新潟県大河津分水路、青山士技師(パナマ運河建設)
毎日新聞創刊150年特集に略年表があった。一覧すると日清・日露から日中戦争・太平洋戦争まで一目瞭然。日本は1945昭和20年の終戦から現在まで一応平和だが、世界をみれば戦争はなくなっていない。
現に、ウクライナがロシアの侵攻に曝されている。世界中がウクライナを心配し、誰もが終戦を願っている。
ところで戦争の酷さとは異なるかも知れないが、自然災害も恐ろしい。略年表に記されただけでもこんなにある。
1823大正12年、関東大震災。 1991平成3年、雲仙・普賢岳で大火砕流が発生。 1995平成7年、阪神大震災。 2004平成16年、新潟中越地震。 2011平成23年、東日本大震災・東京電力福島第一原発で事故発生。 2016平成28年、熊本地震発生。
次は2004平成16年10月23日、新潟県中越地震のさいの「県民便り」。
<元気出していこー!新潟>
―――死者68人・・・・・越後平野の新田開発は、遊水地の消滅による水害の頻発の原因ともなります。1800年代(享和元年〜明治32年)の信濃川・中ノ口川で記録されている水害は、堤防の決壊だけでも23回。実に4年に1回の割合で発生しました。こうした水害の防止に最も大きな役割を果たしたのが、「大河津分水路」の建設です(「県民だより・鼓動2005.3.1」新潟県巻地域振興調整会議)。
大河津分水路を見たことあるが、広々とした水面、満々たる水に目を奪われた。その工事に関わった一人が、日本人で唯一パナマ運河建設に参加した青山士(あきら)である。
<大河津分水路>
1868明治元年、新発田藩、信濃川の水害を防ぐための工事、大河津分水の着工を新潟府に訴える。
1870明治3年7月、明治新政府、大河津分水工事を本格的に開始。
ところが、人力工事で掘れども掘れども崩れる「ばけもの丁場」など難工事箇所の出現など工事は難航。資金の工面、反対陳情、費用負担の増加で不満勢力の騒動となる。
1872明治5年、大河津分水工事負担金免除を求め騒動。
農民1万数千人が新潟県庁・柏崎県庁へ押し寄せ、鎮台兵に鎮圧された。
鎮台:軍団。廃藩置県と前後し6地域に設置(東京・仙台・名古屋・大阪・広島・熊本)。
1875明治8年、分水路工事とりやめ。
新潟の発展に生産増強策とならんで治水策と築港工事が重要であったから、外国人技術者による「新潟港や河川通船への影響など」が報告されると、延べ約537万人が働いた第一次分水路工事がとりやめになったのである。
1879明治12年、県内にコレラひろがる。3000人死亡。
1881明治14年4月、大洪水。とくに白根郷一帯は「一望海洋」のありさまであった。
白根市の田沢与一郎は早くから分水工事の必要性を説き、長男の実入(みのり)とともに信濃川治水会社をつくり、分水工事を進めようとした。しかし、実現しないまま死去した。
1896明治29年、通称「横田切れ」、信濃川破堤による大水害。
8月、かつてない大洪水で、信濃川と支流だけでなく阿賀野川・加治側・関川・保倉川・渋海川などが破堤、被害は県下全域に及んだ。なお、この年をふくめて、明治時代に18回も洪水がおこった。
1907明治40年、大河津分水路工事決定(国直轄)。
多くの人びとの長年の心血をそそいだ請願運動の末にようやく帝国議会で可決された。
大河津分水分水工事は信濃川を大河津村(長岡市)から直接、日本海へ分流するための水路を約10kmも掘削するのだ。
1909明治42年、内務省土木局、直轄事業に着手。
1922大正11年8月、13年の歳月をかけて大河津分水路完成、ようやく通水を開始。
しかし、8月通水以後に1箇所設置されたに過ず、分水路河床の急激な低下を招き、自在堰の上下流の水位差が計画水位差の2.3倍の7.73mに達するなど、破壊害の大きい旱害に苦しめられ、新潟平野の開発は一層停滞した。
1924大正13年11月、同一箇所で3回目の地滑り発生。
1927昭和2年6月24日、梅雨のさなか、大河津分水自在堰の八連のうち三連が激流に洗われえ突然陥没。
放水量調節機能は完全にマヒ、大河の川底が姿を見せ船の航行ができなくなった。田植え後の農民たちは水の奪い合いを始め、被害は甚大であった。
12月、新たな堰を築くため、内務省土木局は、新潟土木出張所所長に青山士(あきら)を任命。
