鳥取藩→鳥取県→島根県→鳥取県再置、開拓移住
2022北京冬期オリンピックが終わった。
何回かスキーをしたが、リフト順番待ちで人の板を踏まないのがやっとの身、オリンピック選手の人間離れした技にただただ驚くばかり。今回、ドーピング問題など後味の悪いできごともあったが、羽生結弦選手の頸くしなやかな氷上の舞<♪春よ来い>を見られてよかった。
それにしても地球温暖化が進む中、冬期オリンピック開催どうなる?見るのも怖い軍事侵攻ニュースが飛び交う現状、いつまで開催し続けられるのか。悪いニュースは知りたくないが、知らないともっと不安になる。
話変わって、幕末の日本も物騒な情報が飛び交った。尊皇佐幕の政情不安、黒船騒ぎ、混乱続き、メディアは発達していなくてもニュースは伝わる。
諸藩は錯綜する情報にうろたえつつも勤王・佐幕どちらにつくか、立場を表明、藩主と藩士は心を一に行動しなければならない。しかし、鳥取藩のような藩主が徳川一門からの養子となれば藩主の立場は微妙、勤王佐幕、尊皇攘夷の混乱に、「君側清掃」に名をかりた藩内尊攘過激派による暗殺事件も起きている。
1850嘉永3年、池田氏の鳥取藩は水戸の徳川斉昭の五男・慶德(よしのり)14歳を藩主に迎える。ちなみに、慶德の兄は斉昭の七男、徳川慶喜である。
1853嘉永6年、ペリー浦賀来港。鳥取藩は武蔵国本牧(神奈川県)の警備を命ぜられる。
1863文久3年5月10日、長州藩がアメリカ商船・フランス・オランダ軍艦を砲撃。これに、イギリスを加えた四ヵ国代表が長州藩攻撃を決議。
6月、鳥取藩は大阪天保山に入港しようとしたイギリス船を五発砲撃、大砲の射程距離が短く届かなかったが、鳥取藩の攘夷実行である。
8月、因幡二十士事件(本圀寺暗殺事件)
―――鳥取藩が佐幕に傾くと、それに反対の少壮藩士らが京都本圀寺(ほんこくじ)で藩の重臣を殺害したのである。
1864元治元年、第一次長州戦争。鳥取藩征長藩兵が出発。
1868明治元年1月、鳥取藩、伏見に出兵。2月、戊辰戦争に参加。
11月、*隠岐国、鳥取藩の管轄となる。
隠岐:おき・島根県北部。日本海の諸島からなる旧国名。
1869明治2年、版籍奉還。藩主・池田慶德・鳥取県知事となる。
長州戦争・戊辰戦争の混乱と動揺は、明治と世代わり藩から県になっても収まらない。
1871明治4年、廃藩置県。
因伯両国を区域とする鳥取県をおき、鳥取県士族の河田景予を権令に任命。
因:いなば・因幡。鳥取県東部を占める旧国名。
伯:ほうき・伯耆。鳥取県西部を占める旧国名。
1874明治7年、共立社設立。
共立社:鳥取士族不穏の報を心配した旧藩主池田慶德が邸宅と金三千円とを寄付してつくらせた。
共立学舎:学問と武道を講習する私学校として設立されたが、教育活動と政治勢力が混在した政治集団でもある。
土佐と連携する自由民権勢力は1875明治8年愛国社創立集会に今井鉄太郎らが参加。
―――*共立学舎の構成は、自由民権勢力をふくみながら全国の不平士族勢力に結集しようとする勢力も併存する複雑な様相・・・・・西南戦争での壮兵募集をきっかけに顕わとなり、今井鉄太郎のグループは政府高官と結びついて立身する方向に転換、この延長線上に安積開墾移住・・・・・その後、1881明治14、鳥取県再置を契機に残留した不平士族にも県吏任用の道が開かれ、*共立学舎も学業専一になる(「安積開墾の展開過程」)。
1876明治9年8月31日、府県改廃により因幡・伯耆・*隠岐の三ヵ国を管轄していた鳥取県は廃止、島根県に併合された。鳥取に支庁設置。
県庁がなくなったことは、鳥取ならず因幡国には打撃が大きかった。32万石で尊皇攘夷につとめた雄藩が、18万石の佐幕朝敵藩であった松江藩の軍門に降ったかたちになったのである。*秩禄処分で窮迫していただけに、鳥取の旧藩士族の不満は高まり、西南戦争で頂点に達する。西郷と行を共にしようとする人々、政府軍に従軍して西郷を討つべしという人々、日和見主義者などに分裂してしまう。
秩禄処分:明治新政府は、高額財政負担であった秩禄(家禄、賞典禄)廃止のため、家禄奉還を実施し、金禄公債証書発行条例により、家禄を金禄公債に転換して領主制を解体。多くの士族は公債利子では生活できず没落した。
1877明治10年、西南戦争。
前鳥取県権令・河田は京都に旧藩士族よる*共立社のリーダーを集めて西郷討伐を説得、政府の命をうけて募兵に着手。
1878明治11年、鳥取士族、北海道移住をはじめる。
1879明治12年、島根県会開設。第一回県会議員選挙、旧鳥取県から18人選出。
この年、共立社のリーダー今井鉄太郎、政府の勧奨をうけ単身、福島県安積を現地視察。「福島県安積郡開拓」移住計画を立てる。
けやきのブログⅡ 2015.5. 9<安積疎水と阿部茂兵衛)福島県郡山)>
