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2022年1月 1日 (土)

腰をのばせ腹に力を入れよ、女子体育指導者・藤村トヨ

       富士山      石川丈山

  仙客来たり遊ぶ 雲外の嶺
  神竜棲み老ゆ 洞中の淵
  雪は紈素(がんそ)のごとく 煙は柄の如し
  白扇倒(さか)しまに懸かる 東海の天

  雲の上にそびえる嶺(いただき)には仙人が遊びに来て、ほら穴の、深くよどんだ淵の中には神竜が棲み老いている。富士山に真っ白に雪が積もっているさまは、まるで白絹のようであり、*煙は柄のようである。それはちょうど、白い扇をさかさまに東海の空にかけているようだ(石川忠久解説)。
   煙は柄の如し:石川丈山の江戸前期、富士山は煙を吐いていた。
   石川丈山:徳川家康の麾下。大坂夏の陣で軍令に反して浪人。のち、京都に居を構え、詩作・築庭などに非凡の才を示した。
 
 2022令和4年1月、コロナ禍はまだ止まない。せめて正月に合う「富士山」を、その仙客来たり遊ぶ富士山詩界から大凡300年、香川県生まれの藤村トヨ、女子体育指導者はいつ、どこで、富士山を見たでしょう。
 さて、マスク生活が長引くなか、運動の場や機会に恵まれない人は、藤村トヨの「腰をのばせ腹に力を入れよ」を試してはいかが。
 藤村トヨは少女時代から病弱で進学できなかったことから体育に関心をもち、運動や身体についてよく学び世に役立てる。
 明治初期、女子が進学するだけでも苦労があったが、それを乗り越えて指導者になった生涯をみてみよう。
 ちなみに、トヨより3歳下、女子体育の開拓者・二階堂トクヨも大病を患うが、体操の授業によってより健康になる。
  けやきのブログⅡ2016.7.30<女子体育の母、二階堂トクヨ(宮城県)

     藤村 トヨ

 1877明治10年6月16日、香川県阿野郡坂出町(坂出市)の農家に生まれる。
   母タネの実家は教育熱心であったが、生れた家は教育を好まなかった。
 1887明治20年、トヨの母は財産を貰うより教育の方が子の為になると、10歳のトヨ以下6人の子を連れ実家に帰る。
   しかし学問ある実家の兄も、「女の子を教育するのは生意気を作るより外に何の益もない」と教育に反対。母タネは、兄の後援を断念しても教育すると断言。タネの父、トヨの祖父の援助もあったが、母は衣装・髪飾りまで惜しげ無く売り払い、昼は機織り、夜は裁縫をし教育費を準備した。そうした母の苦労と決心は、幼いトヨに覚悟をもたらす。

 1889明治22年、12歳。毎日、朝3時から夜12時まで勉強。
  ?年、 尋常小学校卒業後すぐに、英語を主とする私立済々学館に入る。
   館長は浄土真宗西本願寺の執行長を勤めた今里遊玄師。トヨは年長の男子と成績を競いあい、さらに東京遊学しようとするが、身体が弱く中止。ちなみに、母タネは熱心な浄土真宗の信者で、トヨも仏教への考え方を深める(「藤村トヨと禅」早瀬健介)。
 1892明治25年頃、坂出小学校の代用教員をしつつ養生につとめる。以来、病気に苦しめられ、入学退学を繰り返す。
 1894明治27年、日清戦争。

 1899明治32年、上京。東京女子高等師範学師理科に入学。
 1901明治34年、三年に進級するがまたも病気退学。
   さすがに強気のトヨも落胆すると、女子高等師範幹事(のち東京盲学長・町田則文)に「死ぬな、3年間母の元で静養して再び上京せよ」と諭されて帰郷。
   トヨは寺で生活し母と弟妹を思って生きる覚悟をきめる。そして、教育と家庭の役にたてるよう近くの国分高等小学校に奉職。
   郷里にいる間に体育学者・高橋忠太郎の指導を受け、手具体操を修得。
 1902明治35年、小学校の連合運動会が開催され、トヨの国分高等小学校が優勝。
   連合運動会のためにトヨは生徒を励まそうと自分も一緒に練習。すると、食欲がでて快活になり頭痛も消えた。児童に運動は身体を健康にすると教えられたのである。

