お百度まうであヽとがありや 大塚楠緒子
ロシアに侵攻され何週間も砲撃に曝され困難に陥っているウクライナ。世界にはたくさん国があるのに、戦争を止められない。残酷な報道に目を背けたくなるが、事実はもっと酷いかもしれない。どうか一日も早く平和になりますように、ただ祈るばかり。
明治の日本も外国と戦争をしたが、その当時は反戦の思いをおおっぴらに唱えられない風があった。しかも男尊女卑の時代である。しかしそれでも、反戦を訴えた女子はいた。
与謝野晶子は、旅順港包囲軍中に在る弟の身を案じ「君死にたまふこと勿れ」を発表。
あヽをとふとよ、君を泣く、 君死にたまふことなかれ、
末に生まれし君なれば、 親のなさけはまさりしも、親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや・・・・・
この晶子の反戦の歌と並び称されたのが、大塚楠緒子「お百度詣」である。
今なお共感をよぶ反戦歌、作者二人のうち与謝野晶子は「非国民」とバッシングされたが、大塚楠緒子はされなかった。その違いは出身、後ろ盾に由来するのだろうか。大塚楠緒子を知ると察せられるかも知れない。
けやきのブログⅡ2010.6.2<寺田寅彦、大塚楠緒子>
大塚 楠緒子 (おおつか くすおこ/なおこ)
1875明治8年8月9日、東京市麹町区一番町49で生まれる。
旧土佐藩士・大塚政男と伸子の長女。本名・久寿雄。別称・久寿雄子。
父は鹿児島裁判長をはじめ、名古屋・宮城・東京の控訴院長を歴任。父の地方歴任中、楠緒子は東京の自邸で母と暮らしていた。
1881明治14年、麹町富士見女子小学校に入学。読書を好む。
1888明治21年、一橋共立女子職業学校入学。家庭環境に恵まれ、諸芸と教養を巾広く身につけた。
1889明治22年、東京高等女学校(お茶の水高女)へ転入。
1890明治23年、竹柏会に入門し佐佐木信綱(歌人・国文学者)に師事、国文学や短歌の指導を受ける。
1891明治24年、『婦女雑誌』に「尋花」、翌年短歌「新年梅」を発表。
1893明治26年、19歳。東京高等女学校を酒席で卒業。
結婚。夫・小屋保治は群馬県人。東京専門学校美術講師。のち東京帝国大学教授。
1894明治27年、20歳。日清戦争。
『婦女雑誌』に「つま琴」を連載。「応募兵」を発表。
1895明治28年、『太陽』に軍歌「泣くな我子」を発表。この軍歌は作曲され流行した。
1896明治29年、夫・保治がドイツ留学。長女誕生。
短歌、小説を『文芸倶楽部』『太陽』などに発表。
この夏、樋口一葉が重態に陥る。森鴎外の紹介で名医の青山胤通が診察したが病状が重く11月、満24歳の若さで歿した。一葉の死を悼んだ鴎外は、葬送の行列のおり騎馬で棺側に従うことを遺族に申し入れたが、あまりにも晴れがましいと謝絶された。
1897明治30年、『文芸倶楽部』閨秀小説号に「しのび音」、詩を『女学雑誌』に発表。
1900明治33年、夫・保治帰国。
保治は東京帝国大学教授となり、美学・美術史を日本人としてはじめて担当。その門下には島村抱月・阿部次郎などがいる。
1901明治34年、『女学世界』に「ゲーテがスタイン夫人に送れる文の中より」、ほかに翻訳戯曲などの創作を続ける。はじめ硯友社の影響をうけたが、この頃から森鴎外の翻訳作品を範とし、ロマン主義文学の摂取と紹介に努めた。
この年、与謝野晶子『みだれ髪』、鳳晶子の名で東京新詩社から刊行。
1902明治35年、『婦人界』に「離鴛鴦」掲載。のち単行本『晴小袖』に諸短編・翻訳・戯曲とともに収める。
1904明治37年、30歳。日露戦争。
軍事小説「一美人」を『女学世界』に発表。
9月、与謝野晶子『明星』に「君死にたまふこと勿れ」を発表。
