長与専斎・長与又郎・長与善郎父子の123年
マスクとのつきあいも3年、せっかく申し込んだオープンカレッジ・今尾恵介先生「地図と鉄道講座」を欠席中、外出はめっきり減った。何とか無事に過ごしているが、周囲には体調をくずしたり、家族介護の人もいる。
病気になると、まず通院・往診の手立てを考える。診察費の心配は国民皆保険のおかげで急がない。日本では当たり前のこの制度、明治期にはじめて着目したのは肥前大村藩の藩医・長与(輿)専斎である。
長与専斎は5男3女に恵まれ、長男・称吉は長与胃腸病院を開業、夏目漱石との縁でこの病院を知る人もいそう。他の兄弟姉妹もそれぞれ活躍したが、三男・又郎は医学者、五男・善郎は小説家として名がある。
善郎の代表作『竹沢先生と云ふ人』を気に入っていたので本棚を探したが見当たらない。かなり前の本で無くても仕方ないが、内容をよく思い出せない。読んだのがかなり前にしても、読み返せば蘇るだろうけど、なんだかさびしい。
それはさておき、父子3人の時代を併せると123年、日本の近代と重なる。
長与 専斎 (ながよ せんさい)
1838天保9年8月28日、肥前国彼杵郡大村(長崎県)で生まれる。
父は大村藩医・長与中庵、母は家老の娘。祖父・俊達は蘭方医。父祖の血をうけた専斎は早くから西洋医学を志す。
1849嘉永2年、11歳。大村藩・五教館生となる。
祖父・俊達、大村藩に牛痘苗の種痘を始める。
1854安政元年、大阪に出て緒方洪庵の*適塾に入門。
父はすでに亡く、祖父・俊達死去により家督を継ぐ。
大村藩の少壮の勤王派・*松林飯山は佐幕派の凶刃に倒れる前、専斎の依頼で俊達の墓碑銘を記す。
松林飯山:『明治の一郎・山東直砥』『適塾をめぐる人々』などに登場。
適塾:蘭学を通じ活躍した多くの人材を養成した塾。
1858安政5年、適塾塾頭・福澤諭吉が江戸に出た後、専斎が塾長となる。
1861文久元年、長崎の精得館に入り、オランダ海軍軍医ポンペから医学を学ぶ。
このとき、オランダ語をポンペに、家で通詞職の*本木昌造に英語を学んだ。
本木昌造:日本活版述の創始者。
1862文久2年、大村藩士・後藤の娘と結婚。
1864元治元年、藩命で帰郷。大村藩侍医となる。
1866慶応2年、再び長崎に赴き、ポンペの後任ボードウィンに学ぶ。
ある日、小鳥狩りに行った藩主が足をすべらせ猟銃が暴発して大怪我。経過が思わしくないため、専斎は長崎に行ってボードウィンに処理法を聞いて治療、快復した。専斎はその功績により医学伝習の命を受け、学生をつれて長崎へ赴き、再び長崎で学べることになったのである。
1868明治元年、30歳。長崎医学校校長に当選。
―――維新に際し病院長医員等ことごとく去る。諸生投票を以て院長を定め・・・・・改めて長崎精得館医師頭取を命ぜられ、尋(つい)でを医学校と改む。教師マンスフェルトと謀り、学制をあらため、学科の順序を定め、試験の方法を設け、予科教師を聘し、数学理科植物学などの大要を講ぜしめらんことを建議して採用せられ、さらに長崎医学校学頭を命ぜられる(『長与専斎自伝』)。
1871明治4年、33歳。文部省にはいる。
11月、*岩倉具視遣欧使節の一行に加わり医学教育調査を担当。かたわら衛生の制度を研究。視察中に「国民健康保護」の制度に注目、「ここに国民一般の健康保護を担当する特殊の行政組織あることを発見しぬ・・・・・されば畢生の事業としておのれ自らこれに任ずべきこと、ここに密かに志を起し」とその覚悟を披瀝。
―――衛生行政をドイツで初めて知った専斎は・・・・・十分に詮索を遂げ本邦にもたらして文名輸入の土産ととなすべしと一大決心・・・・・この健康保護の事に至りては東洋には尚その名称さへもなく全く創新の事業なれば・・・・・畢生の事業としておのれ自ら之に任ずべしと・・・・・(『適塾と長与専斎』)。
