明治の劇作家・長谷川時雨、夫は「雪之丞変化」作者・三上於菟吉
2021年10月12日、社会人類学者・初の女性東大教授、中根千枝さんが亡くなった。
昔、講演を聴いた事を思い出す。場所は思い違いでなければ、有楽町に本社があった朝日新聞社のホール。ということは半世紀前、かなり前になるが、偉ぶることなく明るい口調の中根千枝さんを覚えている。ところが、それなのに、肝心の話をよく理解できなかった。
今、中根さんのベストセラー『タテ社会と現代日本』を読むと、難しい事を分かり易く説明している。講演はもっと分かりやすかったでしょうに、20代前半は自分のことで精一杯。社会を見る目もなくよく解らなかった。それでも貴重な経験として心に残っている。
中根千枝さんは1926大正15元年生まれであるが、それより凡そ半世紀前の1879明治12年生まれ、長谷川時雨(しぐれ)という日本初の女性劇作家がいる。
―――時雨は、夫、子、眷属たちの世話をこなしつつ仕事をし・・・・・達意の文章家として後世に残る『旧聞日本橋』等を書き、当時、他の追随を許さない"女性評伝"の作家でもあった。加えて起居振舞が際立っていたので、誰からも美人とささやかれ、終生つきあった六代目菊五郎、鏑木清方などの良き男友達や、坪内逍遙、佐佐木信綱のよき師に恵まれ、吉川英治らの崇拝者も多かった・・・・・(『長谷川時雨・深尾須磨子』)。
長谷川 時雨 (はせがわ しぐれ)
1879明治12年10月1日、東京日本橋通油町、長谷川深造の長女に生まれる。
本名・やす。父の深造は日本最初の代言人(弁護士)の一人であるが、長谷川家の暮らしは江戸の生活様式が色濃く残っていた。
1885明治18~25年、6歳~13歳。秋山源泉学校(私塾)に入学、読み書き算術を習うかたわら、長唄、日本舞踊などを稽古。
1891明治24年、時雨12歳。
この年2月4日、三上於菟吉、埼玉県北葛飾郡庄和町(春日部市)の裕福な医者の家に生まれる。於菟吉は旧制粕壁中学、早稲田大学英文科に進み、のち人気作家となる。
1894明治27年、日清戦争。
1897明治30年、時雨、佐佐木信綱主宰の竹柏園に入門、和歌や古典を学ぶ。
この年、"鉄成金"といわれた水橋家に請われ、子息の信蔵と結婚。信蔵の赴任先である岩手県釜石鉱山に赴き社宅に住む。ところが、信蔵の身持ちが悪く、空虚さを埋めるため創作をはじめる。
?年、 離婚を決意。帰京。女子語学校に入学し英語を学び、自立に備える。
1901明治34年、時雨は『女学世界』に小説「うづみ火」を投稿、特選となり、東京の新富座、大阪の角座で上演される。
1904明治37年、日露戦争。
1908明治41年、日本海事協会の脚本募集に「覇王丸」が当選、「花王丸」と改められ歌舞伎座で上演される。市村羽左衛門・尾上梅幸らそうそうたる顔ぶれで満都の話題をさらった。女性の脚本がこれほどのベストキャストで、歌舞伎座という一流の劇場でかかったのは初めてであった。
?年、史劇「操」が「さくら吹雪」と改題され、六世尾上菊五郎が上演。
時雨の写真は、芸者や女優に伍してプロマイド屋で売られ、美しかったので人気はいよいよ沸騰。
筆名を「しぐれ女」とし、劇作家としての地歩をかためた。以来、文壇・劇檀での地位が確立。小説・劇評も書いたが、舞踊にも興味を持った。
明治末期から大正初期にかけては坪内逍遙に師事して戯曲を手がけ、平塚らいてうの「青鞜」にも関わり戯曲や劇評を発表、女性作家としての地位を築いていった。
1911大正初年、舞踊研究会を作る。菊五郎と狂言座を起こす。
中谷徳太郎と雑誌「シバヰ」発刊。
1915大正4年、三上於菟吉と知り合い、交際を始める。時雨36歳、於菟吉24歳。
於菟吉は、「春光のもとに」を自費出版。しかし朝鮮独立運動に取材したため発禁となる。当時、於菟吉は無名で通俗物を手がけるようになって大衆文学作家として名をあげ、『雪之丞変化』で大衆の人気を博す。さらに、小説だけでなく「小心亭」と称して、翻訳や軽評論・随筆を書き、文壇に活躍中の人々に辛辣な矢を放った。
1919大正8年、長谷川時雨と三上於菟吉、二人は牛込矢来町に新所帯をもつ。
籍は入れず、各々戸主であった。
1921大正10年1月元旦、時雨の日記。
―――牛込矢来山里の寓居に 除夜の鐘をきゝながら花をさしていると、於菟吉、
その梅は――といふ。梅は間違ひでせう、千両をかゝへて梅がほけはじめ。
とい[ひ]て笑ふ。・・・・・二時ごろ 秋田雨雀、◯◯の二氏来訪・・・・・
