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2021年11月13日 (土)

土方歳三を撮った箱館(函館)の写真家、田本研造

 今はコロナ禍で出かけてないが、友人と旅行すると写真を撮ったり、撮らなかったり。同世代は「もう写真はいい」といい、年下はスマホで撮ってメール添付してくれる。私はどっちでもいいが、バリ島の写真はむやみに多い。
 夫婦でバリ島へ行った時、ホテルで居合わせた女子二人と4人で市内観光、マイクロバスの運転手兼ガイドは日本語で冗談を言う現地のおじさん。見学先に着くたび写真を撮ってくれたが、もういいと言っても耳をかさず「ハイ並んで」。今思えば、夫婦写真はあまりないから記念になったが、他人はもちろん家族さえ興味がないだろう。
 しかし、写真が珍しかった時代なら話は別。写真の主が誰だろうと後世の私たちは興味津々で見入る。そうした幕末明治に箱館/函館で写真館を開業したのが、田本研造である。
 名を知らずとも彼の写真を見た人は多そう。例えば、函館全景写真、新撰組・土方歳三の肖像写真がそれである。 

     田本 研造   (たもと/たのもと けんぞう)

 1832天保3年4月8日、三重県南牟婁郡神川村(熊野市)の農家で生まれる。
   父は田本茂兵衛。別名は、郷里を流れる音無川(熊野川)にちなむ音無榕山(おとなしようざん)。
 1855安政2年、23歳。医学を志し長崎に赴き、蘭方医・*吉雄圭斎(よしお けいさい)に入門。医学や化学を学びつつ西洋科学の諸事情に触れる。
   吉雄圭斎:わが国、電気の療養の祖。

 1859年安政6年、27歳。圭斎の親戚、オランダ通詞・松村喜四郎が通弁官として函館に渡る。田本は松村に従い長崎から函館に移住。
   ところが、間もなく右足が凍傷になり、ロシア医師ゼレンスキーにより右膝を切断、一命を取りとめた。それで医師の道を諦めたが、ゼレンスキーとの出会いがその後の運命を変える。ゼレンスキーの写真撮影を手伝う内に写真に興味を持ち、*横山松三郎、木津幸吉とも出会い、写真術をすすめられる。
 まだ写真器械その他、薬品もなく、田本は横山の口授により道をひらき、苦心の末、遂に自らあまたの器械を製し薬品を発明し、漸く写真の技術を得る。
   横山松三郎:洋画家。文久年間、箱館でロシア人シーマンに洋画を学ぶ。1876明治9年、陸軍士官学校で石版・写真を教授。

 1866慶応2年、函館で写真店を開業。
 1867慶応3年頃、既に函館で営業していた木津幸吉とともに松前城(福山城)、松前藩士たち、土方歳三などを撮影。
    城は明治時代にその大部分が取り壊されているため、それらの写真は、今日では貴重な記録となっている。

 1868明治元年、採光用ガラス窓のついた本格的な写真館を開業。
   場所は、叶同館(現函館市元町東本願寺)付近で露天写場を開業、翌4年に会所町へ移転。これが北海道で初めての営業写真館でなかなかに繁盛した。

   函館戦争の最中も田本は函館に残り、土方歳三など旧幕府幹部たちを次々に撮影。次は戦いさなかの土方歳三を北海道松前郡「福島町史」より引用。
   ―――脱走隊・榎本釜次郎など、君(田本)の技を知り、依てその真を写し以て予め後世に伝ふるの備を為したりと云ふ、君が此の技に巧みなる今や轟然として名声北海に高し(『北門名家誌』)。
   旧幕府軍の榎本武揚や土方歳三を撮影したが、洋装姿の土方歳三は、田本の撮影した写真の中で最も有名。広くメディアに取り上げられている。
 1869明治2年、箱館戦争。土方歳三、徳川脱走軍と新政府軍の戦いに死す。
   二股口の戦い―――政府軍が上陸500人を投入・・・・・かつての新撰組副長であった土方歳三が、伝習仕官隊・新撰組・工兵らを率い、天狗山、台場山などに堅固な土塁を構築し幾重にも巡らして待機していた・・・・・三日間の戦闘がいかに激烈であったか・・・・・政府軍の長州・薩摩の近代装備をした精兵と互角にわたり合う、この二股口守備隊長・土方歳三の指揮能力がいかに卓越していたかを知ることができる
   箱館の決戦―――箱館を政府軍から奪回しようとする脱走軍は副総裁松平太郎、陸軍奉行並み土方歳三らが、五稜郭を出て箱館に向かう直線道路を進撃してきたが、一本木関門があり、この付近に布陣していた政府軍と銃撃戦になり、土方は近くの異国橋付近で戦死・・・・・。         この年、箱館を函館と改称。

