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2021年12月18日 (土)

沖縄県令(知事)は最後の米沢藩主・上杉茂憲

 子育て一段落、40歳代からあちこちのカルチャー講座に通いだした。今はコロナ禍でどこもいってないが、何十年経っても忘れられない講座、教室がある。
 浦和高校の階段教室。漢文講座の初日、講師の長嶋猛人先生は開口一番「日清日露を生き抜いた皆さん、階段気をつけて」。えっ~そんな昔の人はいませんよと見回すと高齢者が多い。口は悪いが長島先生流の温かいユーモアにみんな笑顔。お陰で新参の私もすぐなじめた。
 毎回、古代中国の年表や関連地図が配られたが、先生ファンの受講生の好意だった。長く通いたかったが、先生が中国に派遣され講座は終了。残念だが仕方がない。でも、この講座で足を延ばし出ていけば好奇心を満たす世界があると知った。
 そして、法政大学通信教育部史学科入学。4年で卒業したのがプチ自慢。卒論は「柴五郎とその時代」、以来、会津贔屓になって今に至る。

 ところで、会津といえば奥羽越列藩同盟を忘れてはならない。会津藩の赦免を嘆願した奥羽14藩の反政府軍事同盟だが、会津・庄内藩を除き脱落する藩が多く、新政府軍に平定された。当然、賊軍とされた列藩同盟の側には、思うようにならない明治新時代が待っていた。
 列藩同盟の盟主であった米沢藩の最後の藩主・上杉茂憲は、東北から日本の南端、沖縄県の県令(知事)を命ぜられるが、その事と無縁ではなさそう。
 現代の沖縄は一大観光地。筆者も含め多くの人が訪れるが、140年前はどうか。東京にいたとしても沖縄は遠く、実情も分からなかったろう。ところが、上杉県令は短かった任期にも拘わらず、沖縄に近代化の種をまき、今も沖縄の人々に慕われている。
 それは茂憲の業績、そして沖縄が今もなお厳しい現実にあるからかもしれない。
 なお、上杉県令の時代から十数年後、沖縄県八重山の中央気象台付属・石垣島測候所に技手として赴任した東北人がいる。宮城県出身の岩崎卓爾である。
 <ティンブンヤー(天文屋)のウシュマイ(御主前)岩崎卓爾>(けやきのブログⅡ2021.10.16)。

     上杉 茂憲   (うえすぎ もちのり)

 1844弘化元年2月、上杉家十二代斉憲の長男として米沢城で生まれる。
   山形県出羽国米沢藩14万石は上杉謙信を家祖とする東北の雄藩。
 1868明治元年、戊辰戦争。
   奥羽越列藩同盟の推進役となって追討軍と戦い、新潟戦争では多数の戦死者をだした。23歳の茂憲は、父斉憲の代理として難局にあたった。戊辰戦争後、斉憲は隠居。茂憲は十三代藩主となる。
 1869明治2年、米沢藩知事に就任。
 
 1871明治4年、廃藩置県。知事免官。
 1872明治5年、ケンブリッジ大学留学。翌6年、帰国。
   琉球の王国制を廃止して琉球藩を設置。
 1876明治9年、二等弁官。宮内省第四部長。
 1879明治12年、琉球藩は沖縄県となり初代県令は、旧佐賀藩の分家の藩主・鍋島直彬。旧士族の特権を採りあげる秩禄処分(家禄、賞典禄)は明治43年に初めて実施。

 1881明治14年5月、上杉茂憲、第二代沖縄県令を命ぜられる。
   上杉県令は、補佐役の少書記官・池田成章(米沢藩家老の家柄)と力を合わせて、改革を進めようとする。
     <当時の沖縄の状況>
  旧慣温存:琉球王朝時代の貴族や官吏の特権をそのまま温存すること。言いかえれば、江戸時代から続くこれまでどおり「民を苦しめる」ことになる。土地・租税・地方の制度が琉球王朝時代のままで特権階級には都合がよかった。

  ―――政府が沖縄県の統治方法を「旧慣温存」としたのは、ひとつは清国との関係だ。つまり琉球王国当時の「朝貢貿易」に、原因がある。新政府はこれを廃止しようとした。しかし何百年にもわたって続いてきた琉球と清の国際関係を、いきなり一方的にむりやり打ち切るのには無理がある・・・・・しかし明治政府は強引だった(『上杉茂憲』童門冬二)。
  ―――(上杉県令は)漠然と「旧慣温存」と言われても、その実体がよくわからない。しかもその旧慣温存によって島民がどういう被害をうけているのか、そのあたりも把握する必要がある。県政を行う前に、「沖縄県民の生活実態をこの目で把握しよう」と考え・・・・・本島巡回の旅へ沖縄全土をくまなく歩いた。「沖縄本島巡回日誌」(秋永桂蔵)はその記録である(同上)。

