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2021年11月 6日 (土)

愛知県奥三河の篤農家、古橋暉兒

   <若い力 農業の未来に光>2021.10.29
 高校生たちの農業の取り組みを応援する「全国高校生農業アクション大賞」(毎日新聞社、JA全中主催)。
 農村部の過疎化や離農が進む中、若い発想で地域農業の未来を切り開こうとする北海道から熊本まで15校の計画を紹介。それぞれ取り組み方は様々でどれも興味深い。
 たまにパンを焼くのとペンネーム由来で、<北海道帯広高校農業科2年・小麦分会の超強力小麦粉『ゆめちから』100%道産小麦>と<「けやき」の保護更新活動をする東京都立農業高校・ケヤキプロジェクト>に目がいった。
 同級生に農家出身が幾人もいるが誰も農業を継いでない。田畑は殆ど住宅地になり田圃を見なくなって久しい。考えるべき問題だと思うが何もしていないので、「若い力 農業の未来に光」がまぶしい。
 ところで、世の中には困難に向き合い、世に尽くす人物がいる。たとえば、幕末から明治にかけ一揆や地震、また世情不安な時に人々を支え力になった*篤農、古橋暉兒(てるのり)である。
    篤農:熱心で研究心に富む農業家。

     古橋 暉兒   (ふるはし てるのり)

 1813文化10年3月23日、三河国設楽郡稲橋村(愛知県稲武町)の代々庄屋、古橋家六代目・義教の二男に生まれる。兄が夭逝し家督を継ぐ。古橋家は代々、源六郎を名のる。
 1831天保2年、古橋家は破産に近い苦しい状況であった。そこで、「家中什器及ヒ牛馬ニ至ルマテ」競売、徹底した倹約で天保の飢饉時を切り抜ける。また、味噌・醤油の製造を家業とし、農林業を本業とする経営に変え、名主の父の職務をよく手伝い家運を挽回する。

   <天保の飢饉:1833~36(天保4~7年)におこった全国的飢饉>
    天候不良で冷害・洪水・大風雨が続発、このため米価をはじめ諸物価が騰貴し、農村の荒廃、農民・下層町人の離散困窮はなはだしく、各藩領内で一揆・打ち毀しが激発した。幕府は救済を謀ったが不十分に終わり、幕藩体制の崩壊を促進した。
 暉兒は20代ながら「村の安定なしに自家の安定もない」と、私財を投入してまで村の立て直しにつとめ、信用と指導性を得る。
 1833天保4年、飢饉をきっかけに暉兒は、村民に呼びかけて惣百姓持山に杉苗の植栽をはじめた。1870明治3年までに35、500本を植え、凶荒・罹災・潰(つぶれ)百姓救済のための共有林とした。また、山はそのほかにも生活の糧をあたえた。

 1836天保7年、三河国の加茂一揆、参加人数5000人。翌年、大塩平八郎の乱などの天保一揆が頻発。暉兒は地元農民の利益のために、農業品種改良などに勤めた。
 1838天保9年、霖雨のため飢饉に瀕し、暉兒は施米救済の実をあげる。また、各村民をして共同貯蓄を進めた。

 1854安政元年6月、近畿地方に大地震。11月東海道、江戸に大地震。
   暉兒はたびたび義捐(ぎえん)施穀して窮民を救済。
 1854安政7年、日米和親条約締結。下田・箱館を開港。日英和親条約締結、ついでオランダにも長崎・箱館開港。
   暉兒は、こうした状況下で国学に近づき、村落防衛のために農兵を考える。

 1861~1863文久年間、暉兒は「世直し」という米の品種を産出。篤農家としての道を歩むが、開国が迫る情勢に国政的な危機感を抱くようになる。
 1863文久3年、三河吉田の神官の紹介で*平田篤胤死後の平田門に入る。
    平田篤胤:国学者。激しい儒学批判と尊皇思想が特徴。一大学派をなし、尊皇攘夷運動に大きな感化を及ぼす。
   暉兒は富国尊攘の方向を打ち出し、志士的活動を支援。また、勤皇家の書画を収集、志士・勤皇家・国学者に関する書画骨董は、今も、*「古橋懐古館」に保存されて一般公開している。
   農事の閑暇には武を講じ金を貸し鉄砲を購入させ、毎月1回射的を練習させた。
    古橋懐古館:名鉄豊田市駅からバス稲武下車。
 ?年、 平田門人の*佐藤清臣とともに、国学・農学を中心とした教育を志す。
    佐藤清臣:暉兒没後、「三河国蚕糸振興説」(古橋暉児1894三河皇道義会)を出版。佐藤清臣について、別名を神道三郎といい、戊辰戦争のとき官軍東上の先鋒となって、道々年貢半減を布告して東山道を進撃したが、偽官軍の名のもとに処刑されたと、『改訂郷土史事典22愛知県』にでているが、1868明治元年、処刑されているので年代が合わず、同一人か不明。

 1868明治元年、新政府の在野協力派として三河県(愛知県の一部)の暴動の鎮圧につとめる。
 1869明治2年、三河県に出仕(三等庶務足助詰)、伊奈県が置かれると権少属になる。
 1870明治3年、村民に輸出品の茶の栽培を奨励。
   各村で産出されるようになり、一時期は製茶は一大産物となった。また、清風校を興し、村の子弟を教育。
 1871明治4年、貿易輸入が輸出の4倍なのを憂慮して養蚕を奨励。
 1872明治5年、学制頒布により清風校を小学校に改める。

 1878明治11年、農談会設立。
   組合12ヶ村の労農と農事について談合。当時、古橋の嗣子・義真が北設楽郡長であった。義真は父の志を継いで三河国農会設立、県農会創立に至る。
   天保飢饉のときの計画的植林方法が、なお一層進められたのが北三河地方の林業であり、その維持には古橋の力が与っている。
   また、産馬や軍用馬改良などの事業にも貢献。
  ?年、 小学校教育の普及とともに、殖産工業政策に協力。
 1881明治14年、全国*農談会が開催され、政府委員と篤農とが意見を交換。
    農談会:農業発達のため篤農が集い、知識・意見を交換。
 1882明治15年、山林共進会開催。
   政府は全国の林業功労者558人を表彰、愛知県では古橋暉兒ほか12人受賞。この人数は全国15番目で全員が三河在住者、三河の林業は先進地の部類に入る。
 1884明治17年、各村の農民を集め、天保飢饉を経験した老人に話をさせ注意を促す。
 1885明治18年、藍綬褒章。
  ?年、山林開発に道を求め、松方財政下で自力更生運動と井山山林払い下げ運動とを結合させ報徳社を導入、稲橋村に<経済之百年>の基礎を確立。
 1892明治25年12月、病のため死去。享年79。
   著書に、「報国捷径」「経済之百年」「北設楽郡殖産意見書」「製茶意見書」などがある。
   三男二女あり。篤農家としての役割は、その子・義真、孫の道紀に継承されている。

   参考: 『開校廿周年記念東三河産業功労者伝』1943豊橋市立商業学校 / 『改訂郷土史事典22 愛知県』1982昌平社  / 『愛知県の歴史』2001山川出版社 / 国会図書館デジタルコレクション

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