明治神宮体育大会・関東軍剣道大会・ソ連抑留、『我が生涯-増田正治回顧談-』
2022年コロナ禍3年目。旅行はむろん講座・個展・友人知人とランチ、どれも我慢の日々。皆そうだし文句の持って行き場がない。
そんな折しも、現役を志願し朝鮮を転戦、終戦後ソ連に抑留された『我が生涯-増田正治回顧談』を読んだ。
太平洋戦争終戦から77年、高齢者でもかつて戦争していた日本を思い起こす人は少ない。筆者も戦後の苦労話を親から聞いたが、戦争そのものに実感がない。あれこれ考えると、増田正治の回顧談は戦争を繰り返さないための物語りでもあると思う。
回顧談の行間には「困難に遭っても仲間を忘れない」そんな人間的な魅力が漂う。戦争の話を落ち込まず読めたのは、主人公の前向きな性格もある気がする。
ちなみに、増田正治は埼玉県人だが各地の図書館・資料館にも、郷土人の回想録・体験記などあるでしょう。時にそれらを開けば、父祖の歴史が身近になりそう。
増田 正治
1915大正4年12月3日、埼玉県入間郡堀兼村の農家、増田平右ェ門・ツヤの長男に生まれる。
1922大正11年、堀兼尋常高等小学校入学。
1929昭和4年、尋常高等小学校2年。一町六ヶ村連合青年団剣道大会出場して優勝。
1932昭和7年、剣道二段(大日本武徳会)。陸上競技で活躍する。
1935昭和10年、19歳。第八回明治神宮体育大会。剣道で埼玉県代表。
現役を志願。徴兵検査、甲種合格、騎兵科に決定。
1936昭和11年、20歳。堀兼青年学校本科卒業。
満州国海拉爾(ハイラル)騎兵第四旅団機関銃隊第一中隊に入隊。
2月26日雪の朝。村役場で万歳三唱、4キロ先の入曽駅まで見送られる。
東京駅を出発、広島に向かう途中の京都駅で号外を読み、「二・二六事件」を知る。
2月27日、宇品で軍服に着替え、宇品港から1500~1600の入隊兵と大連へ向かう。大連駅から二日間の汽車の旅。終点・満洲里(マンチュリー・ソ満国境)手前のハイラル、騎兵第四旅団機関銃隊第一中隊の兵舎に到着。
回顧談は軍人生活、現地での訓練、鍛錬、乗馬演習にも及んでいる。
増田は運悪く馬に向こうずねを蹴られ骨が見えるほど割れたが、毎日休まず演習したというから驚く。また、「同僚には絶対負けない」と夢中で励み上等兵に昇級。
余談。<戦場の馬>
日露戦争に従軍した野戦砲兵第15連隊長・柴五郎大佐(のち陸軍大将)は奉天会戦で負傷。「人馬負傷表」を防衛研究所図書館で閲覧。明治37.2.27死傷表(将校・下士兵卒・馬)のうち、死(将校1、下士兵卒5)傷(将校9、下士兵卒26、馬7)備考欄に柴五郎以下の氏名。
映画などで戦場を駆ける馬を見たりするが、この表をみたとき戦争は・・・・・。
1937昭和12年、ハイラル部隊剣道大会・優勝。*関東軍剣道大会・準優勝。そのゆくたては回顧談に詳しい。将校の剣道指南を任される。
関東軍:満洲に駐屯。大正8年に関東州と南満洲鉄道警備のため設置。昭和6年、参謀・石原莞爾を中心として満州事変を起こし、政府の意に反して戦線を拡大。
7月7日深夜、北京郊外で盧溝橋事件。現地ではいったん停戦したが、近衛内閣は派兵を決定。7月末から河北で総攻撃が始まり、全面的な日中戦争に発展。
1938昭和13年、増田ら3名に辞令「満期除隊-臨時招集-陸軍騎兵伍長」。
―――我々機関銃隊は二十四時間以内に完全武装をして、この住みなれしハイラルを後にして北支(華北)に転出、戦線に参加せよとのことでした。このハイラルに二年有半、実に荒涼たる草原の中の軍隊ではありましたが、初年兵から二年兵、三年兵まで、この広々とした平和な地域で訓練を積み重ね、さまざまな思い出をつくってきましたが、いよいよ実践ということになったわけであります・・・・・第一小隊の第一分隊長として、その任につき・・・・・軍用列車に乗り込み、軍人・軍馬・食糧を携えて一挙に北支にむかったのであります。
―――大移動の途中で支那の軍隊が黄河を決壊させたため、その濁流が河南平野に一挙に流れ出し、目の前が異様な濁流となった・・・・・翌朝見ても水は大して減らず、滔々と三十キロにもわたる川幅となっていました。我々騎兵集団は、その高台に人と馬が皆登って、静かにこの濁流を見つめていました。我々はいつこの土地を離れることができるのか、不安が先に立ち、戦争よりも水の怖さを感じていました。この時私は水害の恐ろしさ、そして黄河の、あの黄色い川の水の恐ろしさを、この体を通して肌で学んだのでありました・・・・・いまなお恐怖が脳裏に焼きついており、恐ろしい思い出として残っているのです。
