話芸は天下一品、多芸多能な徳川夢声
月が美しい。気付けば秋たけなわ、夜の月はもちろん暁の残月も風情がある。詩心、句心があれば余韻を表現できるのに素養が無く、残念。
余韻といえば、昔、徳川夢声という話芸の達人がいて、子どもながらラジオから流れる声に惹きつけられたことがある。
大人向けの朗読なのに、子どもをラジオの前に座らせるほど素晴らしい声音(こわね)だった。
末尾に同時代人、*吉井勇の「徳川夢声」評を引用掲載。
吉井勇:明治~昭和期の歌人。艶情と哀愁の織りなす美の境地歌った歌人。
徳川 夢声
1894明治27年4月13日、島根県美濃郡益田町(益田市)で生まれる。本名、福原駿雄(としお)。
?年、幼いころ、母と生別。気の弱いところがあったが、教室ではよく落語をしてみなを喜ばせた。
?年、 東京府立一中卒業。
?年、 旧制一高(現東大教養学部)を受験するも二度失敗。
1904明治37年、日露戦争。
1914大正3年、第一次世界大戦。
1913大正2年、19歳。父親のすすめで「活弁」(映画の説明者)になり、清水霊川に弟子入りして福原霊川を名のる。
1915大正4年、徳川夢声に改名。
主に西洋物といわれた外国映画の説明を受け持ち、流行の美文調に対抗して淡々と文学的に説明。リアルな説明でインテリ層の支持を受ける。
1924大正13年、ラジオの実験放送時から出演し、まもなく開局されたJOAK(のちNHK)で、漫談と称した滑稽話で人気者となる。
1925大正14年、新宿武蔵野館に主任弁士として迎えられ、人気を独占。
?年、 映画がトーキー時代となり失業。
?年、 多芸多才でナヤマシ会とムラオ劇漫談などを発表する芸能人の仲間に加わる。
1933昭和8年、古川緑波(ろっぱ)、大辻司郎らと浅草・常盤座で喜劇団「笑いの王国」結成。
1934昭和9年、著書『くらがり二十年』
軽い風俗評論や、随筆などにも異才を発揮した。夢諦軒の筆名もある。
1937昭和12年、岸田国士、杉村春子らの文学座結成に参加。
話劇俳優として卓抜の演技を見せる。また、東宝系映画に計35本出演、俳優として活躍。
1939昭和14年、吉川英治の『宮本武蔵』や「西遊記」をNHKが連続放送。夢声の朗読が評判になる。
独特な「間」を持つ新しいスタイルを完成。話芸は天下一品と称され、放送芸能家として全国的な人気を得る。
1941昭和16年12月8日、日本軍ハワイ真珠湾を奇襲攻撃、対米英宣戦布告。
1945昭和20年、太平洋戦争敗戦。
―――広島は8月6日、米軍が投下した一発の原子爆弾で廃虚と化した。死者は・・・・・約15万人にも上る。未曽有の惨禍から復興を目指す広島の実情を国内外に伝えようとした記録映画があった。昭和23~24年にかけ被爆地広島を撮影、題名は「平和記念都市ひろしま」(モノクロ35ミリ、約20 分)・・・・・川崎市市民ミュージアムが所蔵。吹き込みは、「話芸の達人」といわれた徳川夢声氏である。広島で原爆死した新劇俳優・丸山定夫氏と親しく、彼が率いた移動劇団「さくら隊」慰霊碑建立を呼び掛け、自宅玄関には「さくら隊殉難碑建設仮事務所」の看板を掲げていた・・・・・(知られざる記録映画)。
<夢声の戦後>
テレビ時代になっても、新しい分野に対応し、日本放送芸能家協会理事長として活躍。
ラジオ番組「話の泉」「サザエさん」。
テレビ番組「こんやく問答」 「私だけが知っている」 「テレビ結婚式」。
1951昭和26~1959昭和34年の8年間、『週刊朝日』連載の対談「問答無用」は400回を数え、さらに幅広い人気を獲得した。
1960昭和35年、『夢声戦争日記』全5巻。
―――随筆、ユーモア小説、句集など著書が多く、また、非常にまめな生活記録者で、戦時中の庶民の暮らしを知る貴重な資料である・・・・・聞いていて、思わず引き込まれる夢声の話芸は独特の「間」つまり話のなかのしゃべらない部分にあったといわれる・・・・・夢声を伝統的な口承文化の系譜に位置づけることもできよう。しかし、映画、ラジオ、週刊誌、テレビなど、近代的メディアへと活動の場をひろげ、しかもそれぞれのメディアのオーソリティとなったという点で、やはり夢声は希有の才能の持ち主、まさに「話術の神様」であった(『民間学事典』鵜飼正樹)。
1962昭和37~1963昭和38年、『夢声自伝』全5巻。
1965昭和40年、東京都名誉都民。
1971昭和46年8月1日、死去。享年77。
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<徳川夢声>
―――今夜久しぶりに私は、徳川夢声君の物語の放送を聴いた。浜本浩君作るところの小説「息子」である。筋は嘘を承知で見ず知らずの男を、十数年前に家出した息子として警察から引き取り、勤労奉仕やら何やら働いてもらつてゐるところへ、朝鮮で鉱山成金になつたほんとの息子が帰って来る、と云つたやうな人情噺めいたものだつたが、ほんとの息子の豪放快潤な性格が、この物語の結末を明るくして気持ちがよかつた。
夢声君のかういつた物語の放送では、吉川英治君の「新書太閤記」の中の桶狭間の合戦を聴いて感心したが、かういつた現代ものも手にいつたもので、つまらない事でも面白く聴かせる手際は、「名人」と云つたらお世辞になるかも知れないが、実にたいしたものである。
曾て久保田万太郎君はその「傘雨亭夜話」の中で、
「トーキーの出現とともに、映画説明者 徳川夢声は、床下の鼠の如く消えてなくなつた。・・・・・途端に、奥庭の狐火の如く、右のごとき各種の徳川夢声がそこに発生した。」
として、漫談家、映画俳優、喜劇俳優、ユーモア小説家、随筆家、談譚集団盟主、禁酒論者等の名称を、彼の名前のうへに加へてゐる。更にもうひとつ「物語の話し手」として新しい名称が彼の名前のうへに加へられなければならない。
久保田君は昭和十一年二月、既にもう彼に向かて、
「夢声よ、おんみは何処へゆく・・・・・」
と云つてゐるが、全く夢声といふ男位、変幻出没千変万化を極むる人間はないのである。 書き忘れたが、彼はまだそのうへに、ちよつと器用にホトトギス派風の俳句もつくる、兎に角いつぱしの俳人でもある。或る年土佐に来て一緒に高知公園得月花壇で飲んだ時、そこから見た夜景を写生したものに、
誘蛾灯 ネオンのつづき またたける
といふ句があつたのを覚えてゐる。
九月一日。 (『百日草』吉井勇1943桜井書店)
参考: 『「平和記念都市ひろしま」-知られざる記録映画-』(西本雅実2015-06広島市)/ 『民間学事典』1997三省堂 /『日本人名事典』1993三省堂 / 『コンサイス学習人名事典』1992三省堂 / 国会図書館デジタルコレクション
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