1905明治38年1月、出征兵士をおくる家族の情「お百度詣」を『太陽』に発表。
お百度詣
ひとあし踏みて夫(つま)思ひ ふたあし国を思へども、
三足ふたヽび夫思ふ 女心に咎(とが)ありや。
朝日に匂ふ日の本の、 国は世界に只一つ。
妻と呼ばれて契りてし、 人も此世に只ひとり。
かくて御国(みくに)と我夫(わがつま)と、 いづれ重しととはれなば、
たヾ答へずに泣かんのみ。 お百度まうであヽ咎ありや。
1906明治39年、32歳。『新聲』『婦人画報』『時代思潮』『早稲田文学』『心の花』など諸雑誌に詩・短歌・小説を発表。
1907明治40年、長編「露」を『萬朝報』に連載。『中央公論』に「夜の磯」発表。
1908明治41年、単行本『露』刊行。「姉妹」を百号記念の『明星』に発表。
4月27日~5月3日。長編「空薫」を夏目漱石の推薦により『東京朝日新聞』に35回にわたり連載。
漱石と夫の保治が親友だった縁で、楠緒子は当代一流の文学者から小説の指導をうける幸運に恵まれた。
ちなみに、当時の『朝日新聞』には島崎藤村の「春」も併載されていた。
「空薫」(そらだき)あらすじ。
◇ 松戸雛江という美しい誇りかな女性がヒロイン。17歳の時、一高生の恋人と死別、その俤を忘れ得ない。しかし、上流の生活に憧れる雛江は、25歳も年上の政治家と結婚。しかし夫は先妻との間に生まれた文科大学生の輝一を残し死んでしまう。雛江の死別した恋人と輝一が似ていることから悲劇が起こる。
ある日、雛江は輝一とフランチェスカとパオロの古伝説を語り輝一に媚態を占めそうとする途端に地震が起こる。「空薫」はこれで終わり、作者インフルエンザのため稿を中断。
7月~9月、『万朝報』に「露」を連載、単行本として刊行。
1909明治42年、5月18日~6月26日「東京朝日新聞」。
「空薫」の続編「そら炷」(そらだき)40回連載して完結。炷:シュ。
◇ 地震の為に思いをとげられなかった雛江の輝一への思慕がますます募り、輝一の恋人、泉子を引き離そうと画策する。そのために輝一は煩悶、泉子との仲を絶つ。泉子の父とただならぬ仲になった雛江は離籍され・・・・・。
―――「空薫」と「そら炷」のタイトルは、<香炉から空薫の煙が上る、只一筋の細い細い、蠶の口から吐き出す絲そのまヽの細い煙であるが、縦横自在に心ゆく限り虚空に拡がっては、咎むる事も出来ぬ、捉むことも面白いではないか>(続編)「そら炷」19回)に依拠している・・・・・作者は小説の進展によって<不倫の恋>の行く末を楽しんでいるようであり、またリアリティーのある結末にゆきつくのを持て余しているようでもある・・・・・(『大塚楠緒子作品集』)。
1910明治43年、「北風」「七色」「隙見」「行きたる子」「雪の日」「別の女の顔」「花見小袖」「雲影」発表。
5月、「雲影」を『大阪朝日新聞』に連載したが、病のため中絶。高輪病院に入院。
7月、肋膜炎を併発して大磯に転地したが、病勢悪化。
11月9日、死去。享年36。
雑司ヶ谷に葬られた。才色兼備の大塚楠緒子の葬儀に「会する者、学界、文壇、操觚界数百人、稀に見る盛儀」であり、新聞雑誌一様にこの美しき閨秀作家の夭折を悼んだ」。夏目漱石は楠緒子の死を悼み、次の句を手向けた。
棺には菊抛げ入れよ有らん程
有る程の菊抛げ入れよ棺の中
参考: 『明治女流文学集(一)』1983筑摩書房 / 『現代日本文学大事典』1965明治書院 / 『現代日本文学大系5』1979筑摩書房 / 『新編・日本女性文学全集』2011菁柿堂 / 『大塚楠緒子作品集』石崎等編2021未知谷
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