『鳥取郷土読本』大正12年・鳥取第一中学校編
コロナワクチン3回目接種、前回と同じく腕が痛い。さて、往来の自由があってないような近年、どこでもいいから旅したい。10年パスポートを見れば、とっくに期限切れ。旅友に言うと自分もそうと溜息。
日々、テレビにコロナ感染者数が映ると数字もさることながら県の形に目が行く。縦長横長、大小様々じつに変化に富んでいる。
鳥取県はこぢんまりしてすぐ判る。ただ、観光した鳥取砂丘しか浮かばない。元来穏やかな土地柄、それとも江戸から明治への移行期、表舞台を得られなかったのだろうか。
“けやきのブログⅡ2021.4.10<うらのはたけでポチがなく、唱歌集・田村虎蔵>”
(鳥取県白兎海岸は「因幡の白兎」伝説で知られるが、♪大きな袋を肩にかけ~~大黒様の歌も虎蔵の作曲)。
田村虎蔵のほかに明治の鳥取県人はいたはず、百年前の『鳥取郷土読本』(国会図書館デジタルコレクション)を見ると26項目ある。
河東碧梧桐・高浜虚子・大町桂月・小泉八雲などの著名人と、鳥取県人の文が載る。内容は書き下ろしではなく著述から引用したもよう。
坂本 四方太 (さかもと しほうだ)
1873明治6年2月4日、鳥取県岩井郡大谷村岩美町に生まれる。
仙台二高で学んでいたころ、河東碧梧桐、高浜虚子とともに句作活動に入る。
1897明治30年、正岡子規が新聞『日本』に写生に関する論評を始める。
1907明治40年2月~4月、『ホトトギス』に写生文<夢の如し>を掲載。
『鳥取郷土読本』は四方太の「夢の如し」から始まる。淡々と綴られているのに引き込まれ、幼い四方太と一緒に砂丘や海を見ているよう。波の動き、波の音さえ聞こえるようで素晴らしい。
文章で描いた日本海と鳥取砂丘、100年後の読者である筆者も感動した。名文の一部引用は申し訳ないが人に薦めたく抜粋して紹介。
その前に夏目漱石の<夢の如し>評を紹介。
―――長編小説『夢の如し』。漱石はこの作品が<平々淡々>としていて、質素、単純、可憐であることを指摘し、かつて「四方太の文学を評して白紙文学だと罵倒した事」があるが、いまはこの<白紙文学の価値>を認めて賞賛したいと評した(『現代日本文学大事典』)。
<夢の如し>
―――自分は元来田舎者で、日本海の海岸なる一漁村に生まれた・・・・・昔なら矢張り侍の子である。吾が家族は御維新の後、城下に住まふ必要も無いといふので、此漁村に移住した・・・・・家の裏が藪で縁先は畠になつて居る。海は砂山を越えて後ろにある。絶えずどうどうと浪の音が聞える。道といはず畠といはず砂ばかりで、駒下駄で歩いても音がせぬ。何年たつても下駄の歯が減らぬ。家を建てる時は、砂の上に水を五六荷もぶちまけると、砂はガッシリ締まつて巌よりも硬くなる。・・・・・吾家が砂畠の中の一軒家であつた・・・・・畠には梅の木が二三本もあつた。藪には蟹が居る。沢蟹が小石を撒いた程居る・・・・・藪ばかりではない台所の板の間を這ひ廻る。天上の上を走る。
―――或時ふと眼が覚めた・・・・・恰も空屋であるかの如く森閑として居るので急に悲しくなった・・・・・声が出なくなるほど泣いて居ると・・・・・あたふたと唐紙を開けて入って来たのは祖父であった・・・・・祖父に負われて泣き止みはしたが、灸をを据えられた後のやうに泣きしやくりが止まぬ。外に出ると気分がせいせいした・・・・・砂山の松林の下の道を負われて行くのが躍り上がる程嬉しい・・・・・此の松林に松露(しょうろ、食用キノコ)を掘りに来た事がある。
―――松林を離れると直ぐ砂浜である。果ても無い砂浜である。防風(ぼうふう、茎葉は食用、根は薬用)が紅い茎を僅かばかり現はして、砂に萌え出でて居る。後ろを振向くと、松林は遥かに遠くなつて、丁度屏風の絵のやうに見える。祖父の足跡は松林から斜めに一直線に続いて居る。浜の砂は樺色である・・・・・海はだんだん広く見える。この海岸のやうに、いえのある處から汀まで二町も三町も、時としては七八町も砂浜になつて居る・・・・・
―――日本海は波が荒い。海は絶えず大波が打つものといふ事も、こんな子どもの時から深く頭に染みこんで居る・・・・・緑色の水のうねりがだんだん膨らんで来るかと思ふと、波の腹が薄暗くなつて、前に崩れつつどさどさ打つてくる。どさつと打揚げた波はむら消えの雪の如く斑らに泡立つて一時平かに漂ふ。暫く漂ふた後、急に思出したやうに寄せ来る波の底に引返す・・・・・(後略)。
