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2022年5月 7日 (土)

学問にはきびしく、人には温く、科学者・保井コノ

   <沖縄復帰50年 「日本人」の対岸>
  ―――沖縄から上京した南風原朝和さんは、琉球政府立那覇高校3年だった71年(昭和46)・・・・・日本政府と琉球政府が大学の授業料や在学中の生活費の一部などを負担する「国費沖縄学生制度」に応募・・・・・試験に合格し東工大工学部第4類に入学する希望はかなったが、その後に思わぬ人生の分岐点が待っていた・・・・・希望の学科を選べるが、沖縄学生制度で入学した学生は海外からの学生は海外からの留学生と同様の扱い。日本政府や大学、琉球政府の意向などにより専攻科が本人の希望とは無関係に決められる(2022.5.4毎日新聞)
  
 戦後26年たっても進路を選べなかった沖縄の青年、その状況に考えさせられる。他に、状況は異なるが「女子に理科は無理」と決めつけられ、進学先ばかりか専攻も変更せざるを得なかった保井(やすい)コノの例もある。
 学問に秀でた人は、進路選び放題と思っていたが間違いだった。誰もが時代、社会、環境などに左右され、好む道を行けるとは限らないようだ。それでも困難にめげず信ずる道をいき、そのうえ後進に道を拓いた人たちがいて今がある。そう思うと、近ごろの暗いニュースにややもすると投げやりがちな気分が持ち直す。
 ちなみに、保井コノは沖縄の高校生が上京した1971昭和46年、91歳で世を去っている。

     保井 コノ    

 1880明治13年10月、愛媛県大内(おおち)郡三本松村(大内町)、回船業を営む家の9人姉弟の長女に生まれる。
 1888明治21年、三本松尋常小学校入学。活発で勉強好きな子どもだった。
 1892明治25年、白鳥高等小学校入学。
   ―――コノは漢文の勉強がしたくて課外授業に参加しましたが、どうしても論語が好きになれません。人間を、なになにせねばならぬ、こうあらねばならぬ、としばりつけようとする儒教の教えを勉強しても少しも楽しくないのです。「先生、『十八史略』や『日本外史』を読ませてください」・・・・・コノの生意気な申し出を、先生は快く受け入れてくれました(『科学に魅せられて』)。

 1896明治29年、戸籍の生年月日を書きかえ、香川師範学校女子部入学。
  ―――女子は結婚して家事をこなせばいい時代。勉強なんか必要ない、というのが常識の時代・・・・・女子の進学先は県に一校、香川師範学校女子部しかないうえに受験資格の年齢が八ヶ月足りない・・・・・コノの父は役場にいって生年月日を早くして受験・・・・・コノは最年少なのに一番で試験に合格・・・・・家をでて学校の寮に入る(同上)。
 1898明治31年、18歳。香川師範学校から新設された女子高等師範学校、第1回理科生として入学。
   師範学校に外国語の授業はなく、コノは先輩たちを誘い、自主的に英語を勉強。

 1902明治35年、22歳。師範学校卒業後、岐阜県立高等女学校の教諭となる。
 1903明治36年、物理を習った飯盛挺造先生から「高等女学校の理科の教科書をつくってみないか」と提案されて書いたが、「女の子がこういうものを書くはずがない」という訳の判らない理由で、文部省の検定を通らなかった。飯盛がどんなに抗議しても受け入れられなかった。コノは傷つき打ちのめされたが、考えた。
  ―――女にも理科の勉強ができることを見てもらうには、自分の研究をするしかない。それならまさか、これは女のお前がやったはずがない、なんて無茶なことはいえないだろう。そのためにはわたしはわたしの勉強をつづけよう」(同上)。

 1904明治37年、神田共立女学校教諭。
 1905明治38年、東京女子高等師範、研究科新設。理科に選ばれ生物学を専攻。
   ―――母校の東京女子高等師範が、自校の先生を育てるため、研究生を募集・・・・・女性のために、国がはじめて用意した、理科の研究者になるためのたった一つの席・・・・・コノはその席を手に入れることができました(同上)。
   動物学の岩川友太郎教授の研究室にはいり、「*鯉のウエーベル氏器官について」を『動物学雑誌』に発表。この論文は、女性が発表した日本最初の科学論文として貴重。
   鯉のウエーベル氏器:音を伝える役目をする小骨の連鎖。

 1909明治42年、『植物学雑誌』に、水性のシダ・サンショウモの原葉体(胞子が発芽して生じる配偶体)調べて発表。帝国大学の三宅驥一郞教授の目にとまり、細胞学の指導うけることになった。
 1911明治44年、研究成果「サンショウモの生活史について」をイギリスの『アナールズ オブ ボタニー』(Annals of Botany)に発表。
  ―――非常に綿密な研究で、顕微鏡下に見る119に及ぶ図を添えた論文は、外国の専門誌に載った日本女性初の学術論文になりました(『科学する心』)。 