岩倉具視遣欧使節:不平等条約改正の準備交渉を目的とする使節団。開拓使派遣の男子留学生15名、山川捨松ら女子留学生5名も同船。
1873明治6年、帰国。文部省医務局長。輸入薬品検査のため司薬場建設を計画、衛生研究所の始まり。
1874明治7年、牛痘種痘所を東京府下に設置。東京医学校長(東京大学前身校の一つ)。
1875明治8年、38歳。内務省衛生局長。衛生行政の草分けとして今日につながる種々の制度を創設。医術開業試験制度・日本薬局方の編纂など。
―――日本の医師は中古以来、父子子弟伝承の家業で全国3万有余の漢方医がいた・・・・・今後、新に医術を開業するものは、物理・化学・解剖・生理・病理・内外科および薬剤学の試験を受けその成績で免状を交付、今まで開業していた医師は試験無しで免状を与えることにて・・・・・(『適塾と長与専斎』)。
1876明治9年、米国独立百年博覧会を観覧を見学、また万国医学会に出席。
この時各州の衛生主務省に会晤し衛生事務執行、その他衛生事業につき調査(同上)。
1877明治10年、わが国初の防疫規律、虎列刺(コレラ)病予防心得を府県に通達。コレラ対策に尽力した。
1878明治11年、3男・又郎生まれる。
1884明治17年、神田の下水道工事
下水道普及になお歳月を要したが、長与の音頭取りで水道改良工事が横浜・箱館、長崎・大阪・神戸・広島で始められた。
長与専斎は衛生学を導入し、公衆衛生の普及に努めたとして知られる。
―――専斎は明治17年、下水道に着目した。東京市内でもっとも不潔な地区とされ、コレラ流行の著しかった神田に下水道工事を起こした・・・・・これより蚊や蝿が激減しチフスの伝染も減った・・・・・(『幕末明治の101人』)。
1886明治19年、コレラ予防心得を改正。
―――「コレラ」病撲滅予防の事は巡査主として之に任し警部生成吏員は之か監督を為すとありて、家内の消毒はもちろん発病の時日原因或いは近傍同患者の有無など
の事項を尋問し、果たして真正の「コレラ」患者なりことを認め又はその家族若しくは近隣に同患者ありことを発見する時は、直ちに之を避病院に送致し交通を遮断するなど総て巡査の職権を以て施行することとなれり(『適塾と長与専斎』)。
1888明治21年、五男・善郎生まれる。東京市区改正委員。
1889明治22年、大日本帝国憲法発布。
1890明治23年、内務省衛生局に衛生工学専門技師バルトンを置き、全国衛生工事の審査および設計に従事させる。貴族院議員。
1892明治25年、宮中顧問官。中央衛生局長。
1900明治33年、兵庫・静岡にペスト発生し、蔓延の兆しあり、臨時検疫局を設立して予防撲滅に従事。
1902明治35年8月16日、死去。享年64。
墓は東京都港区青山霊園。
長与 又郎 (ながよ またお)
1878明治11年4月6日、東京神田で生まれる。長与専斎の3男。号を雷山。
慶応義塾幼稚舎、正則学校、第一高等学校。
1904明治37年、東京帝国大学医科を卒業。ドイツのフライブルク大学に留学。
?年、 東大病理学教授となる。夏目漱石の主治医。
医学部長。心臓および肝臓の研究権威として知られる。
1916大正5年、漱石が病死した際に、漱石夫人鏡子の希望で遺体を解剖。
1934昭和9年~1938昭和13年、東京帝国大学第12代総長。
<エピソード>
帝大野球部長を務め、野球部の寮である一誠寮の看板を揮毫。竣工時、額の「誠」の一画を抜いて揮毫、優勝時に書き足すといって学生を鼓舞した(「淡青」東京大学広報誌2018)。
