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2022年5月28日 (土)

明治・大正・昭和(戦前)、函館本線

 紙の新聞が好き。ニュースをパソコンやスマホ、テレビで見るけど、新聞を広げて読むのが愉しい。でも、媒体にかかわらず残念なニュースも少なくない。
 例えば、<JR函館線一部廃線へ>
  ――― 北海道新幹線の札幌延伸(2030年度末)に伴いJR北海道から経営分離される函館線長万部(おしゃまんべ)-小樽間(140・2キロ)の並行在来線を巡り、沿線9市町と道の協議が3日、倶知安(くつちゃん)で・・・・・(毎日新聞2022.2.4)。
 ローカル線廃止のニュースは残念ながら他にもあり、その都度、税金を投入してでも存続した方がいいと思う。老いてもそれなりに愉しみはあり、好奇心と足(自身の脚と交通機関)があれば元気で暮らせる。人の往来があれば、その土地はさびしくならない。それを維持するのが難しいから仕方がないかもしれないが、なんとか良い智慧があるといい。

 さて、函館は日米和親条約(1854安政元年)による開港場の一つで、はやくから開けていた。鉄道の歴史も古く、函館本線は北海道の鉄道の発祥路線である。 
 明治期の函館本線車窓から田本研造が写真を撮ったと想像したが、時期尚早か。
 2021.11.13けやきのブログⅡ<土方歳三を撮った箱館(函館)の写真家、田本研造>

 函館本線は、北海道函館市の函館駅から長万部駅、小樽駅、札幌駅を経由して旭川市の旭川駅を結ぶ北海道旅客鉄道(JR北海道)の鉄道路線。
 北海道最古の鉄道開業区間を含んでおり、本州との連絡をおもな目的として北海道における鉄道輸送の基幹を担ってきた。
 現在は、函館駅から旭川駅までの全区間を運行する列車はなく、函館駅~長万部駅間、長万部駅~小樽駅間、札幌駅を通る小樽駅~岩見沢駅間、岩見沢駅~旭川駅間の各区間でそれぞれ路線の性格が異なっている。

  函館駅: 長万部駅間は函館市と札幌市を結ぶ特急列車や本州からの貨物列車のメインルートになっている。長万部駅~小樽駅間はローカル線と化している。
  海線・山線:長万部駅から室蘭本線・千歳線を経て札幌方面に接続するルートを「海線」、函館本線のこの区間は「山線」と呼ばれている。

   『日本鉄道旅行 歴史地図帳・北海道』
   鉄道や列車の記録とともに、徳冨蘆花・若山牧水などの乗客の文章が興味深い。読むと、「具体的な駅や風景についての記述は歴史の記録にもなり、失われた沿線風景を蘇らせる」と分かる。

 1868明治元年、戊辰戦争。
 1972明治5年、鉄道開通。新橋~横浜開業。
 1877明治10年、西南戦争。
 1879明治12年、琉球藩を廃止し、沖縄県を置く。
 1880明治13年、幌内鉄道(手宮~岩見沢~幌内)開業。一往復の列車を運転、約3時間。2年後、幌内全通。
   11月28日、札幌駅開業。駅名の起原。
  ―――アイヌ語「サツ、ポロ」から出たもので(乾きたる広き場所)を意味し、昔、豊平川の氾濫した跡が乾燥して、広大な乾原となったのに因るという。

 1889明治22年、大日本帝国憲法・衆議院議員選挙法・貴族院令公布。
 1892明治25年、北海道炭鑛鉄道(室蘭~岩見沢)開業。
   北海道炭鑛鉄道:開拓使の敷設した幌内炭礦鉄道の払い下げを受け、北海道鉄道および北海道庁が運営する北海道官設鉄道によって建設。宮内省を最高株主に華族・政商資本と薩摩は官僚により成立。

 1894明治27年、日清戦争。清国に宣戦布告。
 1896明治29年、北海道鉄道敷設法公布。政府が予定の路線を調査し鉄道を敷設。
 1897明治30年、北海道炭鉱鉄道開業で、手宮~岩見沢~室蘭全通。
 1902明治35年、日英同盟協約、ロンドンで調印。

 1904明治37年、日露戦争。翌年、ポーツマス条約調印。南樺太・遼東租借権。
   7月1日、函館駅開業。駅名の起原。
  ―――この地名の古語を臼岸(ウスケシ)といい、アイヌ語「ウシヨロケシ」の転訛したもので「湾内の端」を意味している。宝徳年間、河野加賀守政通が居城をここに築いたが、その形も箱の如くであった為、世人これを箱館と呼び、明治2年7月国郡劃定に際し「函館」と改めた。

