♪信濃の国、浅井洌(長野県)、北村季晴(東京)
2022年大相撲初場所、関脇・御嶽海優勝、大関昇進を決めた。長野県出身大関の誕生は、江戸時代の雷電為右衞門(1767明和4~1825文政8)以来、227年ぶりという。
御嶽海の出身地、長野県木曽郡上松町(あげまつまち)の東端は中央アルプスの最高峰・木曽駒ヶ岳がそびえ木曽川が流れている。島崎藤村『夜明け前』の舞台の一つでもある。
ところで、長野県といえば県歌「信濃の国」が有名、御嶽海も歌うでしょうか。
30年くらい前、長野(信州)博覧会に同県出身の夫とでかけた。
人気のパビリオンは大行列でウンザリ、待ちくたびれ、見なくていいや。とその時、誰かが「信濃の国」を歌い、たちまち大合唱になった。雰囲気は一変、前後左右みんな笑顔。夫もうれしそうに信濃の国合唱団に仲間入り、声高らかに
♪♪信濃の国は十州に・・・・・松本 伊那 佐久 善光寺 四つの平は肥沃の地~・・・・・。
その帰り、高速を走る車内で自分の出身地だと「東京音頭」、♪踊り踊るなら~チョイト東京音頭・・・・・盆踊りで踊ったのを思い出す。懐かしい。でも、長野県人にとって、「信濃の国」は思い出に変わらない。いつ、どんな時も「信濃の国」は今の歌、唄えば時は止まる。
1998平成10年、長野オリンピック。日本選手団は「信濃の国」で入場行進。
浅井 洌 (あさい れつ)
1849嘉永2年、松本の鷹匠町の松本藩士・大岩家に生まれる。
1865慶応元年、第二次長州征伐に松本藩兵として出征。
1871明治4年、廃藩置県。信州14県は<長野県><筑摩県>の2県となり、それぞれ独自の県政を展開。
?年、 筑摩県師範講習所、 筑摩県師範学校で修業して教員資格を取得。
1872明治5年、筑摩県・松本の第一中学区一番小学校(開智学校)勤務。
1873明治6年、筑摩郡信楽村・盛業学校(柳学校)に移る。
?年、松本中学校(松本深志高校)に勤務。
1876明治9年、現在の長野県になる。
長野・筑摩ほか数多くの生活文化圏の違いを背景に、移庁分県運動や、さまざまな公的施設をめぐる地域間対立がひきおこされた。
1877明治10年、出柳学校勤務。
筑摩県出身の浅井は盛んに言論活動をし、『松本新聞』紙上で教育論争を展開。普通小学の充実、人間教育、女子教員の必要性など時代を先取りする開明的な考えを示した。
1879明治12年、長野県教育会議の議員に選ばれる。
東筑摩郡教育会議を呼びかけ開智学校で開催。後に浅井ら5名の起草委員による「生徒心得」を完成、各校に配布。
1880明治13年、松本を中心とする自由民権結社「*奨匡社」の創立委員をつとめる。
奨匡社:社員は1000名をこえ、豪農層が主体で、第4回愛国社大会に総代が参加。師範学校の生徒にも民権運動が浸透し、現場の小学校教員は、それぞれの地域の民権運動の中核として活躍、のち「長野教育会」と改称。明治19年に県学務課の後押しで信濃教育会と改組・改称し、県下教育会の本部にまでなった。
1881明治14年4月、公立・松本中学校教諭となる。『点註日本略史字引』編著。
中学校で漢文を教えるかたわら私塾(時習学社)を開き、15~16歳位の学生数 十人を教育。その一人が「何となく真面目になる、犯すべからざる、熱情ある向上心が見とれる場だった」と評している。教え子の*木下尚江に大きな影響を与えた。
木下尚江:東京専門学校卒業。『信府日報』主筆のち毎日新聞入社。廃娼運動・足尾鉱毒事件の論説などで活躍。
1882明治15年、『改正読本地理初歩字引大全』・『書牘字引』編。
1883明治16年、『小学修身書字引』著。『松本繁昌記』関口友愛・浅井洌共編。
1885明治18年、『改正小学読本字引大全』編。
1886明治19年9月、長野県尋常師範学校(信州大学教育学部)に出仕。以来、退職するまで40年間、5千人余の教員を養成。
1887明治20年、小学校教員学力検定試験委員を委嘱され長く努める。
1890明治23年10月、「長野県尋常師範学校生徒第四修学旅行概況」著。
1894明治27年、日清戦争。
1899明治32年、『信濃教育会雑誌』に「信濃の国」発表。
長野県は新潟に近い北信地域、群馬・埼玉に接する東信地域、松本を中心とした中信地域、静岡・愛知に接する南信地域と多様な別々の文化圏が寄せ集まっている。浅井はそうした県民のまとまりを意識して「信濃の国」を作詞。師範学校教諭・依田弁之助が曲をつけたが歌われなかった。
