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2021年12月11日 (土)

岡山藩士・関新吾、新聞記者-官吏-福井県知事-社長-岡山市議

 今日は2021年(令和3年)12月8日。
  80年前の1941昭和16年12月8日は、日本軍マレー半島上陸・ハワイ真珠湾空襲、対米英宣戦布告した日。168年遡ると、黒船来航の年にあたる。

     岡山藩
 1853嘉永6年、アメリカ東インド艦隊司令長官、ペリー軍艦4隻を率いて浦賀に来港。幕府はむろん諸藩も大騒ぎ大慌てで軍備につとめる。
 中国地方の岡山藩は、房総(千葉県)警備の幕命がくだり、家老を総大将とする房総派遣軍が江戸に向かう。岡山藩は約1300名の藩兵・雑兵が訓練をかさねて房総沿岸警備にあたるが、房総駐留4年半、黒船を迎え撃つ機会は一度もなかった。
 1868慶応4年、大阪沿岸警備も命ぜられた岡山藩は借財がかさみ、扶持も行き届かぬありさまであった。1月11日、兵庫から神戸に向かう途中、岡山藩の部隊が外人墓地にさしかかったとき、発砲事件がおきる。薩摩藩士による生麦事件から6年後のことである。

     関 新吾
 1854安政元年5月、備前岡山藩儒、関外三の家に生まれる。幼名・孝太郎。号・黄蕨。別号・自由郷主人、清高道人。
   陽明学者・熊沢蕃山の余風を留める遺芳館で経書、史伝を学ぶ。
 1867慶応3年、岡山藩は西宮(兵庫県)警備を命ぜられ、家老以下2,150人を派遣。
 1868慶応4年1月11日、部隊が兵庫から神戸に向かって行進し外人居留地にさしかかると2名の外人があらわれ、隊列を横断しようとした。いったん、これを制止したが、一人がつぎに行進してきた隊列に割りこんだ。
 手まねで「供先へまわれ」というと真っ赤になって怒り、第二・第三砲隊を脱兎のごとく横断した。神戸事件である。
 成立したばかりの明治政府は、対外親善策が破綻することを憂え、真意を列国使臣に説明して、ようやく神戸の警守と港内に停泊していた筑前・大村藩などの抑留を解かせた。
 政府は西宮警備を久留米藩にかえ、厳罰に処した。第三砲隊長・滝善三郎は事件の責任を負って永福寺で自刃。従容とした武士の切腹は厳粛さで外人を感嘆させた。
 この時、関新吾は14歳だった。後年、瀧善三郎の記念碑・追悼碑を建てるにさいし、「関新吾撰碑文」を記したが、廃案の憂き目に遭う(「神戸事件で切腹した瀧善三郎正信の碑文をめぐって」原田益直2015岡山県)。

 この年9月、戊辰戦争はまだ続いていたが、明治と改元。

 1871明治4年7月、廃藩置県。5月、『新聞雑誌』創刊(のちの「東京曙新聞」)。
   藩士の子弟が学ぶ遺芳館も東京から洋学教師を招いた。ところが、洋書を手にする者が少なかった。しかし、関新吾・小松原英太郎・木庭繁らは率先して洋学を学んだ。

 1874明治7年、小松原英太郎(のち官僚・政治家)らと相前後して東京にでる。
   慶應義塾で学ぶ。学資が少なく貧書生だったが、それでも意気盛ん、東京の各新聞社に盛んに投書し名を知られ、『東京曙新聞』に招かれ記者となる。
   7月20日、『東京曙新聞』編集長・末広重泰(鉄腸)は政府攻撃の記事を書き、東京裁判所に呼び出され、罰金20円禁獄2月の判決を受ける。
 1875明治8年、政治評論雑誌『評論新聞』記者。のち編集長。
    評論新聞:月5~15回刊。士族の民権を主張し政府の政策を非難、前原一誠、西郷隆盛らの言動を支持。翌年、発禁となり109号で廃刊。
   6月、新聞紙条例・讒謗律公布。反政府の新聞・雑誌を取り締まる。

 1876明治9年2月20日、『大阪日報』創刊。新吾は招かれて編集長となったが、3月、『評論新聞』掲載記事の筆禍で、禁獄1年6ヶ月の判決を受け、服役。
   文章をよくし平野萬里・津田貞とともに三才士と讃えられる。また東京の吾曹・福地源一郎に比して関西の吾曹とも。新吾の記事を愛読する者が多かった。

 1877明治10年、禁錮満期で放免となり復帰、『大阪日報』編集に携わる。
    大阪日報:関西における民権派を代表する唯一の新聞として人気を獲得、紙価を高める。
  ?年、弟がコレラに罹り東京で死去。新吾はまだ若い弟を偲び「哭弟正泰」を詠じ涙。
 1879明治12年、『山陽新報』(のち山陽新聞)創刊。
   岡山県下、最初の日刊新聞創立の功労者は西尾吉太郎社長、主筆・小松原英太郎。参画したのは、関新吾ら「大阪日報」創刊当時の記者たち。
 地方議会開設を期に創設された民権派の新聞で、開明的な見解は次第に誌面に反映。国会開設の詔勅がでると『山陽新報』も私草憲法を新聞紙上に発表するなどして自由民権運動に取り組んだ。
 ところが、自由民権運動家の一部は運動から離脱して官界入りをし、一部は過激事件(大阪事件・景山英子など)に走る。
 言論の自由を唱え、民権の主張に努めた関新吾だが、自由党結成にあたっては一線を画し、官界入り。

 1880明治13年5月、元老院准奏任御用掛に採用され、以後、官界を歩む。
 1881明治14年、『経済談 : 小学口授』校訂。編著は中村護、出版は三木書楼。
   ちなみに当時の新吾の住所は、京橋区銀座4丁目15番地。
 1882明治15年、太政官に転じ、創刊期の官報の編集にあたる。
 1888明治21年、内務省に移る。
 1889明治22年、大分県書記官。
 1893明治26年、新潟県書記官。
 1894明治27年、日清戦争。大本営が置かれた広島県、書記官として尽力。
 1897明治30年、福井県知事。
 1899明治32年、正五位勳四等、退官。大阪の実業界に入る。
 1902明治35年、『大阪朝日新聞』入社、通信部長。
 1904明治37年、日露戦争。
 1905明治38年、岡山に帰郷。
 1908明治41年、『山陽新報』第二代社長。かたわら教育慈善事業に尽くし、岡山県教会長をつとめる。
  ?年、  岡山市議。
 1915大正4年9月13日 死去。享年、61。

   参考: 『明治時代史大辞典』2012吉川弘文館 / 『新聞記者奇行伝. 初編』隅田了古((細島晴三)編1881墨々書屋 / 『現代史用語事典』安岡昭男1992新人物往来社 / 明治時代の新聞と雑誌』西田長寿1961至文堂 / 『日本人名事典』1993三省堂 / 『岡山県の百年』1986山川出版社 / 国会図書館デジタルコレクション

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