ジャーナリスト・新聞学者・小野秀雄
今年も事件・事故いろいろありました。そして何より2年越しのコロナ禍!それでもいくらか下火にと思う矢先、オミクロン株!
この先どうなるんだろう。なのに、地震や火山噴火など被害を被った地域が少なくない。その災難が明日はわが身かも、他人事と思えない2021令和3年師走である。
明るいニュースもあった。将棋の藤井聡太竜王の四冠、大リーガー大谷翔平選手の大活躍である。新聞やテレビで、二人の活躍をみるたび心が明るくなった。
ところで、幕末はいうまでもなく明治・大正の昔はテレビがなかった。世間の騒ぎは瓦版、新聞が発行されると新聞記事で知ったのだ。その新聞、現代のようになる迄には新聞社、新聞記者、読者まで多くの人間が携わった。
そうして新聞が社会に浸透すると官の取締りが厳しくなる。『日本新聞発達史』に「新聞紙の恐怖時代」の章に次の項がある。
初めて記者の体形を科す・各紙言論擁護に努む・対応策協議・新律最初の犠牲者・一流記者続々体刑を科せられる・新聞雑誌の悪化と政府部内の反対・記者の獄内生活・朝鮮新聞の名声昂る・発行禁止発行停止・事件記事の進歩。
小野は新聞やジャーナリズムを対象とする研究が大学に制度化されていない時代から「新聞学」の制度化に尽力。新聞の事始め、発達、社の特徴、新聞記者など新聞にまつわるあらゆる事を研究した。経歴を記すとともに、『新聞資料-明治話題事典』にある明治の記事を挟んでみた。
小野 秀雄
1885明治18年、滋賀県栗太郡草津町(草津市)立木神社の神官の家に生まれる。
<時間励行会>M18.2.3東京横浜毎日新聞。 <女子選挙権の走り>M18.4.18改進新聞。 <マラソンのはじまり>M18.5.17自由灯。 <近藤勇の記念碑>M18.7.29朝野新聞。 <明治女学校>M18.9.11東日新聞。 <初代首相に伊藤博文>M18.12.24。
<明治政府大臣は天保生まれ>M21.5.3東日。
1894明治27年、日清戦争。
<日清戦争当時の流行>―――電話架設、自転車、短オーバーコート、婦人の肩掛け、雪駄・・・・・瑪瑙(めのう)の玉など当世向きといふ(27.2.25二六新報)。
1902明治35年、<大橋新太郎議員歳費をことわる>―――東京市選出代議士大橋新太郎氏は時事に感ずるところあり。歳費辞退の旨を申し出たるが・・・・・今や議会は政府に財政の整理を希望しながら多額の歳費を受けて自ら怪しまざるがごときは矛盾のはなはだしきものなり・・・・・(M35.12.8日本)。
1904明治37年、日露戦争。
<早慶戦はじまる>M37.6.6。
<小泉八雲ゆく>―――ラフカデオ・ヘルン氏は帰化して日本の臣民となり・・・・・氏の邸宅は大久保にあり、二十六日氏は突然心臓破裂のため自邸において逝けり(M37.9.29国民)。
1906明治39年、小野秀雄、第三高等学校大学予科卒業。
<初めて出来た女子判任官>―――女子行政吏員判任官登庸の嚆矢として郵便為替貯金管理所大阪、下関両支所における女子雇員十七名は・・・・・通信手に任ぜられ(M39.7.14東朝)。
<煩悶引受所>―――浅草区永住町密蔵院内に在る煩悶引受所にては・・・・・生活の戦ひに打ち負けたる落魄の人々の、慰めを得んものと訪れ来るもの毎日十人を欠かしたることなく、住職の松田密信師を初め、その他の役員も応接に忙殺され居る有様なり・・・・・(M41.9.20都)。
<「猫」>の旧宅焼失>―――漱石君の旧宅で「我輩は猫である」の材料にもなった本郷の家はこの間郁文館中学の火災で類焼した(M42.12.8読売)。
1910明治43年、東京帝国大学文科大学独文科卒業。
―――私は外国文学を専攻して新聞社会に身を投ずること約十年、新聞紙が常に社会の一部より蔑視さるるに拘わらず、社会国家に重大なる意義を有するの討究に興味を感じ、折にふれて欧米の新聞研究書を閲読しつつあつたが、三四年以来その徹底的研究を思ひ立ち、再び大学に席を置いて其歴史的研究に没頭したのである(小野秀雄)。
<ハレー彗星>―――東京では二十四日夕方五時三十分より約二十分間ほど雲の絶え間に見ることができた・・・・・(M43.1.26国民)。
<南極探検隊出発>M43.11.30報知。
1911明治44年~1915大正4年、萬朝報記者。政治記者として活動。
<夏目漱石博士号返上>M44.2.24東朝。
1917大正6年、記者として東京日日新聞入社。
<木曽義仲を知らない学生>―――教員曰く「大正の御代になってから歴史の人物として、時代変遷の第一系統におらぬ義仲は削除されています。これも時代の進化に伴う一つの現象でありましょう」・・・・・(T6.5.12)。