 1903明治36年、丸亀女学校の理科兼体操教師に採用される。
   文部省、体操教育検定試験で女子最初の合格者となる。
 1904明治37年、日露戦争。
   丸亀女学校を辞して上京。高橋の招きで東京女子体操音楽学校(東京女子体育短大)に勤務。生理・解剖・体育原理を担当。また、保姆養成所を卒業。

 1908明治41年、31歳。高橋の後をうけて東京女子体操音楽学校の校長に就任。
   学校は日暮里の妙隆寺内の借家にあり、生徒は10人前後、資力も乏しく、トヨは一時は3校の講師を兼務して補った。また全寮制にして、その炊事も引き受けた。
   トヨは自分の体験から「たしかに運動は人を若くする事ができる」を証明。また、体格姿勢の差は主として運動の状態が原因だと人に説いた。
   ―――校長就任の年から20年に渡り、全国の学校視察を行う。トヨの姿勢論は、この現地視察による実践的な調査探求に立脚したものである。視察は北は北海道、南は九州、台湾にまで足を運んだ。各地の学校や授業で、主にスウェーデン体操を実施した学校とそうでない(従来の普通体操や律動的自然体操を実施)学校における児童・生徒の姿勢・体格の調査 ・比較を行った。
 その外、各地の老若男女の姿勢・体格、栄養・健康状態やそれに纏わる風俗習慣の調査を行い、後半は女性の衣服と姿勢改善の指導と各地での講演活動も実施していた(「藤村トヨの姿勢教育における仕舞実施の役割」東京女子体育大学・東京女子体育短期大学紀要54号2019)。

 1914大正3年、37歳。体育を医学の面から研究するため私立高女の5年に編入、女子医専入学の資格を取得。
 1915大正4年、東京女子医学専門学校(東京女子医科大学)入学。
   医学を志したのは、医者となって学校経営の維持費を得ようとしたためもある。
 1920大正9年、卒業。
 1921大正10年、吉祥寺に新校舎を設立。
 1924大正13年、『婦人と体育』を創刊。
 1925大正14年3月、<体育の必要と効果より見たる吾が半生>私立東京女子体操音楽学校長・藤村トヨ(『市民と体育〔第1輯〕』東京市役所)。

 1928昭和3年~1931昭和6年、三度の欧米視察をおこない、ドイツ体操に着目。
   帰国後、「女子体育は女子の手で」を標語に女子体育の養成に努める。また、G・ワルターとK・ブラントを招聘。
 1931昭和6年、ドイツの体育教師、G・ワルター女子を招聘して指導に当たらせた

   体操の特色は、緊張と脱力の反覆により四肢の柔軟性と巧緻性を養うことにあった。
   トヨは、日本の女性が中年から腰が曲がるのは、腹力と腰の力の関係にあり、「腰をのばせ即ち腹に力を入れよ」と指導。それは座っているときも必要として、鶴見の総持寺で生徒を座らせたりした。
 日本人の姿勢・体格を取り上げた姿勢論。また、足を出したら爪先をまず地につけよ、ふわりふわりとやれと、歩き方にも独特の主張をした。
 1944昭和19年、トヨの学校は東京女子体育専門学校(東京女子体育大学)となる。
 1950昭和25年、東京女子体育短期大学、初代学長となる。
 1955昭和30年1月18日、死去。享年78。
   不屈の情熱で女子体育教育に生涯を捧げ、女子体育指導者の育成にも尽くしたのである。

   参考: 『NHK漢詩をよむ』石川忠久1986 / 『民間学事典』1997三省堂 / 『日本人名事典』1993三省堂 / ウィキペディア / 国会図書館デジタルコレクション

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