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2022年4月 2日 (土)

シーボルトに学び植物分類法を紹介、植物学者・伊藤圭介

 小学生のとき引っ越し。家は大きかったがはげた白壁が子どもの目にも寂しかった。その上、庭とも空き地ともつかない所は草ボウボウ。でも、浅草育ちの父は草刈しなかった。今想うと親の方が寂しかったかもしれない。
 住めば都、よく人が来て賑やかになった。春になると枯れ草は緑に、一面のクローバーは花咲く絨毯になった。飽きもせずクローバーで花輪を作り、四つ葉を探して遊んだ。秋には、色とりどりのコスモスの花々が風にそよぎ、いい感じ。植物が好きになった。
 中学の理科の先生の指導で押し花、植物観察日記、細密画も描いた。植物学者・牧野富太郎について教わった。
   けやきのブログⅡ2019・2・16<世界的な植物分類学者、牧野富太郎(高知県)

 その牧野富太郎より半世紀以上前に活躍したのが伊藤圭介である。幕末の長崎で*シーボルトに博物学、植物学を学び、シーボルトの日本研究にも協力した。

     シーボルト(フィリップ・フランツ・フォン)
       ドイツの医師・植物学者。1796~1866。

 1822軍医少佐として東インド会社に入りジャワ赴任。翌年、長崎出島のオランダ商館の医官として着任。長崎郊外の鳴滝に塾を作り、医療のかたわら日本の自然・人文資料を集めて研究。また高野長英ら多数の門人に蘭学や近代的西洋科学を実地指導した。
 6年間滞在。帰国にさいし国禁の地図を持っていた罪で国外追放、関係者が処罰された(シーボルト事件)。オランダに帰り日本とヨーロッパの文化交流に貢献。のち再来日。
   
     伊藤 圭介

 1803享和3年1月27日、名古屋呉服町2丁目、医師・西山玄道の次男に生まれる。
   幼名、西山左伸。のち父の旧姓伊藤に復す。名は舜民(しゅんみん)、のち淸民。号は戴堯(たいぎょう)、錦窠(きんか)、花繞書屋(かにょうしょおく)、十二花楼。
   圭介は幼少より医術と本草を学び、青年時代からは蘭学も修行。
 1820文政3年、17歳。医業を開く。
 1821文政4年、京都の藤林泰助に洋学を学ぶ。
 1826文政9年3月、熱田()に来た参府途中のシーボルトを、師の本草学者・水谷豊文と訪ねて学術上の質疑を行う。
    5月、シーボルトの帰路に再び会見し長崎遊学を勧められる。
 1827文政10年、長崎に赴く。出島蘭館に出入りし半年間、シーボルトに学ぶ。
   シーボルトから餞別に貰ったツンベルクの『日本植物誌』をもとに、『泰西本草名疏』4巻3冊を著し、日本ではじめてリンネの植物分類法を紹介。
   ―――出島の入り口には関門を設け所謂探り番なる数名の吏員ありて出入りする者の懐中または袂など逐一吟味して警戒・・・・・植物標本を示して検査を受けて通行したり・・・・・長崎における同窓は高野長英、林洞海など数十名なりし(『伊藤圭介先生ノ伝』)。
   ―――伊藤圭介が新植物学を日本に輸入し、且つ之を広く後人に伝えた功績は何としても、動かすべからざるもので、蓋し新植物学界第一の大立者と云はねばならぬ(『新文明の源流』)。

 1827文政10年、摂津・三河・遠海・駿河などで植物採集。ついで江戸に出て宇田川榕庵と日光山で採集、さらに榛名山・妙義山・より木曽路をへて名古屋に帰る。
   3月、名古屋の自宅で薬品会。同好の諸氏とはかり、各種の薬品その他を陳列して人々に縦覧させた。「これ蓋し本邦に於ける博覧会の濫觴なるべし」(『明治百傑伝』)。
 1828文政11年、シーボルト事件。翌年、幕府はシーボルトに帰国を命じる。
 1829文政12年、植物分類法を『泰西本草名蔬』と名付けて刊行。
 1830天保元年、高野長英、長崎遊学の帰途、訪れる。

   ―――天保三.四.六.七年にわたって気候不順・大洪水・大風・地震・旱魃などが頻発し、一揆・打ち毀しも急に高率をしめし、大塩平八郎の乱を筆頭に・・・・・各地にあいついで暴発・・・・・本草学者にとっては果たすべき多大の役割が・・・・・(『伊藤圭介』)。
 1833天保4年、『救荒本草私考』を脱稿。
 1837天保8年、諸国凶荒、窮民困苦のため『救荒食物便覧』を刊行。
   尾張藩主は、その版木を借り上げ、近傍諸国に頒布した。
 1838天保9年、江戸の大火で西ノ丸炎上。木材を幕府に献上するため幕吏、藩士、人夫数百人と木曽山中に医師として同行。

 1848嘉永元年、薬品会を開く。
 1850嘉永3年、自宅に種痘所を設け、毎月八の日に施術。
 1854安政元年3月、異国船渡来、筆談役を命ぜられる。
 1855安政2年、息吹・山城諸山・摂津・有馬・伊勢朝熊山・志摩青嶺などで採薬。
 1858安政5年、『輿地記略』を翻刻刊行。
 1859安政6年、日蘭通商条約締結により追放令が解除されたシーボルト再来日。
 1860万延元年3月、名古屋朝日町に薬園「旭園」を開設、博物会を開く。
 1861文久元年、幕府の蕃書調所に登用され江戸で1863文久3年まで物産取調に従事。
   シーボルト横浜滞在中に再会。『伊藤圭介先生ノ伝』にその様子が精しい。
 1864元治元年、第一回長州征伐。征長成長総督・前藩主慶勝に扈従。

 1871明治4年、文部省出仕。
 1873明治6年、『日本産物志』編集。
 1874明治7年、『日本植物図説』伊藤圭介著・花繞書屋出版。
 1876明治9年、『日本産物誌・美濃部』武蔵部・山城部・近江部についても国会図書館デジタルコレクションで閲覧できる。
 1880明治13年、小石川植物園担任。
   スエーデン王立学士会院より銀牌を受ける。
 1881明治14年、79歳で東京大学員外教授、のち正教授となり1886明治19年まで在職。
 1888明治21年、日本最初の理学博士号を受ける。
   *栗本鋤雲らと「多識会」を開き、会誌を発行。
   けやきのブログⅡ2021.5.22 <幕臣の明治はジャーナリスト、栗本鋤雲>   

   ―――吾輩(横山健堂)が、先生に謁したるは、先生が97歳の秋なりき。鶴髪蓬々として、挙止すでに神仙の姿あり。耳はやや遠くなれるも、気力は猶盛んにして、百年までは生きる積もり也との大抱負ありき・・・・・高齢を重ねつつも、なお老い朽ちることなく、安定した健康生活を保持・・・・・(『新人国記』)。
1901明治34年1月20日、死去。享年99。
   谷中天王寺に葬られる。

   参考: 『伊藤圭介』杉本勲1988吉川弘文館 / 『外国人名事典』1993三省堂 / 『民間学事典・人名編』1997三省堂 / 『伊藤圭介先生ノ伝』1927梅村甚太郎編集出版 / 『新文明の源流:日本洋学の発達』魚澄総五郎1914赤城正蔵 / 『明治百傑伝』干河岸貫一 1902青木嵩山堂 / 国会図書館デジタルコレクション

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