 1914大正3年4月18日、女子高等師範学校教授・保井コノ文部省外国留学生となり、「理科および家事研究のため、米独両国に二ヶ年の留学」を命ぜられアメリカへ出発。
   ドイツのボン大学の研究室がコノのために研究室を用意してくれたが、文部省の留学許可がおりなかった。「女子が科学をやっても、ものにならない、国家のために役立たない」、女に科学は向かない、偏見から抜け出せないのだ。
 しかし、細胞学・遺伝学の東京帝国大学の藤井健次郎教の力添えで、やっと留学が認められた。
   シカゴ大学では細胞学を研究。

 1915大正4年、ハーバード大学に移り、ジェフリー教授のもとで石炭の研究を開始。
   石炭の研究方法を勉強し、日本に持ち帰る役目があった。しかし、第一次世界大戦がはじまりドイツへ行かれなくなり、アメリカにとどまり、本格的に石炭の研究をする。
 1916大正5年6月、帰国。
   帰国後、女子高等師範学校教授を務めつつ東京帝国大学嘱託として研究を続ける。
   師範学校には石炭の研究をする設備がなかったので、東京帝国大学の藤井健次郎教授のもとで石炭の研究をする。石炭の研究は10年間続けられた。
 コノは、東京女子高等師範学校でも細胞学、遺伝学を研究。朝早くから夜遅くまで東大と師範学校の二校で働いた。

 1919大正8年、東京女子高等師範学校の教授になる。
  ―――女高師で講義と学生指導を終えると直ちに東京帝大へ行き、夜遅くまで研究する日々が続いて・・・・・その間、北は北海道の夕張炭鉱から南は九州の三池炭鉱や高島炭鉱におよぶ日本各地の炭鉱へ自らでかけて、石炭を採集・・・・・炭鉱のたて穴を、一人でモッコ(縄を編んで石炭を運ぶのに使った)に乗って地下30m以上の深さまで降り、採集するという危険な作業で・・・・・研究に理解があった母でさえ「それだけは止めて」と心配していました・・・・・化石化した植物の種類を鑑定して、学名に「ヤスイ」の名を入れた少なくとも6種類の古植物の種を発見(同上)。

 1927昭和2年4月、論文「日本産石炭の構造」で女性として初の理学博士号を得る。
   男女差別の著しい時代、女性科学者として全てのことに“日本初の”が付く先駆者の道を歩み、女性科学者に道を拓いた。以後、他の分野でも女性博士が出るようになった。コノは、
「自分の仕事が残ってゆけば、それだけで自分は満足できると信じております」。
 1929昭和4年、細胞学専門誌『Cytologia』キトロギア創刊に尽力、晩年まで制作を続け、世界的雑誌に育てることに貢献。
 1949昭和24年、女子国立大学の設立に尽力。
   戦後に新しい学制が敷かれることになり、専門的な学問と研究を行う国立の女子大学を設立させるために、コノは積極的に活動。東京女子高等師範学校からお茶の水女子大学への転換に重要な役割を果し、新制・お茶の水女子大学の教授になった。

 1952昭和27年、72歳で退官。名誉教授。
  ―――コノは仕事を振り返って「結局一生を通じての仕事は、[系統」の研究となる」・・・・・コノの研究論文は77歳までに95編に及んでいる・・・・・教育面では、講義や学生指導に、女子としての甘えを許さず、何事にもゆるがせにしない毅然とした態度をしめし・・・・・その一方、学問を離れては、後輩や学生たちに、親身な気配りをみせていました(同上)。
   退官するまで数多くの女性研究者の育成に力を注ぎ、退職金として受け取ったお金は「安井・黒田奨学基金」として東京女子高等師範学校に寄付。

 1953昭和28年、お茶の水女子大学に設けられた自然科学の研究を奨励する「保井・黒田奨学基金」は現在も若い女性研究者に教育の機会を与えている。
 1965昭和40年、85歳。勲三等宝冠章を受章。
 1971昭和46年3月24日、自宅にて死去。享年91。
   亡くなったコノの枕元には、英字新聞と新刊の植物雑誌がおかれていたという。

   参考: 『科学に魅せられて――マリー・キュリー 保井コノ レイチェル・カーソン 柳澤桂子』山脇あさ子2002岩崎書店 / 『科学する心――日本の女性科学者たち』岩男壽美子ほか2007日刊工業新聞社 / ウイキペディア

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