ソプラノ歌手・合唱指揮者、関鑑子
♪見上げてごらん夜の星を
永六輔・作詞 いずみたく・作曲
見上げてごらん夜の星を 小さな星の 小さな光が
さヽやかな幸せを うたってる 見上げてごらん夜の星を
ボクラのように 名もない星が さヽさやかな幸せを 祈っている
断捨離をしかけては、ためらう日々。抽斗を整理したら「ともしび歌集」が出てきた。かさばらない、捨てなくてもいいや。頁をくると、職場の先輩方に連れられて行った新宿の歌声喫茶「灯」、満席の誰もが笑顔で歌っていた店内が目に浮かび、ただ懐かしい。
―――1960年代にかけて大変な賑わい・・・・・歌唱指導者と呼ばれる人が司会してリードし、ステージに出た人々が歌う部分と客が皆参加して歌う部分とをバランス良くよくおりまぜながら巧に盛り上げてゆくというようなのが一般的・・・・・上條恒彦やさとう宗幸などが、うたごえ喫茶の歌唱指導者からプロの歌手になったことはよく知られています・・・・・(『歌う国民』)。
仲間はもちろん、初対面の客同士も笑顔、♪青春牧場、♪手のひらを太陽に、♪山男のうた、いろいろ歌った。
「ともしび歌集」第4集の始めは♪学生時代(平岡精二 作詞・作曲)、音痴を気にせず次つぎ歌って、「世界をつなげ花の輪に」でお終い。
♪世界をつなげ花の輪に
篠崎正・作詞 箕作秋吉・作曲
太陽はよぶ 地はさけぶ 起てたくましい 労働者
働くものの赤い血で 世界をつなげ花の輪に
我等みらいを語るもの 世界を一つに結ぶもの
歌詞がけっこうが激しい。「うたごえ運動」と関係ありそう。
―――戦後、全国に小さなコーラスグループが生まれ、こうした草の根の動きはしだいに組織化され、1948昭和23年の中央合唱団の結成を契機にひろがり、とくに1952昭和27年血のメーデーのころから全国の職場・農村サークルや基地反対闘争の現場で、ひとつの大衆文化運動として展開・・・・・「第五福竜丸事件」のおこった1954昭和29年「日本のうたごえ」大会は「ノーモア・ヒロシマ」の言葉とともに「原爆許すまじ」の大合唱につつまれた・・・・・その翌年、リーダーの関鑑子(あきこ)は国際スターリン平和賞を受賞。 『青年歌集』は「しあわせの歌」「若者よ」「草原情歌」「仕事の歌」「民族独立行動隊の歌」などを収録しベストセラーとなった(『民間学事典』)。
さて、関鑑子はどのようにして「うたごえ運動」に関わったのだろう。
ちなみに、歌声喫茶「ともしび」は、東京新宿で23年間、のべ600万人がロシア民謡や青春歌謡を合唱し親しまれていたが、1977昭和53年、店を閉じている。
昭和の「ともしび」で合唱した人が、令和の“けやきのブログⅡ” を読むと、半世紀余の昔が蘇るかもしれない。そんな人がいたらいいな。
関 鑑子 (せき あきこ)
1899明治32年9月8日、東京で生まれる。本性は小野。
1904明治37年、日露戦争。
1914大正3年、ドイツに宣戦布告、第一次世界大戦の参加する。
1920大正9年5月2日、東京上野公園で日本最初のメーデー。
1921大正10年、22歳。東京音楽学校(東京芸大)を卒業。音楽学校研究科修了。
とくに、ペツォールド夫人に師事して脚光をあびる。ソプラノ歌手、ソリストとして全国を演奏して回り、その出演料はワンステージ300円といわれた。
?年、東大セツルメントで音楽を教え、以後、労働者のための音楽の演奏と創造に力を尽くした。
セツルメント運動:隣保事業。貧困者の住む地域に知識人が定住し、教育・医療など地域の改善を目指した運動。1891明治24年が最初。
1926大正15年、27歳。新劇俳優・運動家の小野宮吉と結婚。本名は小野鑑子。
大正末期からプロレタリア芸術運動に加わる。
1929昭和4年、日本プロレタリア音楽家同盟の設立に参画し、初代委員長となる。
この運動は30年代に入って弾圧を受け、一時消滅する。
1937昭和12年、夫・宮吉死去。
鑑子は夫の死後も鎌田の労働者のなかで細々と音楽運動を続けた。その底には女学校時代に新宿の幼稚園でみた子どもたちの貧困に対する衝撃があった。その意志は戦後の<日本のうたごえ>運動に発展する。
1945昭和20年、46歳。太平洋戦争敗戦。
1948昭和23年、共青中央合唱隊(中央合唱団)を組織。
サークルのうたごえを職場に広げ、運動を政治への従属から解き放つという初心にかえる。うたごえ運動は1950年代中期に全国的に拡大するが、政治の波にもまれ、上からの政治指導と音楽の狭間でゆれる。
1951昭和26年、東京に創設された音楽センターを活動の中心として、全国規模で展開され、日本の平和運動の一翼を担うことになり、その成果は国際的にも評価される。
1953昭和28年、関鑑子編『青年歌集』第2編、発行。巻末の解説は「歌ごえは平和の大きい力」。
―――『青年歌集』のレパートリー。 「うたごえ運動」の広がりを象徴しているのが、そこで使われた『青年歌集』・・・・・大変な売れ行きとなり(1955年の時点で、70万部以上を売り上げたとされています)・・・・・最終的には第10編まで出されました(『歌う国民』)。
1956年昭和31年、国際スターリン平和賞受賞。
1966昭和41年、国際チャイコフスキー・コンクール声楽部門の審査委員。
1970昭和45年、国際チャイコフスキー・コンクール声楽部門の審査委員。
10巻に及ぶ「青年歌集」を編集し、中央合唱団・音楽センターの主宰ほか多くの役職を兼ねる。
1973昭和48年5月1日、中央メーデー(代々木公園)。
参加者50万人の全員合唱「世界をつなげ花の輪に」を指揮。その直後、壇上で倒れ虎の門病院に入院。
5月2日、クモ膜下出血のため死去。享年73。
参考: 『民間学事典』人名編・事項編1977三省堂 / 『日本人名事典』1993三省堂 / 『昭和時代年表』中村政則編1986岩波ジュニア新書 / 『歌う国民 唱歌、校歌、うたごえ』渡辺裕2010中公新書 / ウイキペディア
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