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2022年6月18日 (土)

 オルガン製作・明治大正期の音楽学者・物理学者、 田中正平

 自慢にならないが苦手なものがいっぱい。とくに理系はサッパリ分からない。数字・記号は見ただけで避ける。音楽は好きだけど音痴、楽器演奏はとても無理。せめて子どもに音楽をとオルガンを買った。
 すると、当時幼稚園児の娘はすぐ弾きはじめ歌い出した。親馬鹿は大喜びしたが、知らないだけで音感がいい子は珍しくなかった。
 さて、世の中には複数の分野に優れ社会に役立てた人が少なくない。東京帝国大学物理学科卒業のオルガン製作者、田中正平もその一人である。

     田中 正平    (たなか しょうへい)
 1862文久2年5月15日、兵庫県淡路島で生まれる。
      1月15日、老中・安藤信正、水戸浪士に坂下門外に襲われ負傷する。
 1877明治10年、西南戦争。
 1882明治15年、東京大学理科大学物理学科を主席で*田中館愛橘とともに卒業。
   在学中、口笛が巧で音楽界の巨人たらしめるゆえんとか。
   <けやきのブログⅡ2012.11. 3文化勲章と断層発見物理学者・ローマ字論者、田中館愛橘(岩手県)>
 1883明治16年、東京大学助教授。
 1884明治17年、文部省留学生に選抜されてドイツのベルリン大学に留学。
   ヘルムホルツについて音響学を学ぶうちに純正調オルガンの発明に没頭。また、ブスラーに和製楽、ベラーマンに対位法を学ぶ。大学の合唱団と管弦楽団にも入って、音楽を身につける。

 1889明治22年、5年かけて世界最初の純正調小型オルガンの試作に成功。
   当時のドイツ音楽界の指導者たちに高く評価され、さらに10年間ドイツに留まる。
   ―――田中正平の業績の第一は、純正調オルガンの製作及び演奏活動である。現在のピアノ、オルガンなどの鍵盤は、一オクターブを十二の半音に均等に分割してあるが、これは転調を可能にするために和音の純正を犠牲にしたもので、演奏音がすばやく減衰するピアノではあまり問題にならないが、残響の多いオルガンでは、和音が不正確であることによる違和感が著しい。一オクターブを五三の半音に演奏しなければならず、ヨーロッパでもこのような純正和音を演奏するオルガンを作る試みはなされたが、いずれも成功しなかった(『民間学事典』中井義幸)
   2月11日、大日本帝国憲法発布。

 1890明治23年、実用的な「純正調オルガン」を完成。
 1892明治25~26年、ドイツ皇帝の後援を得、純正調パイプオルガンをも完成。ドイツ皇帝の天覧に浴す。
   ―――公伊藤(博文)、欧米を漫遊、ベルリンに至り、カイゼルに謁するや、カイゼル突如として「田中正平の消息いかん」と問ふた。公伊藤の迂遠なる、むろん田中正平の何人なるかを知らぬ。随伴者の男都築馨六の注意によつて、辛うじて奉答し得た・・・・・(「現代之人物観無遠慮に申上候」)。
   ドイツのリーマンの音楽辞典には、田中正平の名が記録されている。
 1894明治27年、日清戦争。
 1896明治29年、ヨーロッパの都市鉄道調査に派遣された野村龍太郎(鉄道局監理課技師)はベルリン留学中の田中正平の協力を得、フランツ・バルツアーを日本に招聘する。バルツアーは日本に高架鉄道をもたらしたドイツ人技術者、1898明治31年来日(「鉄道人物伝no.28」鉄道総合技術研究所2019)。

 1898明治31年、『敵討正木武勇伝』(松林百燕講演)発行、田中正平ほか。
   10月、逓信省から台湾へ出張を命ぜられる。
 1899明治32年、帰国。鉄道院技師。33年間勤める。
   ―――我政府が田中を遇する、一鉄道院技師に過ぎなかつた、世界的的人物も、我官僚の手にかかれば恰も虫の如きものだ(「現代之人物観無遠慮に申上候」)。
 1900明治33年、本務の物理学の教育・研究に専念する。
   一方、日本の音楽関係で初めて国際的な業績をあげる。
 1904明治37年、日露戦争。
    
 1908明治41年、理学叢書シリーズ『音響と音楽』理学士・田邊尚雄著、理学博士・田中正平校閲、講道館蔵版。
 1907明治40年代、邦楽譜「栄二譜」の記譜法
   ―――「栄二譜」の体裁は縦書きの相対音高譜である。譜の特徴は、数字ではなく文字で記譜・・・・・三味線の一の糸の音高をあらわすには変体仮名、二の糸は平仮名、三の糸は片仮名に書き分けられた。文字譜の考案は、田中正平の記譜法を基に・・・・・明治四十年代に東京音楽学校田中博士を長として、邦楽取調べ(主として採譜)が行なわれ、私の亡父(清元栄吉)も各流の方々と・・・・・楽譜(五線譜)とその読み方を教えてくれました。この読み方をそのまゝ仮名に、一の絃は変体仮名、二の絃は平仮名、三の絃は片仮名をもって書くこととし・・・・・絃の区別を一目瞭然、其他の添加符号を簡略に・・・・・日本読みを考案なされた田中博士、教えてくれた亡父に感謝(「栄二譜」試論」)。
 1909明治42年10月26日、伊藤博文ハルピン駅頭で暗殺される。