1919大正8年、在職のまま奨学金を得て東京帝国大学大学院入学。
1921大正10年、東京日日新聞休職。
<品川湾など、汐干狩で交通整理>T10.4.11時事。
1922大正11年、『日本新聞発達史』刊行。
―――一日一行の歴史も十年を積めば三千六百行の一冊子を編み出すことが出来る、残れる半生を投ずればやや理想に近きものを得べしと新治、其の研究を続けているのである。幸ひにして私が記者生活を送つた大阪毎日新聞(東京日日新聞)社の諸先輩は研究の為に多くの時間を与えられ、岩崎小彌太男は資料収集の為に経済上の援助を与えられ、上田萬年博士、三上参次博士、建部遯吾博士等は多忙の時間を割いて研究を指導・・・・・私の新聞研究に対し豊富なる資料の提供や懇切なる指導、援助・・・・・ことに曽我部俊治氏が多年の蓄積に成る新聞紙庫を解放され、岩崎家がモリソン文庫の蔵書閲覧を許されたるは深く感謝するところである・・・・・(小野秀雄)。
1923大正12年、東京日日新聞退職
この大正12年から翌13年にかけて、新聞学教育研究の調査でドイツ、英国、米国などをまわる。
1924大正13年、帰国後、大学院を退学。
吉野作造が主宰する明治文化研究会の創設に同人として参加。
1926大正15年、東京帝国大学文学部で無給の志願講師として世界新聞史を講じる。
1929昭和4年、東京帝国大学文学部嘱託。新聞研究室主任。
1932昭和7年、上智大学専門部教授を兼任。上智大学新聞学科開設。
<チャップリン大気炎>―――チャーリー君一年半余の世界流浪の旅もパスポートの期限が迫り・・・・・二日午後横浜解らんの氷川丸で、太平洋の波を越え世界漫遊の一編を完了する・・・・・(S7.6.3東日)。
<忠犬ハチ公の名誉>S8.11.24大朝。
1938昭和13年、東京帝国大学文学部講師。
1945昭和20年、太平洋戦争敗戦。
1946昭和21年、東京帝国大学文学部講師を定年で退任、引き続き同嘱託。
1948昭和23年、東京大学文学部嘱託を退任。上智大学文学部教授。
1949昭和24年、東京大学新聞研究所設立の際、講師として定年となっていたにもかかわらず特例措置として教授となり、同研究所の初代所長に就任。
1951昭和26年、東京大学退職。上智大学文学部教授。
日本新聞学会会長。初代会長として1966昭和41年まで永く活躍し、退任後も「名誉会長」と称された。
日本新聞学会:現・日本マス・コミュニケーション学会。
1966昭和41年、上智大学文学部教授を辞任、名誉教授。
上智大学では80歳まで勤めるなど、永く後進の指導にもあたった。このため、小野の薫陶を受けた研究者や、ジャーナリストは多数にのぼる。
小野が勲三等に叙されると、「弟子たちの間にその勲等に不満を洩らす者もあったが」、小野自身は「学者の中には高い勲章をもらう人が多いが、それは大学教授としての勤務が長かったからで、私のように学会会長の故をもって叙勲された人はほかにないようだ」と喜んだという。
1967昭和42年、日本新聞学会会長を辞任、名誉会長。
1977昭和52年7月18日、東京都千代田区で死去。享年92。
新しい分野の先駆者として、初期には包括的な概説書も手がけたが、研究の中心にあったのは近世・近代日本の新聞史であり、個人としても瓦版や錦絵新聞等の史料多数を収集し、コレクションを形成していた。
―――新聞紙が一日も理想を捨つべからざることはいふまでもないが、衆多と伍してしかも衆多の向上発展を忘れないところに新聞紙と他の印刷物の差異がある、対社会方針の重且つ大なるは此点にあつて存するのである(小野秀雄)。
参考: 『日本新聞発達史』小野秀雄1982五月書房 / 『新聞資料明治話題事典』小野秀雄編1995東京堂出版 / 『日本人名事典』三省堂1993 / 国会図書館デジタルコレクション / ウィキペディア
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今年も “けやきのブログⅡ” を読んでくださってありがとうございます。
お陰さまで10年余の記事数689、登場人物と皆さまのアクセスに励まされ書き続けられます。折々のコメントもうれしく、間違い勘違いの指摘もありがたいです。今後ともよろしくお願いします。
なお、コメントはまず筆者に届き、了解を得たものを掲載しています。
残念ながらコロナ禍は未だ去らないよう。どうぞ、充分に気をつけて良い年を迎えられますように(*^o^*)
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