   茂憲は赴任すると、さっそく本島から先島と呼ばれる離島まで積極的に視察。実情調査をして借金に苦しむ村々・学校視察し学事や教育問題・砂糖や蕃薯など産物・食糧問題などを把握し、政務補助の旧藩士・池田成章と収奪に苦しむ民情を何とかしたいと思い、政府に上申書を提出する。
     <離島の小学校>
   小学校は明治14年度には18校、翌年度には53校。伊江島をはじめ離島にも小学校はつぎつぎ開校したが、内実は貧弱で前途多難を思わせた。
   茂憲は人材養成のため県費留学制度を設け沖縄から東京へ留学生を送る。その中から、民権運動のリーダー謝花昇(18歳)、ジャーナリズムや政界で活躍する太田朝敷(15歳)、高嶺朝教(15歳)、岸本賀昌(15歳)らが有為の人材が育ったのである。
   『琉球・沖縄史』に第1回県費留学生の写真があり、また上杉県令がみた沖縄農村の実態についても分かりやすい。

 1882明治15年、中央政府に沖縄県政改革、とくに国税の超過徴収を軽減することを具申したが、政府はそれを受け入れなかった。
   上杉県令の上申書は読まれたが、この年は日本内外で多事多端の多い年でもあり、藩閥政府はきく耳をもたなかった。
   たとえば、4月、板垣退助が岐阜で遭難。自由党など政党結成がさかんになる。7月、朝鮮京城で反日暴動、日本公使館襲撃される(壬午事変)事件があった。また、東京でコレラが発生、晩秋にかけて全国で流行。11月、福島事件では党員と農民ら数千人が警官と衝突などなど、政情は安定せず、伊藤博文も憲法調査のためとしてヨーロッパへでかけていた。

  ―――県令着任以来10ヶ月ぶりに上京。県令としてつぶさにみた沖縄県民の窮状を太政官に訴え、県治の改革案を建白することにあった・・・・・天機御伺として参内したのをはじめ、内務、大蔵、農商務の各省に挨拶まわりをしてから、午後には岩倉具視右大臣を私邸に訪問・・・・・それからおよぞ十日間で、複数回にわたって面会、用談におよんだ高官・・・・・松方正義大蔵卿、山田顕義内務卿、鍋島直彬元老議官(前沖縄県令)・・・・・岩倉、山田、松方の3人に再三面会したのは、沖縄の税制にかんして、なにごとか働きかけることがあったからだろう(『沖縄の殿様』)。

 1883明治16年、県令解任される。
   「上杉県令が行っている諸改革は、時期尚早に過ぎ、かえって島民に混乱が生じている。これは、新政の趣旨を誤解されるおそれがある」「慢(みだ)りに旧慣をあらため民情を傷(そこな)う」として更迭される。後任は会計検査院長の岩村通俊が任命された。
   茂憲は、沖縄を去るにあたり、今なら億単位の奨学金3千円を沖縄のために寄付。
 勅任知事として特別県政下の沖縄で威を振るった戦前の沖縄知事のなかでは、異例の民主的県政をほどこした県令として、今も沖縄では高く評価されている。

 1890明治23年、貴族院議員に当選。明治30年、再選。
  沖縄を去った後は*元老院議官として東京で活躍。
   元老院:1875明治8年、大阪会議の合意により設けられた立法諮問機関。勅諭により憲法起草にあたり、「日本国憲按」を起草するが、岩倉具視らの反対により不採択。明治23年、帝国議会開設により廃止。

 1919大正8年4月18日、死去。享年75。
   墓は東京都白金の興禅寺。歴代の墓は米沢城跡の一画、上杉家廟所であるが、明治以降死去した茂憲以後は東京の興禅寺に祀られている。
 しかし、遺髪が埋めらた「上杉茂憲公瘞髪碑(えいはつひ)」は沖縄県民によって米沢の上杉家廟所に建てられた。

     ***  ***  ***  ***
   けやきのブログⅡ<2022.8.27米沢藩士・宮島誠一郎の明治、内務省設置案>

   参考: 『日本人名事典』1993三省堂 /『上杉茂憲』童門冬二2011祥伝社 / 『沖縄の殿様』高橋義夫2015中公新書 / ウィキペディア / 国会図書館デジタルコレクション

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