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2022年3月26日 (土)

幕臣-鳥羽伏見-沼津兵学校-陸軍少佐-『都の花』-漢学、中根淑

 砲架にあえぐウクライナの惨状が連日報道され何とも傷ましく言葉もない。大人に手を引かれ逃げる幼児、ほんとうに胸が痛む。なんとしても停戦して欲しい。
 日本は太平洋戦争終戦から平和が続いているが、近代は戊辰戦争から幾たびも戦争があった。戦う武士や兵士の困難苦労に思いを馳せるも、婦女子の困難悲劇をも察するのが足りなかった。
 剣術修行に励む幕臣・中根淑(きょし)は戊辰戦争に出征。鳥羽伏見の戦いで負傷したが新政府軍との戦をやめようとしなかった。
 しかし、時に利あらず、明治の世となる。中根の明治は、静岡の沼津兵学校教授、次いで新政府に徴され陸軍少佐、文部省編輯官。
 辞職後、有力な出版社・金港堂に招かれ文芸雑誌『都の花』編集主幹となり、二葉亭四迷ら新文学を世に出し、自らも著作。
 変化に富む中根淑のゆくたてを見てみた。

     中根 淑     (なかね きよし)

 1839天保10年2月12日、幕臣・曾根直(繩卿・得斎)、母・朝川氏の第二子。江戸の下谷長者町(東京都台東区上野)で生まれる。曾根氏の祖先は甲斐源氏にさかのぼる。
   幼名は造酒(みき)。通称は逸郎。号は香亭(こうてい)。字は君艾・迷花生など。儒者の朝川善庵は外祖父。幼くして中根氏の養子となる。
   安政年間、若い頃は心形刀流剣術を伊庭秀業に学ぶ。幕末期、有数の剣客・伊庭八郎の親友としても知られる。脚疾を患って武術から遠ざかり、儒学を亀田綾瀬門下の清水純斎に学ぶ。
   また、一絃琴を真鍋蓁斎に教わるなど決まった師につかず、自らいろいろ学習。

 1864元治元年、幕臣として長州征討に従軍、大坂に赴く。
 1866慶応2年6月、徒目付として広島に遠征。年末、陸軍差図役勤方に転任。
 1867慶応3年、大政奉還後、幕府第七連隊に所属し兵庫・大阪を経て鳥羽・伏見の戦いに参加し負傷。
   紀州から軍艦で江戸に戻り、勝海舟の指揮下に入る。しかし勝に軍事掛として戦意がないのにあきたらず、軍事掛の副長・多賀上総守に従う。

 1868慶応4年8月、政府軍への艦隊引き渡しを拒否し艦隊を率いて江戸湾を脱走する榎本艦隊の軍艦、三嘉保丸に中根も乗船、戦いを続けようとしたが暴風にあい、銚子の黒生浦に上陸を余儀なくされ、やむなく江戸に帰る。
    9月、明治元年。29歳。中根は*静岡藩士となり友人の乙骨太郎乙の従者として駿河へ往く。沼津兵学校三等教授として書史を講じ、併設された附属沼津小学校頭取を兼任。
 ちなみに、一等教授方は長崎海軍伝習所でオランダの海軍士官から学んだ伴鉄太郎、赤松則良など。

   静岡藩:駿河安部郡に置かれた藩。所領を削られ謹慎の慶喜にかわって徳川家達が駿河・三河・遠江70万石が与えられた。
   
 1871明治4年、二等教授に昇進。この頃、田口卯吉(のち経済学者)は兵学校で学ぶかたわら、中根の塾で漢学を学んでいる。
 1873明治6年、沼津兵学校廃止。
   沼津兵学校の教授方はそれぞれの出身、陸軍・海軍の軍人となり、その他は専門分野を活かし明治政府に入った。
 中根は陸軍参謀局に出仕、陸軍少佐になった。
 『兵要日本地理小誌』を編纂。その記述について、陸軍中将・鳥尾小弥太に「東軍」を「賊軍」と直せと指示されるも従わなかった。
 なお、渋江抽斎の妻・五百は『兵要日本地理小誌』を「文が簡潔でよい」と常に座右においたそう。

 1874明治7年、佐賀の乱。征討軍の参謀少佐を務める。脚疾を患って陸軍省を辞す。
 1876明治9年冬、『慶安小史』刊行。
   この年、文部省に奏任編纂官として勤務、同じ漢学者の依田学海と知り合う。
 1877明治10年、『日本文典』刊行。
 1880明治13年、この頃から6年間、小笠原長生(ながなり)が根岸の中根家に通う。
   小笠原長生は肥前唐津藩主・小笠原長行の子。父・長行の師である朝川善庵、その孫にあたる中根淑について史学・漢文を学ぶ。中根とは生涯交流があった(『偉人天才を語る』)。