1937昭和12年、矢内原教授事件。
7月7日、盧溝橋事件によって日本と中国の戦争が本格化していく。戦時下の言論統制が強まるなかで、東大教授・矢内原忠雄の平和主義的な言論は有形無形のさまざまな圧力がかけられていた。矢内原攻撃の動きは大学のなかにも波及、新聞にも報道された。
長与総長は矢内原に同情的で事態はいったん収束しかけたが、矢内原を擁護することができなくなり、矢内原の辞職を受け入れる。
ちなみに、矢内原はのち1951昭和26年、東京大学総長となる。
1938昭和13年、長与総長、大学の自治を守る。
第一次近衛内閣の文相・荒木貞夫から総長官選案を示される。長与は大学の自治を守るために各帝大総長とともに一致して反対、ついに総長官選案を撤回させるが、総長を辞任。
1941昭和16年8月15日、癌で死去。享年63。
癌研究所や日本癌学会を設立し、癌の解明にも努力。父の意志を継いで、公衆衛生や結核予防会を設立。
長与 善郎 (ながよ よしろう)
1888明治21年8月6日、東京。専斎の5男。
1908明治41年、学習院高等科進学。柳宗悦(民芸研究家)とは幼なじみ。
1910明治43年4月、雑誌『白樺』創刊。志賀直哉・武者小路実篤らのすすめで創作を志す。
この年、東大英文科に入学したが、一年有半で退学。
1912大正元年11月、『白樺』に本名で「兎」を発表。翌年、洋画を学んでいた市川茂子と結婚、そのその恋愛と体験を「彼らの運命」と題し刊行。
1916大正5~1917大正6年、『白樺』に出世作「項羽と劉邦」を発表。
1923大正12年1月、「青銅の基督」を「改造」に発表。
9月1日の関東大震災を機に、『白樺』廃刊。
1924大正13年、「白樺」にかわり『不二』を創刊、主宰。創刊号に「竹沢先生の顔」を掲載。
1925大正14年、代表作『竹沢先生と云ふ人』を岩波書店から刊行。
1935昭和10~1937昭和12年、旧友・*原田熊雄の斡旋で満鉄嘱託となり、東洋に感心を深めた。
原田熊雄:昭和期の宮中政治家。近衛文麿・木戸幸一らと親交があった。
1945昭和20年、敗戦。敗戦前後の率直な所感として『一夢想家の告白』刊行。「恥」(『文芸春秋』)には、学習院時代の友人・近衛文麿への批判と同時に、戦時中の鋭い自己批判もこめられたものであった。
1948昭和23年、芸術院会員。
1957昭和32年1月、『大法輪』に晩年を飾る大作、「わが心の遍歴」を連載。
1960昭和35年、『わが心の遍歴』読売文学賞。自伝文学の傑作として高く評価された。
1961昭和36年10月29日、死去。享年73。
文壇の主流に迎えられることはなかったが、その貴族的孤高ぶりがまた特色でもあった。広範な読者をもつことはなかったが、少数の得難い知己をもった、聡明で市民的な文学者であった(『現代日本文学大事典』紅野敏郎)。
参考: 『松本順自伝・長与専斎自伝』小川鼎三・酒井シヅ校注1980東洋文庫 / 『適塾と長与専斎-衛生学と松香私志』伴忠康1987創元社 / 『現代日本文学大事典』1965明治書院 / 『矢内原忠雄』赤江達也2017岩浪新書 / 『幕末明治の101人』中嶋繁雄1990新人物往来社 / 『日本人名事典』1993三省堂
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コメント
長与専斎、長崎県の代表的偉人をお広めくださり、けやき先生、ありがとうございます。長与専斎の旧宅跡が大村医療センター入り口に移築されてあります。「衛生」に、気をつけて過ごさねば、ですね。
投稿: 福田道子 | 2022年1月23日 (日) 21時19分