 1912大正元年、鉄道院技師理学博士・田中正平、欧米各国へ出張命ぜられる。
    9月、ニューヨークで開催の材料試験万国会談へ委員として出席を命ぜられる。
 1914大正3年、ドイツに宣戦布告。第一次世界大戦に参加する。
 1922大正11年、音楽と蓄音機叢書第1編『家庭踊解説』田辺尚雄著・附録「人生の快楽としての舞踊」理学博士・田中正平。
 1923大正12年9月1日、関東大震災。
 1924大正13年、南葵音楽図書館の評議員。
   ちなみに部長・*徳川頼貞、理事兼評議員・小泉信三・山東誠三郎ほか。評議員・鎌田栄吉・田中正平ほか(Newsletter. (57)国際音楽資料情報協会日本支部2016-05-25)。
   徳川頼貞:侯爵。ケンブリッジ大学で音楽を学んでいる。

 1928昭和3年、『田中式 乗除速算法』田中正平編・田中電気研究所。
 1931昭和6年、オルガニスト*伊藤完夫、応召する1941昭和16年まで田中に師事。
   伊藤完夫:『田中正平と純正調』(1968音楽之友社)著す(『科学史研究.7』中間領域としての音楽科学・純正調論・田中博士の純正調問題)。
 1932昭和7年、70歳。鉄道を退職。
   ふたたび純正調オルガンの製作にとりくむ。ドイツ時代の発明をさらに改良した特殊鍵盤を用いたリード・オルガン5台を製作。この時期になると、堀内敬三以下の理解者が日本にもあらわれる。
 1933昭和8年、『ヴァイオリンにて純正音の表出』著す。
 1936昭和11年、NHKが純正調オルガン1台を購入。
   これを演奏する訓練をうけオルガニスト伊藤完夫の演奏による放送が昭和16年まで定期的に続けられた。
   東京音楽学校教授の世界的ピアニスト、レオニード・クロイツァーは田中の仕事に敬意をはらい、同校を中心に純正調の研究が行われた。
 1937昭和12年、純正調のオルガンが認められ、朝日文化賞を受賞。
   ―――紀元二六〇〇年紀念東京万国博覧会を目指しオルガンが建造される計画がすすめられたが、欧州大戦の勃発とともに博覧会は中止、国産の純正調パイプ・オルガンは幻に・・・・・(『民間学事典』)。

 1940昭和15年、『日本和声の基礎』著す。
   ―――田中は邦楽の採譜と改良をおこない、邦楽教育の普及に尽力・・・・・西洋音楽を輸入するのみではなく、自国固有の音楽文化を洗練し発展させていくべきであるとして、邦楽の採譜活動を精力的におこなった・・・・・遊興のためのものである伝統邦楽を、西洋音楽のごとく精神性をもつものに高めるべきことを唱えた(『民間学事典』)。
   ―――(邦楽譜の普及)
   口頭伝承を基本としている邦楽において、出版物など何らかの方法によって詞章(歌詞)は伝えられても、演奏されなければ音の伝承が途絶えてしまう・・・・・詞章を確認することは出来る。しかし、音の再現は容易ではない。明治時代になると、・・・・・邦楽が西洋音楽に倣って記譜され、長唄においても様々な楽譜が考案された([栄二譜 試論])。

 1941昭和16年12月8日、ハワイ真珠湾を奇襲攻撃、対米英宣戦布告する。
 1945昭和20年8月6日、広島に原爆投下。8月9日、長崎に原爆投下。
    8月15日、「終戦」の詔勅放送。
 1945昭和20年、疎開先の千葉県千代田村で、ドイツ、日本両国の敗戦を知る。
    10月16日、死去。享年83。
    ―――田中正平は海外で活躍した日本最初の学術研究者の一人であった・・・・・本来であれば、明治期の理科系人物の代表として野口英世などとともに教科書に載ってもいいような人物ではないだろうか(『オルガンの文化史』)。
   <けやきのブログⅡ2017.11.4 黄熱病の研究・細菌学者、野口英世(福島県)    

   参考: 『科学史研究.7』日本科学史学会編1968第一書房 / 『民間学事典 人名編』1997三省堂 / 「意匠制度120年の歩み」特許庁意匠課2009 / 『日本人名事典』1993三省堂 / [栄二譜 試論]星野厚子2013東京文化財研究所 / 『現代之人物観無遠慮に申上候』河瀬蘇北1917二松堂書店 / 『オルガンの文化史』赤井励2006青弓社 / 国会図書館デジタルコレクション

 

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