米原 竹次郎
明治・大正の鉄道院参事。
<我が中学時代>
―――母校鳥取中学を中心にして種々の事を回想・・・・・入学したのは明治26年、卒業したのは31年・・・・・中学時代には英雄豪傑の伝記を好んだのであります、就中、松村介石の倫古龍、川崎紫山の西郷南州などで・・・・・校舎は先年焼失したのでありますが、校門の處に、私共に最も印象の深いものがあります。日露戦争戦病死者の忠魂碑であります・・・・・(後略)。
日置 黙仙 (へき もくせん)
1847弘化4年、鳥取県に生まれる。明治・大正期の禅僧(曹洞宗)。
1861文久元年、出家。
1894明治27年、日清戦争。
1900明治33年、名古屋に仏骨を収めた各宗共宗の日暹寺を率先して建設。
朝鮮・中国東北地方・台湾各地を巡回。
1904明治37年、日露戦争。
1916大正5年、永平寺貫主。1920大正9年、死去。
<決 死>
―――昔から非常な難事業は、多く決死者の手で築かれて居るのを見ても、決死の力の大なることは分る。衲は旅順に行つて、其古戦場を弔うて切に此の事を感じた・・・・・我が軍が二龍山の麓まで攻め登つた時に、已に我が軍の戦死者は千五百人、露軍の戦死傷者は五百人。両軍の死傷者の血汐で其の付近一帯の巌石は青苔の生ひ茂つたやうになつて仕舞うて居つた・・・・・(後略)。
奥田 義人 (おくだ よしんど)
1860万延元年、鳥取県に生まれる。
東大卒業。農商務省に入り、拓殖務、農商務、文部の各次官を務める。
1900明治33年、法制局長官。
1913大正2年、第一次山本内閣の文相・法相。
薩長を中心とする藩閥政府にあって官界入りし、山本権兵衛内閣の大臣となり、鳥取県民は郷土の大臣誕生を喜んだ。
1915大正4年、東京市長。
民法に精通し、英吉利(イギリス)法律学校創立。後身の中央大学長をつとめる。
1917大正6年、死去。
<鳥取人士>
―――自分は因幡鳥取の生まれである。それで、昔の城下は随分と武道が盛んであつた事を思ふ。藩主の禄高は三十二万五千石・・・・・武士の数は先づ八千許りも其の城下に居つたのであつて、自分も其中の一人であつた・・・・・(中略)・・・・・維新前後に於ける著名の志士としては、子爵河田景興氏を挙げねばならぬ・・・・・夙に勤王の大義を唱へて、藩論の振はざるを概き、1863文久三年八月、藩用を以て藩の旅館本国寺のあつた時、*同志二十一人と共に藩の要路に在る者三人を館中に斬つた事もある・・・・・(後略)。
「因幡二十士事件」:尊皇攘夷と開国の両論が藩内において対立したとき、藩内急進派が「英明な藩主の眼を曇らせたのは君側の仕業」と決めつけ、京都本圀寺で重臣三名を斬った。
佐々木 惣一 (ささき そういち)
1879明治12年、鳥取県で生まれる。
京都大学講師、助教授をへて教授となり、憲法・行政を担当。
1933昭和8年、滝川事件にさいし政府の弾圧に抗議して同僚と共に職を辞し、のち立命館大学総長となる。
戦後、内大臣御用掛として近衛文麿とともに帝国憲法にたずさわり、改正草案ををつくった。公法学界において美濃部達吉とともに長らくその指導的地位にあった。
1952昭和27年、文化勲章。1965昭和40年、死去。
<我が志>
―――当時、地方で知事さんといふと、丸で特製の人間でもあるかのやうに取扱はれて居た・・・・・中学時代から久しく何でも偉くならうと志した。併し・・・・・シルクハット、それは偉い人の冠るものだと思っていたが、誰でも冠れる。大礼服を着るのもわけはない・・・・・今の私に取つては、正しい人が最も偉い人なのである。さうした偉い人になることに就て、中学時代に有つていたやうな意味の自信があらう筈がない。私は唯一生卒業することの出来ない実生活の学校で、自分で自分を訓育しようと思ふばかりである。
参考: 『鳥取郷土読本』1923鳥取第一中学校編纂発行 / 『明治時代史大辞典』2012吉川弘文館 / 『日本人名事典』1993三省堂 / 『近代日本文学大事典』1965明治書院
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