 1871明治4年、新政府は函館に行政府として開拓使を設置したが、拠点を札幌に移す。
   建設が始まった札幌の町とその周辺の撮影を命じられた田本は弟子の井田幸吉を伴って出張。
 田本は、足が悪いせいか一度も郷里の熊野へは帰ることがなかったが、近況報告とともに北海道の写真を故郷へ送っていたようす。生地の神川町内にはそうした写真が残っており、多くの開拓記録写真が熊野古道センターに残されている。
  ちなみにこの年、開拓使顧問として*ケプロンが鉱山開発や道路建設の技術者を伴い来日後、間もなく写真機材一式がアメリカから届いた。
   ケプロン:アメリカ第2代農務著館。3度北海道を訪れ全道を踏査、札幌の年計画・大農経営・札幌農学校設立など北海道開拓の基礎を完成。

 1872明治5年、函館出張開拓使庁から東京に写真が送られ、政府に北海道開拓事業の進捗状況を伝えた。「札幌近郊写真二箱之内百五十八枚」は展示にも用いられた。

 1873明治6年、ウィーン万国博覧会。開拓使の写真を出品。
   なお、北海道開拓使の写真は田本の門下の武林盛一らに引き継がれた。
 1877明治10年、田本には実子がなく親族から養子・繁(大谷筆之助)を迎える。
   写真館はその後の函館の大火で何度も焼け、その都度、同じ会所町で再建したが、今は残っていない。江差に写真館を開業。
 1880明治13年、江差の写真館を閉店。
   この頃、湿版写真から乾板写真へ転換、人や風景だけなく出来事の記録も可能に。
 1882明治15年、「函館港全景」写真(函館市中央図書館蔵)。ガラス湿板からスキャンしたものが、NPO法人函館市青年サークル競技会発行のカレンダーで見ることができる。そのほか1856安政3年~2021令和3年までの箱館/函館も愉しめる。

 1883明治16年、田本は江刺から函館に戻り、養子の田本繁に写真館を任せる。
   ところが、研造の後妻に実子(田本胤雄)が生まれたため、繁は独立して別に田本写真館を興し、二軒の田本写真館が営まれる。
 1890明治23年ころ、開発された写真製版技術が写真の大量生産と普及をもたらし、田本はこうした写真をいち早く代表している。

 1900明治33年頃、門人の池田種之助を青森市に移動させ、中西應策の許でコロタイプや写真銅版を修行させる。
   中西應策と池田種之助はのち函館に渡り、北溟社・伊藤鑄之助の支援で田本写真館内にコロタイプ写真銅版を備える。
   この年撮影<コンブを採取するアイヌ女性>など、田本撮影の写真は『田本研造と明治の写真家たち』(日本の写真2)に掲載されている。数々の記録写真は、日本写真史上において今日高く評価されている。

 1912大正元年10月21日、函館で死去。享年80。

   門下からは多数の有名な写真師が輩出、函館のみならず、北海道における指導者的立場の写真師であり功労者であった。
 1981昭和56年、故郷の熊野市鬼ヶ城に顕彰碑・田本研造之碑が建てられ、名を冠した写真コンテスト「田本研造フォトフロンティア大賞」開催。
 2013平成25年、尾鷲市の県立熊野古道センターで、企画展「幕末の写真師 田本研造~土方歳三を撮った男~」開催。

   参考: 『北門名家誌』丸山浪人1894魁文舎 / 幕末明治の写真師列伝 第一回 田本研造ネット(森重和雄) / 『田本研造と明治の写真家たち』木下直之1999岩波書店 / みえ県政だより2003年・2013年 / 『福島町史』(第二巻)1995福島町史編集室 / 国会図書館デジタルコレクション

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2021.11.12記
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 ~幕末から戦後まで、時代(とき)をめくる~

1月、VIEW OF HAKODADI SNOW PEAK(安政3)/ 2月、五稜郭之図ほか(安政・文久・明治ほか)/ 3月、東西蝦夷山川地理取調図(万延元・安政7) /4月、箱館真景(慶応4)、函館港全景2田本研造(明治20)/ 5月、函館公園全図(明治15)ほか/ 6月、明治9年・明治15年函館全景(田本)/ 7月、金森商店錦絵(明治13)ほか/ 8月、明治25年函館全景ほか/ 9月、函館公会堂(明治44)ほか/ 10月、函館市電(箱館ハイカラ號)現代写真ほか/ 11月、末広町十字街付近(昭和3)/ 12月、函館鳥かん図・函館山山頂からの夜景写真。

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