小杉放菴(未醒) 画壇の巨匠は漫画、随筆、歌文、スポーツも得意
プロ野球、贔屓チームが負けて日本シリーズでヤクルト優勝も他人事。野球ニュースは見ないと思っていたが、都市対抗野球開幕で次の記事にひかれた。
―――優勝チームに贈られる「黒獅子旗」をめざし熱い戦い・・・・・第92回都市対抗野球、大会が産声を上げたのは1927昭和2年。まだプロ野球もない時代、東京六大学や中等学校野球(現在の高校野球)で活躍した選手のプレーを再び見たいという声が・・・・・開催に尽力した一人が、東京日日新聞運動部記者だった橋戸頑鉄(信)・・・・・大会創設に合わせて優勝旗の「黒獅子旗」をデザインしたのは、画壇の巨匠だった小杉放菴。メソポタミア(中東)の古代都市バビロンのレリーフをモチーフ・・・・・獲物に飛びかかろうとする獅子の姿は強さと勇壮さを象徴している(毎日新聞2021.11.26)。
小杉放菴を文人と思い、画壇の巨匠とは知らなかった。その活躍と生涯をみてみよう。
小杉 放菴(未醒) (こすぎ ほうあん)
1881明治14年12月29日、栃木県日光山内に生まれる。父は日光二荒山神社の神官・小杉富三郎(蘇翁)。母は妙。6人兄姉の末弟。本名・国太郎。別号・未醒。
1884明治17年、日光輪王寺門跡の御家人・国府浜酉太郎の養嗣子となる。
国府浜家の祖父、南画家・煙崖から絵を教えられる。
1886明治19年、平田派の国学者である父・富三郎から日本外史など素読を習う。
1887明治20年、日光尋常小学校入学。父、神官を辞し日光御料地監守長となる。
1891明治24年、日光高等小学校に入学。
1893明治26年、長兄・日光小学校校長。父は第二代日光町長。
1894明治27年、日清戦争。
1895明治28年、栃木県立宇都宮中学校に入学。翌年、1年終了にて退学。
1896明治29年、日光在住の洋画家・五百城文哉(いおき ぶんさい)の内弟子となる。
1897明治30年、無断で上京。町医者の薬局生をし白馬会研究所に通い、号を未醒とする。
肺尖カタルにかかり帰郷、五百城宅に戻る。父、日光町長を辞す。
1900明治33年、師の許しを得て上京。小山正太郎の不同舎に入門。
1901明治34年、国府浜家と合議離縁、田端で自炊生活。
この前後から漫画・挿画・外国人向きの水彩画などを描く。
1902明治35年、太平洋画会会員となる。トルストイを読む。
1903明治36年、国木田独歩が主宰する近事画報社に入る。
1904明治37年、日露戦争。
1月、渡韓。従軍して画報通信を『近事画報』に載せ、独歩に認められる。
文芸・社会評論家・田岡嶺雲と知り合い、社会主義運動にも接近。『陣中詩篇』は反戦詩集として有名。
「帰れ弟」
帰れ弟 夕の鳥の 林の中に如帰れ 韓の平壌腥く 乾ける風に殺気ぞこもる いかんぞ国の春を蹴立て 好んで平紗の風雨を慕ふや 弟汝の白き額の あないたましや日に黒みたり 恋と歌とを語るに澄みし 星の瞳の猛くもなりぬ 雉子なす覇気の已むに難くて 八道の野に墓求めにか 帰れ弟 夕の鳥の 林の中に没る如帰れ・・・・・後略)
この詩は、与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」と共に世論を沸かせた。
1905明治38年、雑誌『天鼓』創刊。長詩「戦の罪」発表。「捕虜の糾問」「戦友」。
1906明治39年、結婚。相良楳吉の長女と結婚。『捕虜と其の兄』『漫画一年』。
1907明治40年、『漫画一年』『詩興画趣』出版。美術史「方寸」創刊、同人となる。
1908明治41年、「涅槃絵」第2回文展に初入選。『漫画天地』。
1909明治42年、*武侠社の押川春浪、中沢臨川らと交わり*天狗クラブをつくり、趣味・スポーツに親しむ。
『漫画と紀行』刊。「黄昏」出展。
武侠社・押川春浪:けやきのブログⅡ2014.05.03<武侠社: 押川春浪(愛媛県)・柳沼澤介(福島県)>。
―――小杉未醒は明治40年代“漫画”とう言葉を書名に入れたコマ画作品集を何冊も出している・・・・・いずれも新聞や雑誌に描いたコマ画を中心にまとめたもの・・・・・“漫画”という言葉の普及にあたって未醒の漫画本があずかって力があった・・・・・『方寸』の「特別漫画号」に寄稿、未醒は「家庭」と題する俸給生活者家庭の出勤前のあわただしさを描いている・・・・・小市民の生活や人生の喜怒哀楽を戯画風に描写し続けた。しかし、明治43年、大逆事件が起こると彼も芋銭(うせん。日本画家)も次第に漫画家から離れていく・・・・・(『日露戦争記の漫画』)。
1910明治43年、『絵本西遊記・新訳』小杉未醒訳・画、佐久良書房。国会図書館デジタルコレクションで読めて愉しめる。