 1886明治19年、『香亭雅談』。
   文部省の同僚・鈴木唯一の罷免とともに辞職。
   有力な出版社・金港堂に招かれ、総支配人兼編輯長となる。中根自身も漢詩・漢文の優れた作者であったが、『都の花』創刊するなど新文学の紹介に力を入れる。

 1887明治20年、金港堂『小説叢書』の編集を担当し明治20年代の文壇を支えた。
   6月、長谷川辰之助(二葉亭四迷)『浮雲』第一編を出版。翌年、第二編。
   ―――新文学興隆のきざしをみてとった中根は「浮き雲」の作者に、毎月の生活費を与えて、第三編を書き続けることを依頼し、同時に新作家の作品を続けて出版することを考えた・・・・・その頃、坪内雄三(逍遙)から、二十一歳の若い女の小説を出版しないかという話が持ち込まれた。作者は田辺太一の娘の田辺龍子であった・・・・・「藪の鶯」という百枚のどの小説は・・・・・(『日本文壇史Ⅱ』)。
 1888明治21年、金港堂主幹・中根は、田辺龍子『藪の鶯』、山田美妙の小説集『夏木立』を出版。
   また、文芸雑誌『都の花』を創刊。創刊号の目次はつぎのとおり。
   ―――発行のゆゑよし--香亭迂人(中根淑) / 花車(小説)--美妙斎主人(山田美妙) / めぐりあひ(翻訳)--二葉亭四迷 / 中原の鹿(小説)--流鶯散史 / 淑女の操(脚本)--学海居士(依田学海) / 華胥の夢(小説)--槐堂仙史 / 鉢の木(謠文評釈)--迷花生(中根淑)
・・・・・当時学者として批評家として文壇に重きをなしていた依田学海が創作戯曲を書いたことと、二葉亭がツルゲーネフの新訳を連載し始めたのと、美妙が新作を発表したこととは、この創刊された文芸雑誌の大きな魅力となった・・・・・(『日本文壇史2』)。
   12月、『都の花』に幸田露伴『露団々』掲載。
   ―――中根は「露団々」を買うことに決定し、原稿料五十円を幸田成行(露伴)の処へ届けた。北海道時代から酒が好きだった幸田はその夜・・・・・友人二人を連れて酒を飲み、その原稿料を持ったまま三人で旅行に出かけ・・・・・翌年の一月末まで東京に帰らなかった・・・・・(同上)。
   『都の花』は営業文芸雑誌としては最も古く、小説を中心に編集し、雑誌形式ながら、実際には単行本の分冊出版と同じ方法で、これ以後刊行された雑誌。叢書類はこの形式にならった。

 1891明治24年、52歳。『新撰漢文読本』刊行。
 1892明治25年、『頭書平治物語』刊行。
 1905明治38年、『行脚非詩集』刊行。
 1908明治41年、69歳。『歌謡学数考』刊行。

  ?年、 妻と息子に先立たれてからは居を定めず各地を遊歴。
   中根の旧居を洋画家・中村不折が購入、名士の遺物を保存する考えから、改築時にも一室はそのまま残した。後年、小笠原長生はその部屋を訪れ、「まれに見る高潔清雅の高士」中根を懐かしんだ。森銑三もまた中根の詩文を「高士の文学」と評した。
 当時の武士としては晩学であったが、その趣味は書画・俳句・謡曲・和歌・天文と多方面にわたる。また、田口卯吉、島田三郎、吉田次郎など活躍した門下生が多い。
 1913 大正2年1月20日、最晩年の寓居、静岡県興津で病のため死去。享年75。
   遺言により興津の浜で火葬を営み、遺骨を残さなかった。
 出自も良く、学問ばかりか文学や多才な趣味にも才能を顕すも、知る人が少ないのが惜しい。中根淑が無欲恬淡な故か、それとも江戸の武士らしいというべきか。

 1916大正5年、新保磐次により『香亭遺文』を金港堂から刊行。

   参考:『明治時代史大辞典』2012吉川弘文館 / 『現代日本文学大事典』1965明治書院 / 『日本文壇史Ⅱ』伊藤整1978講談社 / 『旧幕臣の明治維新』樋口雄彦2005吉川弘文館 / 『偉人天才を語る』小笠原長生1933実業之日本社

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