1881明治14年9月、因幡8郡・伯耆6郡を分けて鳥取県再置。初代県令・山田信道。
今井鉄太郎は旧鳥取藩の上級士族を網羅して鳥取開墾社を設立。
安積への移住は、西南戦争の際、今井鉄太郎が中心になって政府側の募兵応じたが、共立学舎の今井グループの論功行賞の意味もあったようだ。政府勧奨により、先発隊として今井鉄太郎・坪内元興・仙台吉衛の三人が移住。
12月、69戸が広谷原へ移住。27戸が共立学舎構成員、他に老農、医員、大工、鍛冶など職能者、姻戚関係者。鳥取開墾社は、農用馬および馬耕機械拝借願いを提出、西洋農具を借り受けたが、開墾の大部分は在来の唐鍬や三本鍬の手作業であった。
―――明治新政府が1877明治10年ごろ東北地方の開発を国の費用で実施。第1号として「安積開拓」。水の便が悪く大規模な開拓を行うために、猪苗代湖の水を安積の大地に引いた安積疏水の開鑿事業が行われ・・・・・9藩(久留米・鳥取・岡山・松山・土佐・米沢・二本松・会津・棚倉)の士族など全国から約500戸、2000人余の人々が安積郡の諸原野に移住、原野を切り拓いた
・・・・・郡山駅前から旧会津街道を通り、磐越西線喜久田駅の少し手前に行くと「十四戸」というバス停留所・・・・・昔、広谷原(こうやはら)といわれたこの辺りに鳥取士族が14戸入植したためにできた地名で、喜久田町には「三戸・十五戸・十二戸・三十戸」と呼ばれる集落名があり・・・・・全て同じ理由からできた鳥取開拓の地名・・・・・実は、安積開拓で入植した鳥取士族の資料は、長い間火災で焼失したと思われていました。しかし1995平成7年、ラーメンの研究のため福島を訪れた鳥取女子高校(鳥取敬愛高校)社会部の生徒と顧問の教諭が、偶然にも宇倍神社の社務所から大量の「幻の資料」を発見・・・・・両市の間で新たな交流が始まり、2005平成17年11月25日に姉妹都市・・・・・(先人からの贈り物)<安積開拓~郡山発展の礎~>インターネット。
1884明治17年6月、鳥取士族39戸と2戸の平民が「宿弥(すくね)丸」で賀露港(鳥取市)を出帆。北海道釧路移住第一陣で鳥取村の建設をはじめる(釧路市鳥取)。
鳥取県の移住の特色は、北海道を中心とする国内移住と海外移住が比較的多い。
1885明治18年12月、今井鉄太郎の伊藤博文への礼状が残されている。
この年から1889明治22年にかけて、鳥取県士族は屯田兵(兼農兵士)として野幌(のっぽろ)兵村(江別市)64戸、江別兵村35戸、輪西兵村(室蘭市)51戸、和田兵村(根室市)82戸が入植。
1886明治19年、御来屋大火(全焼300戸)。コレラ流行、死者582人。
1900明治30年3月9日、今井鉄太郎・福島県書記官非職。
非職:廃官廃庁などにより、管理の地位はそのままで職務のみ免じること。3年を一期とし現給3分の1を支給、満期免官。
開墾が一段落すると、故郷鳥取から因幡一ノ宮である宇倍神社を分霊して祀り、共同体の紐帯を強めた。
―――明治から大正期に約2万5千人以上が鳥取県から北海道に移住したが・・・・・北海道への移住が地理的に近い東北・北陸地方を別にすると鳥取県は、西日本の中では、徳島県・香川県などとともに人口の割に多くの北海道移住者を送り出した。北海道の開拓に鳥取県人が果たした役割は少なからざるものがあると思われる(『鳥取・米子と隠岐』)。
参考: 『鳥取県』松尾陽吉編1982昌平社 / 『社会経済史学』2011.11安藤哲(書評・矢部洋三『安積開墾の展開過程-大久保利通の殖産興業の一事例-』) / 『鳥取県の歴史』2017山川出版社 / 『鳥取・米子と隠岐』(但馬・因幡・伯耆)2005吉川弘文館 / 『郷土資料事典 鳥取県』1998人文社 / 『近現代史用語事典』安岡昭男編1992新人物往来社
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2024.12.6毎日新聞[余録]
―――石破首相の地盤である鳥取県は明治期、政府の方針に翻弄されたことがある。1876(明治9年)に府県統合が行われた際に島根県に編入され、いったん消滅してしまった。士族らから再設置を求める運動が起こり、やっと復活したのは5年後の81(明治14)年だった▲時が移っても、中央が地方を左右するパターンは変わらない。年収「103万円の壁」の見直しの方針に伴い、自治体の地方税収に与える影響が焦点になっている。・・・・・(中略)・・・・・▲ちなみに明治の鳥取県問題は、政府の実力者、山県有朋が現地を視察して不平士族をなだめ、復活を後押ししたことが決め手にとなったとされる。▲国と地方に降りかかった難題。・・・・・(後略)。
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