―――青山は自在堰陥没の一報を聞いて、家族に「砂利を食べたからこんな無様なことになる」・・・・・砂利を食べるは「手抜き工事をした」土木界の隠語・・・・・その後の調査で、自在堰の修復は不可能と判明・・・・・宮本武之輔設計の堰を新に建設することになった・・・・・青山は現場に足を運び作業員らを激励・・・・・背広姿ながら脚にゲートルを巻いて腰に手ぬぐいかハンカチをさげ・・・・・土砂の中に芦の根が一本でも入っていれば、やり直しを命じ・・・・・疑問点や手抜かりが確認されると、厳しく指摘し直ちに改めるよう求めた。「国民や国家財政を考えよ」と叱咤した(『技師・青山士』)。
1931昭和6年4月22日、可動堰建設工事完成。
13年かかって完成した自在堰に代わる可動堰を、青山士と宮本武之輔たちはわずか4年で完成させたのである。
総延長10km。東洋一の大工事といわれた分水の完成は、洪水被害を激減させた。
青山士は、大河津分水補修工事竣功記念碑に
≪萬象ニ天意ヲ覺ル者ハ幸ナリ、人類ノ為メ國ノ為メ≫と日本語とエスペラント語で記した。
―――版画家棟方志功は1973昭和48年、70歳のとき、この地に脚を運び・・・・・「人類ノ為メ、國ノ為メ」と大声をあげて朗唱し「イイネ、立派ナ言葉ダネ」と繰り返し、合掌・・・・・棟方はその感動を作品に残した(『技師・青山士』)。
<青山 士> (あおやま あきら)
1878明治11年9月23日、静岡県豊田郡中泉村、青山徹・ふじの長男に生まれる。
1900明治33年、東京帝国大学工科大学土木工学科入学。
1年生のとき、内村鑑三主宰「第一回夏期講談講談会」に出席。
―――島崎藤村は夏期学校の雰囲気を『桜の実の熟するとき』で、「日本にある基督教界の最高の知識を殆ど網羅した講演」と・・・・・青山は内村が唱道する無教会主義キリスト教を生涯捨てなかった・・・・・(同前)。
1903明治36年、東京帝国大学卒業。
8月、パナマ運河開削工事に参加のため単身、横浜出航。
大学の恩師・廣井勇にパナマ運河開削計画のアメリカ政府顧問ウィリアム・バア(コロンビア大土木工学教授)への紹介状をもらって渡米。遠い外国へ赴くことになったのは、日露戦争間近で就職先がなかったのもあるらしい。
当時、パナマは南米コロンビアの支配下だったが、アメリカ政府はパナマ地峡を通商・軍事の要衝として重視、事実上乗っ取って運河を開削しようと画策。
1904明治37年2月、ニューヨーク・セントラル・アンド・ハドソン河鉄道で働く。
2月8日、連合艦隊旅順港外のロシア艦隊を攻撃。10日、宣戦布告。
6月、パナマ運河工事に携わる唯一の日本人技術者となる。
1906明治39年、ガトゥン・ダム工事開始。
1911明治44年3月、ガトゥン閘門建設工事開始。11月、帰国へ。
青山はパナマ運河工事でもっとも困難な初期段階に、7年半、縁の下を支えるような役割を演じた。
1912明治45年2月、内務省東京土木出張所・荒川改修従事。
1915大正4年、土田むつと結婚。10月、荒川・岩淵水門工事。
1924大正13年、荒川放水路通水式。
1927昭和2年12月、新潟土木出張所長。大河津分水路建設に携わる。
1928昭和3年、これ以後、土木会議委員ほか数々の委員を務める。
1931昭和6年、大河津分水可動堰完成。
1935昭和10年、土木学会会長。
1945昭和20年、敗戦。疎開先の長野県から静岡県の実家へ。
1936昭和38年3月21日、死去。享年84。
青山士著『ぱなま運河の話』1939(国会図書館デジタルコレクションで読める)。
参考: 『技師 青山士』高崎哲郎2008鹿島出版会 / “Urban Kubota(17)”アーバンクボタ編・1979クボタ出版 / 『新潟県の百年』1990山川出版社 / 『新潟県の歴史』1998山川出版社 / 『新潟県の不思議事典』1998新人物往来社
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2022.4.5
NHKニュース 新潟県燕市
大河津分水の通水100年を記念し三つの堰をライトアップ!
桜の見頃はこれから、ライトアップは4月17日迄。お近くの方ぜひ、どうぞ。
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