十一時起床。天晴朗、日影あたゝかく。近隣の汚い屋根は 白雪におゝはれ 木の葉は 濡れて輝いてゐる。悦ばしき元日と思ふ。・・・・・(後略)。
1922大正11年7月7日、時雨日記、解説から引用。
於菟吉の背信―――於菟吉の浮気を見て見ぬふりしてきた年上女房の配慮と誇りを、微塵に打ち砕く"証拠物件を無造作に妻の目に触れさせた夫"への、怒りの爆発。・・・・・日記は、昨日の夕刊で森鷗外の危篤を知り、すぐにお見舞いと思い乍ら、前日の事を知り、体調を崩して臥せる時雨から書き出される・・・・・(森下真理『長谷川時雨・深尾須磨子』)。
1923大正12年9月1日、関東大震災。
震災前の8月、文芸総合誌「女人芸術」をだすも震災で廃刊。のち、再刊。
1928昭和3年7月~1932昭和7年、雑誌『女人芸術』創刊、主宰。
『女人芸術』は、女流劇作家第一人者の時雨が、編輯・装本から執筆陣まですべて女性に委ねる異色の雑誌であった。
女流作家の育成に尽力、『放浪記』の林芙美子、円地文子、中条(宮本)百合子らを輩出らを輩出、少なからぬ女流の新人作家を世に送り出した。
大衆文壇の花形作家となった於菟吉は、2万円の印税を資金として提供、影ながら応援した。時雨は蒲柳の身を厭わず編集の実務に打ち込む。時雨の生涯のなかでもっとも華やかな時期といえる。
1933昭和8年、婦人団体「輝ク会」を結成して主宰し、機関誌「輝ク」を発行。
1934昭和9年、大衆作家・直木三十五を記念して直木賞が創設され、三十五と交遊があった於菟吉は初代選考委員となる。
1935昭和10年、『旧聞日本橋』序文・三上於菟吉。以下は時雨の自序。
―――事実談がはやるからの思いつきでもない。といって半自叙伝というものだとも思っていない。あまりに日本橋といえばいなせに、有福に、立派な伝統を語られている。が、ものには裏がある。私の知る日本橋区内居住者は――いわゆる江戸ッ児は、美化されて伝わったそんな小意気なものでもなければ、洗練された模範的都会人でもない。かなりみじめなプロレタリヤが多い。というよりも、ほろびゆく江戸の滓(かす)でそれがあったのかもしれない。私はただ忠実に、私の幼少な眼にうつった町の人を記して見るにすぎない。もとより、その生活の内部を知っているものではないし、面白くもなんともないかもしれないが、信実に生きていた一面で、決して作ったものではない・・・・・(後略)
ちなみに、『旧聞日本橋』は国会図書館デジタルコレクションにあり、参考のためちょっとのつもりが止まらなくなり、岩波文庫を借りて読んだ。
本編には、時雨の父・渓石の「実見画録」から選んだ挿絵もある。岩浪文庫はどこの図書館にもありそう。お時間のある方いかがでしょう。
また、古今の女性に題材をとった連作、『近代美人伝』上下巻も岩波文庫にある。有名無名の女性略伝は興味深い。以下、参考までに登場人物をあげておく。
上巻:明治美人伝・マダム貞奴・樋口一葉・竹本綾之助・豊竹呂昇・吉川鎌子・大橋須磨子・一世お鯉・松井須磨子・平塚明子(らいてう)
下巻:柳原燁子(白蓮)・九条武子・田沢稲舟・モルガンお雪・市川九女八・遠藤(岩野)清子・江木欣々女子・朱絃舎浜子・大塚楠緖子。
?年、 「輝ク会」を結成、前線の兵士や遺族、留守家族ら、立場の弱い者への慰問に挺身するが、無理がたたって病になる。
1941昭和16年8月22日、死去。享年62。
―――改めて思うのは、時雨の人柄のリベラルな柔軟性である。さまざまな個性に接し、時には不愉快な目に遭いもしたろうし批判を抱きもしたろうが、読者にそれを感じさせないのは、彼女の教養とバランス感覚のよさ、そして何よりは、天性あたたかな思いやり深い気質の故にちがいない。カンパをねだりにくる物乞いまがいの無産青年らを、威勢の良いタンカで追い払う激しさの反面、『女人芸術』を右も左も問わず、あらゆるイデオロギーを持つ書き手に、発表の場として提供した抱擁性も、時雨の性情の一面であった。
ただし、この寛容が裏目に出て、『女人芸術』はマルキシズムを主流とするようになり、発禁につぐ発禁によってついに休刊のやむなきに至る・・・・・(『美人伝』解説・杉本苑子)。
参考 『現代日本文学大事典』1965明治書院 / 『旧聞日本橋』・『近代美人伝』(上・下)長谷川時雨1983岩波文庫 / 『三上於菟吉・直木三十五集』1959講談社 / 『長谷川時雨・深尾須磨子』1999日本近代文学館 / 国会図書館デジタルコレクション
| 固定リンク
コメント