1911明治44年、30歳。父死去。第5回文展「水郷」二等賞。
芋銭未醒漫画展、日本橋三越で開催。
1912明治45年、横山大観と「絵画自由研究所」設立を計画。
「豆の秋」文展二等賞。宮内省買い上げ。
1913大正2年、渡欧。フランスを中心にイタリア・ドイツ・ロシアなどを回り翌年帰国。
滞欧作品、「小湾」「ブルタニュ風景」「アルハンブラの丘」など。岡倉天心没。
1914大正3年、再興日本美術院の洋画部に参加。第1回院展「飲馬」出品。『画筆の跡』刊。
田端の自宅に趣味の会「ポプラクラブ」を作る。
二科会、文展洋画部より独立。第1回展に審査員、「潮来」その他出品。
1915大正4年、横山大観、下村観山、紫紅(山崎小三)と4人で東海道写生旅行。
1916大正5年、琉球に旅行。
1917大正6年、中国に旅行。二科会を脱会。第4回院展に油彩「山幸彦」「西湖」「瀟湘」出品。以後、大正9年まで連続出品。
1920大正9年、院展開催中に倉田白羊、山本鼎らと再興日本美術院を脱退。
1922大正11年、春陽会を創立。以後、毎年出品。
朝鮮・中国を旅行。『未醒邦画集』刊。『奥の細道』絵巻制作。
1923大正12年、号を放菴と改め、油絵より、独自の水墨画の筆をとり、東洋的な情趣に没入。絵画のほか、随筆・歌文集の著作が多い。
1925大正14年、第3回春陽会展に油彩「泉」「馬」出品。東大安田講堂の壁画を描く。
1927昭和2年、画友、岸浪百艸居と奥の細道を旅。
―――『奥の細道画冊』こそは、放菴を日本画家として世に認識せしめ、評価せしめた最初の作品・・・・・東洋画の画境深き所に突入し、しかも独特の筆触を駆使しての創造的描写に成功したのは放菴をおいて他にはない・・・・・放菴の人物には貴族趣味は見られない。天真、朴訥、勤勉、無欲、洒脱、といった人間性の表現に放菴の心は傾いている。魚のごとく黙って、粗衣をまとって働いている農夫、無知なれども人間愛に充ちた庶民の姿の中に、尊いものをみたのである・・・・・(『小杉放菴』野中退蔵)
「老荘会」を提唱、漢学者・公田蓮太郎に週一回、荘子・詩経・文選・易経を学び、 東京が空襲されるまで続けた。
1930昭和5年、妙高山麓、赤倉に山荘「安明荘」建てる。
―――山荘で独特の越前和紙に渇筆風に人物・花鳥の墨画を描いて、酒を傍らに和歌を吟じ描画を楽しむ、まさに詩画三昧に生活・・・・・テニスは草分けの名手、剣をとっては神道無念流の達人、相撲、野球、鉄砲撃ち何でもござれのなうてのバンカラ猛者未醒蛮民は、齢を重ねて風貌も人情もいつのまにか仙境に遊ぶお伽噺の好々爺放菴になったのである。「一見勇壮な面目を具えているが」と前置きして、「気の弱い、思いやりに富んだ、時には毛嫌いも強そうな、我々と存外縁の近い感情家肌の人物である」と評す芥川龍之介の言葉通り、その本性は意外なほど繊細(ナイーブ)で優しさに富んだもの・・・・・(「小杉放菴と『奥の細道』上野憲示」)。
1933昭和8年、『日本の十和田湖と青森の山水』日本風景協会。
1936昭和11年、聖徳記念絵画館壁画落成式、放菴の「帝国議会開会式臨御」公開。
1942昭和17年、満州国建国十周年展に「良寛」出品。
1944昭和19年、戦艦献納帝国芸術院展、「金太郎」出品。芸術院会員陸軍献納展に「鈿女の舞」出品。軍事援護展に「山翁奉仕」出品。
1945昭和20年3月、64歳。4月、戦災のため田端の家焼失、そのまま赤倉「安明荘」に疎開、定住する。
8月、太平洋戦争敗戦。
1947昭和22年、洋画家による日本画作品展示、墨心会に参加。会員は石井鶴蔵・藤田嗣治・中川一政ら。
1956昭和31年、歌文集『炉』、翌32年、歌文集『故郷』出版。
1962昭和37年、随筆『問わるるままに』朝日新聞。
1964昭和39年4月16日、肺炎にて死去。享年83。
参考:『小杉放菴 生涯と芸術』野中退蔵1979未来社 / 『小杉放菴の俳画手本 奥の細道』上野憲示1980渓水社 / 『日露戦争記の漫画』芳賀徹・清水勲編1986筑摩書房 / 『現代日本文学大事典』1960明治書院
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2022.2.11
<放菴と寛方展>~2022.3.6。佐野市立吉澤記念美術館(栃木県)で開催。
小杉放菴と荒井寛方(1878~1945)にスポット。寛方は生涯を通じて極めた「仏画の寛方」と評される画風を確立。特注の麻紙「放菴紙」に枯墨と淡彩で温和な日本画を描いた放菴、両者の魅力を紹介。
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