―――戦争というものは千差万別で、夜襲をしたりされたり、また、先兵に出され、敵の中に入り込んで歩哨線を突破しようとしたら、相手の歩哨が居眠りをしていたり、また、いないと思ったところに相手の歩哨がいたり・・・・・「闇夜の鉄砲」必ず弾(たま)は上の方を飛んでいきます・・・・・前線での行動は日々異なり、余りにも熾烈であります。
1939昭和14年、23歳。支那事変(日中戦争)の功により勳七等青色桐葉章。
満期除隊。雁門口より上海港を経て日本、宇品港に上陸して故郷へ。
1940昭和15年、堀兼村信用組合書記。剣道四段。
1941昭和16年、埼玉県立豊岡実業学校に奉職。軍事教練・体操・剣道・銃剣道など指導。堀兼村立青年学校、教練の指導員となる。
1942昭和17年、特級滑空士免許を取得し、グライダーを指導する。
1943昭和18年、「南方第一線、ニューギニア、ポートモレスビーの山岳戦で右肺に貫通銃創を受け、後方に下がり、潜水艦で内地に帰還した」弟・秀雄を広島の陸軍病院に見舞い再会を喜ぶ。ちなみに、増田家は三兄弟とも出征している。
1944昭和19年、28歳。澤田敏子と結婚。
7月25日、赤紙、招集令状。妊娠中の妻を残し、独立工兵第二十一連隊補充隊に応召。赤羽の第一五三野戦飛行場設定隊に配属、朝鮮に渡り、掩体壕造成の土木工事を現地の労働者と行う。
1945昭和20年3月。大邱(たいきゅう)飛行場任務完了。次いで、龍花面(りゅうかめん)で飛行場建設作業、7月末完成。
8月15日、ポツダム宣言受諾。9月1日、ポツダム進級で陸軍曹長。
ポツダム宣言:軍国主義絶滅・領土制限などの条件を付し、占領政策の基点となる。
ポツダム進級:大日本帝国陸軍・海軍がポツダム宣言受諾後、退官手当や恩給がなるべく多くもらえるよう軍人の階級を一つ進級させた。
8月17日、軍本部から命令、ソ連軍が来て武装解除。増田らは軍服に食糧をもち、銃器はその隊に置き、朝鮮平壌市外、三合里の飛行場へ行きそのまま越冬。
1946昭和21年5月、三合里から咸興(かんこう・ハムフン)へ移動。ソ連の貨物船で興南を出発、捕虜として中央アジアへ移送・抑留され、収容所を次々と移動、労働に従事させられる。本編には点呼と食事から始まり、グリーンチ・マザール収容所・道路・住宅建設・運河造成・ウズベク人との交流・鉄道敷設・事故・トラック談義の「災い」・7番目のアンチファスト収容所・コルホーズへ・アングレン収容所など、三年有半にわたる厳しい捕虜生活が記録されている。
1949昭和24年、カザフ共和国カラガンダ収容所、抑留生活最後となる。
1950昭和25年2月7日、ナホトカ港から引揚船・髙砂丸で舞鶴港に上陸。6年ぶりに堀兼に帰郷。
2月26日、我が家に帰還。二日後、GHQ(連合国最高司令官総司令部)から呼び出され上京。ソ連での抑留の状況、思想、場所、あらゆることを尋ねられた。
1951昭和26年、堀兼村教育振興会副会長。
仲間や部下を思い遣り戦時を乗り越えた増田、次は家族、郷土の力にと心する。
1952昭和27年、家畜人工授精師資格試験に合格。
1953昭和28年4月11日、殉国慰霊碑の除幕式。
1955昭和30年、第一回全日本緬羊・山羊共進会。山羊人工授精で実績一位。
1956昭和31年元旦、5年連用特製日誌をつけ始め昭和60年大晦日まで6冊が残る。
1960昭和35年、福寿草を植え付ける。西部教育映画社(~昭和55年)始める。
1967昭和42年、51歳。狭山市市議会議員。以後、6期つとめる。
1972昭和47年、グアム島から横井庄一氏生還。
1980昭和55年、狭山市市議会議長・狭山市基地対策競技会委員ほか。
1989平成元年8月13日、死去。享年73。
増田正治の一生をみると、どんな状況に置かれてもしっかり生き抜いていて励まされる。
終わりに、ふと、回顧談は全部を記述したものなのか、実は語られない過酷な体験がある、言葉にしがたい事件事故に遭遇しているかも、そんなことを思った。
参考:『我が生涯-増田正治回顧談』荒井晴夫・増田正博編2021増田正敏発行 / 『近現代史用語事典』安岡昭男編1992新人物往来社
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2022.4.9
『我が生涯ー増田正治回顧談』編著者よりご案内がありました。
もし、「回顧談」を読みたいという方があれば、まだ若干冊あるのでお送りするそうです。ご希望があればコメント欄にどうぞ、先方に伝えます。
ちなみに、コメントは許可無く掲載致しません。また、アドレスがあれば返信いたします。
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