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2022年1月15日 (土)

維新政府の台所を担当した福井藩士、由利公正(三岡八郎)

 連翹(レンギョウ)の花がちらほら。冬枯れでさびしい木々の間に、黄色の小花が見えると春は遠くない。暖かくなるまでもう一頑張り。人の出会いも似たようなところがあり、顔を見ただけで元気になることがある。それのみか、出会った人間の能力を見抜き、活躍の場を与えた歴史人がいる。坂本龍馬である。
 紀州和歌山出身、明治の一郎こと山東直砥は志はあれどは無一物、しかし臆せず幕末・明治の日本を駆け巡った。多くの人物と交わり、引き立てられた。
 福澤諭吉、陸奥宗光、大隈重信などの超有名人、非命に倒れた天誅組・松本奎堂などとも行動を共にし影響を受けた。これらの人たちの手紙が一通でも残っていたらよかったのに。
 実は子孫の山東家に、書簡・覚え書きなどたくさんあったが、著名な伝記作家・横山健堂が山東伝を書くと言って、手紙など一切を手提げ鞄に詰めて持ち去り、その全部が戦災で焼けてしまったという。
 山東家をお訪ねしてその話を聞いたとき、本当にがっかり。せめて坂本龍馬の伝言メモ一枚でも残っていたらなあ。
 横山のほかにも文学者・書誌学者の森銑三も山東伝を書こうとしていたが、健堂が山東伝を書くというので、やめたとか。筆者の好みをいえば、森銑三の山東伝を読みたかった。

 戊辰戦争も終わりに近づいた年、山東一郎と岡本監輔は、「北地(蝦夷地)開拓」の建議書を太政官に提出。二人は太政官に呼び出され、数回にわたり、大久保利通・木戸孝允・由利公正(光岡八郎)ら新政府要人の聞き取り、面接を受けた。
 そして、建議は採択され、山東・岡本ともに*箱館裁判所(新政府の行政機関)権判事との役職についた。明治新政府の俸給を得ることになったが、政府は財政困難で資金がない。
   箱館:明治2年函館と改称。ちなみに蝦夷も同年、北海道となる。

 まずは清水谷蝦夷地総督以下、多人数の箱館赴任費用を自ら調達しなくてはならない。
 そこで、北前船をつかい大きな利益を得ている近江商人・珠玖清左衛門を箱館裁判所御用達にして、費用を負担させることにした。
 そして、その交渉を山東一郎がまかされ、三万両受け取ることができた。この話を知ったとき、山東は交渉事に巧だとその活躍をよろこんだ。
 しかし考えるに、新政府の行政機関・箱館裁判所が決定されたものの、まだ元の箱館奉行所に旧箱館奉行の杉浦誠がいて、箱館の治安を守っている有様。体制が整ってない役所の無名の役人・山東との交渉に応じるだろうかと疑問がよぎったが、忘れていた。

 さて、その財政困難な政府中枢にあって力を尽くしたのが、三岡八郎こと由利公正である。由利は坂本龍馬の推薦、後藤象二郎の後押しで新政府の財政を担当することになったのだ。この話から、山東が交渉に成功したのは、同じく龍馬の後押しがあったからなのだ。
 そう、山東も龍馬と象二郎のおかげで、由利と同じく新政府の役所・箱館裁判所に役を得られたのである。その山東は由利とも関わりがあった。
 以下は、名は聞いているが、事跡をよく知らない由利公正の経歴をみてみる。

     由利 公正(三岡八郎)

 1829文政12年11月11日、福井城下毛屋町の福井藩士、三岡義知の長男に生まれる。はじめ石五郎。通称・八郎。のち、三岡から由利姓を名乗る。
 1851嘉永4年、横井小楠の福井来遊に際し、その学説に傾倒して学を志す。
 1853嘉永6年、ペリー来航。家督を相続。砲術調練のため江戸に出向。
 1856安政3年、福井藩士の娘、今村たかと結婚。
 1857安政4年、兵器御製造所頭取。
 1858安政5年、橋本左内に随行、江戸に向かう。
 1859安政6年、財政経理や物産振興を推進。長崎出張。
   10月、橋本左内刑死(安政の大獄)。由利は福井に帰り、藩政改革に従事、主として財政を担当。従来の藩専売にたいして重商主義的政策を展開して成功を収める。