 1905明治38年、北海道官営鉄道、鉄道作業局(国有鉄道)へ編入。
 1906明治39年、鉄道国有法公布。
   北海道炭礦鉄道と北海道鉄道は、鉄道国有法によって買収され、国有鉄道線となる。

 1907明治40年、落合~帯広開通。函館から札幌以東への初の直通列車(函館~旭川~釧路)。
1908明治41年、青函航路の運行開始。

 1910明治43年9月13日、<函館~大沼公園(函館本線)>
   ―――札幌行の列車は、函館の雑踏をあとにして、桔梗、七飯と次第に上って行く・・・・・臥牛山を心にした巴形の函館が、鳥瞰図を展べた様に眼下に開ける。「眼に立つや海青々と北の秋」左の窓からみると、津軽海峡の青々とした一帯の秋潮を隔てて、遥かに津軽の地方が水平線に浮いて居る。・・・・・江刺へ十五里、と停車場の案内札に書いてある。函館から一時間余にして、汽車は山を上り終え、大沼駅を過ぎて大沼公園に来た。遊客の為に設けた形ばかりの停車場である。[『みみずのたはこと』徳富健次郎]。
   徳富健次郎:蘆花。小説家。兄・徳富蘇峰の経営する民友社に入り、翻訳・人物史伝・小説を発表。1900明治33年『国民新聞』連載の『不如帰』で名を知られる。

 1911明治44年、急行列車登場。
   [函館~旭川~釧路] 札幌まで10時間25、分釧路まで25時間40分。
 1919大正8年、旅行の大衆化を背景に1等寝台の2等寝台への置き換えを勧める。
 1912大正元年、網走線(池田~網走)全通。
 1921大正10年、根室本線(滝川~根室)全通。

 1926大正15年10月12日、<本別~池田(網走本線)>
   ―――本別といふ駅で軍人が多勢乗り込んで来た。師団長におの幕僚といふ一行らしかつた。第七師団の演習が十勝平野で行はれてゐる由を聞いてゐたが今この辺でやつてゐたのだ。この分では今夜の宿など困りはせぬかと案じてゐるうち、池田着。サーベルの音に混つて我等も降りた。駅いつぱいの兵隊である。[若山牧水「北海道行脚日記」]。
   若山牧水:歌人。本名・繁。1910明治43年、歌集『別離』で、青春の哀歓をうたいあげた抒情歌が好評で歌人として知られる。

 1928昭和3年、ドイツに宣戦布告。第一次世界大戦に参加する。
   静狩~伊達紋別開業で室蘭本線全通。宗谷本線開業。
 1933昭和8年、日本、国際連盟脱退を通告。

 1878昭和11年9月27日、<旭川~野付牛(石北本線)>
   ―――<昭和天皇と別れて旭川~野付牛(現・北見)に乗ったときの記述> 十一時過の汽車に乗る。野付牛に行く為である。汽車は段々山手にかかる。落葉松の林、とど松、えぞ松の林、雑木はそろそろ黄ばみ始め、水は清らかにしみじみと北海道へ来たことを思ふ。川には岩魚が住むといふ」[「入江相政日記」朝日文庫]。

 1937昭和12年、盧溝橋事件で日中戦争おこる。
 1941昭和16年、12月8日、日本軍ハワイ真珠湾を奇襲攻撃、対米英宣戦布告。
 1942昭和17年、シンガポール占領。ミッドウェー海戦敗北。

 1943昭和18年、決戦ダイヤ実施。
   ―――戦前は青函航路と稚泊航路を介し内地と樺太を、その後も本州と道内各都市を結ぶ動脈であったが、小樽における貿易、民間航路、漁業の衰退と、金融の中心機能の札幌への移転、また、室蘭・苫小牧地区の工業の発展と歩調を合わせた室蘭本線・千歳線の改良により地位の低下が始まり、道内初の特急である「おおぞら」をはじめ、新規の優等列車は「海線」経由で設定されることが多くなっていった。

   参考: 『日本鉄道旅行 歴史地図帳・北海道』(特別附録・北海道鉄道歴史地図)今尾恵介・原武史2010新潮社 / 『鉄道沿線遊覧地案内』1913鉄道院 / 『鉄道旅行案内』1930鉄道省 / 『駅名の起源』札幌鉄道局1939北疆民族研究会 / ウイキペディア

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