えた。
10月、山岳会(のち日本山岳会)発起人。
武田久吉、紀行文作家・小島烏水、高頭仁兵衛(『日本山嶽志』)ら7人。山岳会機関雑誌『山岳』を年3回発行。
1904明治37年、久吉は学業を終えたが、英国留学していた兄・栄太郎が病気療養でアメリカに転居したまま永住。久吉は寂しがる母を気遣って留学せず日本に残った。
1905明治38年、日本山岳会を創立。
1910明治43年春、イギリス留学。
ロンドン大学・バーミンガム大学で植物学を学び、理工科大学では特待生。卒業後、上級学生に特別講義をし、また植物学、木材学の実験を指導。王立キューガーデンで植物の研究に邁進。また、登山好きの父親・サトウとしばしば植物採集に出かけた。
1913大正元年、帰国。
1915大正4年、再び渡英。バーミンガム大学で研究。
1916大正5年、帰国。
色丹島の植物の研究で東京帝国大学より理学博士の学位を授与される。
京都大学臨湖実験所講師。
1917大正6年、このころから木暮理太郎と深く交わる。
―――『明治の山旅』「甲斐駒」の冒頭。「木暮理太郎君は日本の生んだ登山家中の第一人者としては空前はもちろんだが、恐らく絶後であろう」・・・・・武田が木暮に傾倒したのは・・・・・武田の専門がエコロジーであること・・・・・物質・エネルギーを含めた自然の循環システムを大前提にしていて、それが木暮の家の生業、農業の基礎であり、他方に木暮が関東の自営農民の出で、自己自身の主人であり自主独立の精神の持主であることが、おもな理由ではあるまいか(『山の思想史』)。
1920大正9年、北海道大学講師。
1928昭和3年~1939昭和14年、京都大学講師。
1941昭和16年、―――尾瀬平を水底に歿して、机上での計算通りに水を溜めるには、米国あたりからでも技師を頼んで来ない限り、出来ない相談であろう。日本人の技師なら、いくら西洋かぶれのした人でも、心の底に郷土愛の深い温かい情が、いくらかでも残っている。そんな人が技師長ではこの無二の宝物を、徹底的に破壊する事業を成し遂げる気遣いはあるまい・・・・・(武田久吉)。
電源開発による尾瀬ヶ原貯水池と揚水発電計画があり、厚生・文部両省の役人や学者、山岳家などによって尾瀬保存期成同盟が結成される。日本において「自然保護」という言葉のはじまりは「尾瀬ヶ原」とも。
1945昭和20年、太平洋戦争敗戦。
戦後、自然保護を訴える。
1948昭和23年、日本山岳会設立。初代日本山岳会長。
1892昭和25年、磐梯朝日国立公園指定。戦後数年間、国立公園中央審議官を務めた。
―――ある年の夏の終わりに、ぼうぼうと人をうずめる山麓の芒(すすき)の原を見ようとして、会津磐梯山を訪れたことがある。ふと山羊が登路のかたわらにつながれているのに気づき、周りを見わたしてやっと仙人の隠れ家のような子舎が目に入った。もし山羊が鳴かなければ、あたりの人気に感づかぬまま通りすぎたことであろう(武田久吉)。
1960昭和35年、日本自然保護協会評議員、国立公園協会評議員を歴任。
1970昭和45年、秩父宮記念学術賞。
1972昭和47年6月7日、死去。享年89。
妻の直(旧姓末吉)との間に娘2人。
著書。『民俗と植物』(野菜と山菜) 『明治の山旅』 『路傍の石仏』 『尾瀬と鬼怒沼』 『高嶺の花』 『登山と植物』(登山春夏秋冬・山人の寝言・深山の珍味・新緑の色と香)
参考:『民間学事典』人名編・事項編1997三省堂 / 『日本人名事典』・『外国人名事典』1993三省堂 / 『山の思想史』三田博雄1977岩浪新書 / 『科学随筆全集・植物の世界』牧野富太郎ほか著1961学生社 / 『現代紀行文学全集 山嶽篇』1958修道社
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