 1867慶応3年11月、坂本龍馬が福井に来る。
   10月30日、城下の旅館「莨(たばこ)屋」で由利公正・坂本龍馬会談。由利は経済論を披瀝、龍馬はその意見に感心する。
   11月15日、龍馬暗殺される。
   12月、徴士参与を命ぜられ京都へ。会計官知事として会計基律金の調達、太政官札の発行など初期の財政・金融政策に関与(由利財政)。
   ―――三岡はできたばかりの貧乏所帯の明治新政府の台所を担当した・・・・・「先づ奥州征討費として近畿地方に於いて五百五十万両を限度と為し、年八朱利付き十三ヶ年返還の約を以て借上ぐべきことを建議し、議は容れられて直ちに着手することになり・・・・・」と財政手腕のほどを・・・・・かれのおかげで戊辰戦争の戦費もまかなわれ・・・・・(『幕末明治の101人』)。

 1868慶応4年、五箇条のご誓文の草案「議事之体大意」を書く。
   *太政官札発行を建議。龍馬がかねがね考えていた財政資金を補うこと、殖産資金の供給のためである。
   太政官札:政府が最初に発行した不兌換紙幣。金札とも呼ぶ。田畑石高に応じ発行され、殖産興業資金の予定であったが、実際は政府経費の支弁にあてられ流通は困難をきわめた。明治2年5月までの発行高は4800万両。
   太政官札の貸付機関として会計官の中に商法司、その下に主要都市の豪商を中心とする商法会所を設けた。しかし、流通が悪く翌年、商法司は廃止、商法会所も自然消滅、太政官札の価値も下落、由利や龍馬がもくろんだようにいかなかった。
9月8日、明治と改元。
   11月、太政官札を関東地方に通用させるため東京へ出張。

     <山東一郎と太政官札>
   ――― 大阪に設けられた箱館物産会所に出張していた一郎は、井上石見(箱館裁判所判事)にいわれた通り、新たに造られた金札、太政官札十万両を財政担当の三岡八郎(由利公正)から金十万円を受けとったところで、箱館の戦を知った。
 由利公正は、坂本龍馬がその主張に感心して、新政府の財政担当者として後藤象二郎に推薦した人物である。高知市の県立坂本龍馬記念館に、後藤象二郎に宛てた龍馬直筆の草稿が保管されている・・・・・三岡は太政官札発行など新政府の財政・金融政策に関与、由利財政といわれた(『明治の一郎・山東直砥』)。
   ――― 版籍奉還が行われ、当の役職者らに何の連絡も無く箱館府は廃止され、開拓使が置かれた。箱館府の役人は御用済みになったが、山東は辞職するいわれがないと用意してくれた品川県への出仕をことわる・・・・・すると、木戸孝允が自ら山東を諭したので、さすがに木戸に従い辞職を受け入れ、由利から受け取った十万円とその他諸務を開拓使に引き渡した(同上)。

 1869明治2年1月、横井小楠暗殺される。
      由利の政策への反対が強く辞職。福井にもどり越前物産の振興に尽力する。
 1871明治4年、東京府知事就任。
 1872明治5年5月、欧米視察。12月、欧州滞在中、東京府知事罷免の報。
 1873明治6年2月、帰朝。
 1874明治7年、副島種臣・板垣退助・江藤新平らと民選議院の設立を建白。
   中小坂銅山の開発と鉄鉱事業の経営に着手。
 1878明治11年、中小坂銅山事業を解散。
   東京府板橋村に隠棲、農事を実践、乳牛の飼育に努める。
   
 1880明治13年、北海道視察。
 1885明治18年、元老院議官再任。
 1887明治20年、子爵となる。
 1890明治23年6月、「府県債ヲ起スバキ意見書」を起草。
   7月、貴族院議員当選。
 1891明治24年、海江田信義とともに農工銀行法案を議会に提出。
 1892明治25年11月、「迂拙草」執筆(国会図書館デジタルコレクションで読める)。
 1894明治27年3月、有隣生命保険株式会社設立、社長就任。
   日清戦争。広島での臨時議会招集に参加し、軍事公債の過小を指摘する。
 1900明治33年、*史談会会長に就任。
 1909明治42年4月28日、死去。享年80。岩倉具視霊廟の隣に葬られる。

   史談会:けやきのブログⅡ 2009.10.7本ほんご本:歴女におすすめ史談会速記録

   参考: 『由利公正』角鹿尚計2018ミネルヴァ書房 / 『由利公正のすべて』三上一夫・舟澤茂樹編2001新人物往来社 / 『幕末明治の101人』中島繁雄1990 / 『近現代史用語事典』安岡昭男編1992新人物往来社 / 『明治の一郎・山東直砥』中井けやき2018百年書房 / 国会図書館デジタルコレクション

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