―――「信濃の国」の作詞・作曲は、信濃教育会が日清戦争後の愛国心の高揚をはかる風潮のなかで、小学校唱歌科教授細目を編成しようと・・・・・浅井洌は師範学校教諭の内田慶三や依田弁之助から作詞を依頼された(『長野県の百年』)。
―――近代国家にふさわしい国民を作り上げるための啓蒙教育の一環として、自分たちの国の地理や歴史を知るための教育が行われ、その補助教材として様々な唱歌が作られた・・・・・一番と二番では県内各地の全体的な位置と自然が描かれ・・・・・三番では産業経済、四番では寝覚めの床などの名勝、五番では木曽義仲・佐久間象山など歴史的人物・・・・・最後の六番は、日本武尊(やまとたける)がその偉容を前にして嘆いたと伝えられる難所、碓氷峠に開通したばかり(明治26年)の鉄道トンネルが取り上げられ・・・・・「道ひとすじに学びなば、昔の人にや劣るべき 古来山河の秀でたる 国は偉人のあるならひ」と、この地に住む人々への将来の期待をこめて結ばれます・・・・・(『歌う国民』)。
1901明治34年、『歴代歌典 : 教科適要』浅井洌・*高野辰之・村松季陰合編。
高野辰之:国文学者。♪春の小川 ♪故郷など文部省唱歌の作家としても有名。
1904明治37年、日露戦争。
1938昭和13年、松本市の実家にて死去。享年89。
人となり誠実温厚、沈毅寡幣。教師歴56年、小学校、中学校、そして長野県師範学校教諭を40年にわたり務めた。多彩な能力をもちながらも将来の教育者育成に人生をささげた人物であった。
北村 季晴 (きたむら すえはる)
1872明治5年、東京で生まれる。
?年、 東京音楽学校(東京芸術大学)卒業。
田中正平に師事、洋楽・邦楽を研究。
1897明治30年、青森師範学校教諭となる。
1899明治32年11月、長野師範学校に転勤。
「信濃の国」に依田弁之助とは別に北村が曲をつけ、よく歌われるようになった。
―――「信濃の国」の曲は、長野県人の内部から出たのではなく、長野に関係のない「よそもの」によってもたらされた「異文化」としての西洋音楽だったのであり、むしろそのことによってかえって、寄り合い所帯的な性格の強い人々を統合する力をもちえたと言えるかもしれません・・・・・(『歌う国民』)。
1900明治33年10月、「信濃の国」を長野師範学校の開校記念日に女子部の生徒による踊り付きで披露。その後、運動会などでは女子生徒の遊戯の演目になった。振りは東京師範学校卒業の体操教師・山田春耕。
1901明治34年、『信濃唱歌』土原書店より出版―――信濃の国(作歌・浅井洌)、姨捨山(村松淸陰)、川中島(内田慶三)、大河原(村松)、浅間山(内田)、諏訪湖並一宮(浅井)。全曲とも北村季晴作曲。
この年2月、退職して東京に戻る。
1907明治40年、北村季晴編、「道成寺」(長唄楽譜・第6編)。
1909明治42年、東京に北村音楽協会を設立。
長唄などの邦楽を五線譜に採譜。
1912大正元年、「乃木大将唱歌武士道の華」作歌・村松淸陰、作曲・北村季晴。
1914大正3年、日本歌劇のさきがけとなるお伽歌劇<ドンブラコ>を作曲。宝塚少女歌劇の第一回公演の演目となる。
1925大正14年、北村季晴『ヴァイオリンの弾き方と扱ひ方』弘楽社、出版。
1912明治45年、『オトギ歌劇ドンブラコ : 桃太郎』北村季晴(成於)1912共益商社(国会図書館デジタルコレクション)。
参考: 松本市教育会 https://matsumotoshikyouikukai.jimdofree.com/ / 『歌う国民』(唱歌・校歌・うたごえ)渡辺裕2010中公新書 / 『長野県の百年』1983山川出版社 / 『郷土資料事典 長野県』1997人文社 / 『長野県』1982昌平社 / 国会図書館デジタルコレクション
~~~~~ ~~~~~ ~~~~~
「信濃の国」
1.信濃の国は十州に境連なる国にして 聳ゆる山はいや高く流るる川はいや遠し 松本伊那佐久善光寺四つの平は肥沃の地 海こそなけれ物沢に万足らわぬ事ぞなき
4.尋ねまほしき園原や旅の宿りの*寝覚めの床 木曽の桟かけし世も心してゆけ久米路橋 来る人多き筑摩の湯月の名に立つ姥捨て山 するき名所と風雅士が詩歌に詠みてぞ伝えたる
6.吾妻はやとし大和武嘆き給いし碓氷山 穿つ隧道二十六夢にも越える汽車の道 道 道一筋に学びなば昔の人にや劣るべき 古来山河の秀でたる国は偉人のある習い(2・3・5番略)
寝覚めの床:上松町の名勝地。浦島太郎が訪れた竜宮城はこの下にという伝説がある。
| 固定リンク
コメント