校門前は満目の水田、界隈の畑地はみょうが畑、市島謙吉(春城)
コロナ感染が一時減ったとき、早大エクステンション「地図でたどる日本の地名」(今尾恵介先生)を申込んだが、再び感染増で全欠席。資料を頼むと着払いで届いた。その資料の<目印・交通に関する地名>に次の地名があった。
厳木:きゅうらぎ。神聖なご神木など。
追分:おいわけ。街道の分岐点。
沓掛:くつかけ。峠や渡河地点の前後など難所にある。
「沓掛」で昔の時代劇映画「沓掛時次郎」を思い出した。沓掛出身だから沓掛時次郎とのみ思っていたが、股旅者(ばくち打ち)の旅は苦労も多く困難だからもあるのかな。こんなこと言うと昭和の古老と思われそう。
講座のついでに図書館に行けなかったのも残念。賑やかな早稲田界隈を思い浮かべていると、<早稲田ミョウガ>「将軍も食した江戸の味」という記事が、
―――東京都新宿区の早稲田大学の辺りはかつて江戸の伝統野菜「早稲田ミョウガ」の一大産地だった。大学の建設と宅地化で畑はなくなり、市場から姿を消したが、10年程前に復活したと聞く。秋が旬のミョウガに対して、春は新芽のミョウガタケが楽しめるそう・・・・・(毎日新聞2022.3.29)。
それで、早大創設に関わった市島春城の「ミョウガ」を思い出した。
―――今の早稲田大学の前身東京専門学校の当時は、校門の前は満目の水田で、界隈の畑地はみな茗荷(みょうが)畑であった・・・・・ 芭蕉庵もあれば(太田)道灌の山吹の里もあり・・・・・ なぜかかる地に学校を建設したかと云うと、第一は清閑の処で学徒の健康によく・・・・・ 大隈侯の別邸があって、隣接して大隈侯所有の空き地があった・・・・・ その空き地は現在、大学の所在地である・・・・・ 大隈侯の別邸は、もと讃岐高松の松平家(松平頼濤伯)の下屋敷であって、ここに維新の始め*山東直砥が学校を開いたことがあり、その後、尺振八が英学を教授したこともあるのだ(春城『回顧録』)。
山東直砥:さんとうなおと。学校開設のときは山東一郎。校名は、北門社新塾または明治義塾とも。神奈川県出仕後、直砥と改名。山東昭子参議院議員議長の曾祖父にあたる(『明治の一郎・山東直砥』2018中井けやき)。
尺振八:せきしんぱち。幕末明治の英学者。
市島 謙吉 ( 春 城 )
1860安政7年2月17日、新潟県越後蒲原郡水原(阿賀野市)の大地主、角市市島家五代目・市島直太郎の長男に生まれる。幼名は雄之助。
12歳にして詩を作りまた白文(本分だけで注釈をつけない漢文)の『資治通鑑』を読む、人これを神童と称せり・・・・・明治5年新潟学校に入り英学を修め二年を出でずして卒業・・・・・(『立志の友:知識進歩』)。
1874明治7年、上京して東京英語学校入学。
1878明治11年、東京帝国大学文学部入学。
同級に高田早苗・天野為之・坪内逍遙・山田一郎などがいて人脈を得る。また、諸新聞に主権論を発表、喝采を博した。
1881明治14年10月、官有物払い下げ中止、大隈免官を決定(明治14年の政変)。
市島の在学3年次に父の養蚕事業が失敗、叔父の援助を受けるも結局中退。小野義真(梓)の斡旋で就職したが、政変で下野した大隈重信のもとに馳せ参じる。
1882明治15年4月、立憲改進党結党式。
大隈重信を総理に決定。市島は小野梓に従い、立憲改進党創立に大いに尽力。
東京専門学校(のち早稲田大学)創立。大隈は官学に対抗して在野的・自由主義的人材の育成を図った。
1883明治16年、越後に帰郷。
中頸城郡高田の有志者と「高田新聞」を起し、その主筆として弁論をふるう。改進党の党議を述べ、操觚(そうこ)ジャーナリズムに従事。
*高田事件を批判する記事で「改正新聞紙条例」筆禍第一号として検挙、投獄。前後3回入獄。
高田事件:けやきのブログⅡ2018.11. 3<自由民権あまりに性急すぎて、赤井景韶(新潟県)>
?年、 「新潟新聞」(明治10年創刊)主筆となる。
1885明治18年、出獄後、叔父娘、ユキと結婚。
高田早苗・坪内逍遙らと東京専門学校(のち早大)の運営に当たり、40年間その経営に当たる。政治科の講師をつとめ、幹事となり評議員を兼ねる。
1888明治21年11月、同好会設立。新潟県下の有力者6000名の会員あり。
1890明治23年、第一回衆議院議員選挙に立憲改進党から出馬するも、大同団結派に敗れ落選。
「読売新聞」入社。翌年、高田早苗を継いで主筆となる。
1894明治27年10月、第4回衆議院議員選挙・新潟県第二区当選。
以後、1902明治35年、まで4期つとめる。
1898明治31年、風邪がきっかけで体調悪化、1901明治34年入浴中に喀血し、衆議院議員を辞職。政治活動を断念。
1902明治35年、東京専門学校図書館・初代館長~1917大正6年まで務める。
1903明治36年、日本文庫協会(のち図書館協会)を設立、初代館長。図書館事項講習会を行い、日本の司書制度の濫觴となった。
1908明治41年、図書刊行会を創設。膨大な未刊の珍籍を続刊した。
1922大正11年、大隈重信死去。葬儀委員長を務める。
1923大正12年9月1日、関東大震災。
―――私の宅は火災を免れたが、玄関と、それに沿う処が傾いた・・・・・書庫を持たない私は、玄関にある室に多くの図書を置いてゐた。さてそこが傾いて困つたのは、書物の置き場が無い事であつた。置き場の工夫がつかず、仮に置かれた所が、老侯(大隈重信)の書斎であつた・・・・・置き所もあらうに、仮とは云へ、妙な処へ入れたものだと思ひながら、一種の快感を覚えた。ここは老侯が終日客を述いて談論された、もっとも紀念しべき室である・・・・・(『春城漫筆』)。
1939昭和14年、脳溢血で倒れる。
1944昭和19年4月21日、死去。享年84。
大日本文明協会、国書刊行会、日清印刷(現大日本印刷)等にも携わり、印刷業界でも精力的に活動。ジャーナリズム、政界、財界でも活躍。多彩な体験と広い学識とに基づいて十数種の随筆を執筆刊行。『春城八十年の覚書、附平民論』は春城の面目を伝えている。 ほかに『回顧録』 『春城漫筆』 『随筆・頼山陽』 『春城代酔録』 『政治言論』 『日本改進論』 『非大同団結論』 『平民論』 『改進論』ほか。
参考: 『現代日本文学大事典』1965明治書院 / 『衆議院議員列伝』山崎謙編1901衆議院議員列伝発行所 / 『立志の友: 智識進歩』篠田正作1892鍾美堂 / 『日本人名事典』1993三省堂 / 国会図書館デジタルコレクション / ウイキペディア
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