工芸教育、日本産業へ大きな貢献を果たした納富介次郎
「吉野ヶ里遺跡、10年ぶり発掘」。吉野ヶ里遺跡は、佐賀平野の三田川町と神埼町にまたがる弥生時代の環濠集落。1986昭和61年の発見当時、大きな話題になった。
発見された次の年、法政大学通信史学科入学。初めてのスクーリング授業が伊藤玄三先生の講義、日焼けした顔をほころばせ腕時計を外すと腕時計の跡がくっきり。
近代史専攻で古代史には興味がなかったが、日焼けした腕に発掘作業が忍ばれ、古代史は実地の学問でもあると感心した。
卒業後しばらくして、東海散士柴四朗の資料を探しに三菱経済研究所を訪ねた。学芸員の皆さん親切でほっとしたが、その一人が伊藤玄三先生の娘さんと知り縁を感じた。
さて、吉野ヶ里遺跡がある佐賀県、代表人物は大隈重信でしょう。でも教科書に載る偉人は遠慮して佐賀の偉人、我が国の工芸および工芸教育を切り拓いた納富介次郎を見てみる。
納富 介次郎 (のうとみ かいじろう)
1844弘化元年、肥前(佐賀)*小城藩の皇学家・柴田花守の次男に生まれる。
小城(おぎ)藩:明治2年の藩主は鍋島直虎、七万三千二百石。
父に日本画・詩歌・皇典を学ぶ。号を介堂。
1856安政3年、萩で勤王の志士と交流を深める。
1859安政6年、佐賀本藩の儒家・納富六郎左衛門の養子となる。
1860万延元年、長崎で南画を学ぶ。
1862文久2年、清国上海に渡航。
幕府使節で勘定吟味役・根立助七郎が出張先での絵図作成などを担当できる者を探していて佐賀藩士・中牟田倉之助を介し、清国・上海に渡ることになった。清国の制度や交易の実態、太平天国軍が展開する現況、同行者の中で見るべき人物などを藩主に復命。この時の体験を『文久2年上海日記』に遺した。その中で、見るべき人物に五代才助(友厚・政商)の名あり(「ひかり野」)。
1868明治元年、富国のため外国通商貿易を意識、画家としてより日本固有の美意識を保有した図案(デザイン)の創始者となる。
1869明治2年、大阪に出て佐賀藩設置商会の顧問となり、昆布雑貨を持って再び上海に赴き、清国の商人を相手に成果をあげる。
1871明治4年、上京。横浜に移り油絵を修行。
―――(海外貿易について)我が国の輸出品たる生糸・茶の如きは商業単純にして・・・・・余は知識学理を要する美術工芸品及び之に類する雑貨の商業に従事し、我が邦人の手芸に長ずる技能を利用し雑貨の産額を盛んにし以て生糸茶などの輸出品に匹敵するに至らしめんと・・・・・(「澳国博覧会参同記要」)。
1873明治6年、オーストリア・ウィーン万国博覧会。
博覧会事務副総裁の理事官・佐野常民に従いオーストリアに赴く。
日本政府として初めて出品。出品物の主なものは、生糸・山繭生糸・織物の他に、今後輸出に役立ちそうな漆器・陶磁器・七宝・べっ甲細工など。出品物の選定はすべて国が行ない技術優秀な職人は、製作費以外に別途月給を支給、出品物の鑑定などを行った。収集された品物は、皇皇后両陛下の御巡覧を経たのちウィーンに発送するという力の入れようであった。出品の成果、美術工芸品は欧米の出品物にはみられない日本独特の風趣を備えており大量に売却された。
納富は博覧会後もヨーロッパに残り、ドイツ人技師ゴットフリート・ワグネルの紹介でボヘミアのエルボーゲン製陶所、フランスのセーブル陶磁学校で陶磁について学ぶ。
1875明治8年、ヨーロッパより帰国。*勧業寮出仕。
勧業寮:内務省。勧農・牧畜・製糸・綿毛織物を中心とした殖産興業政策を推進。
1876明治9年、アメリカ・フィラデルフィア博覧会。
出品にあたり十数名の画工を選抜して多数の図案を調整、全国著名の業者に分配する。
肥前有田の香蘭社に半年ほど出張、巨大な諸器を造出する。
「欧州製図指南書」三冊を著し図解を付して同業者に分け与える。
1877明治10年、西南戦争。
納富はフィラデルフィア博覧会の好結果を役立てようとしたが、西南戦争のため政府に余裕がなかった。伝習事業も勧業寮から工部省に移され、納富も移ったが間もなく廃止となる。
8月~11月、東京上野公園で第一回内国勧業博覧会開催。審査官を務める。
塩田真(出資者)と東京江戸川に私立江戸川製陶所を設立。
石鹸・漆器・銅器などの尽力。有田・瀬戸・九谷などで製陶指導にあたると共に漆器・銅器の研究指導を各地で行ない伝統工芸の近代化とデザインの改良につとめた。
1881明治14年、江戸川製陶所、第二回内国勧業博覧会で協賛一等賞牌を受章。
1884明治17年、江戸川製陶所、資金難度などで閉鎖。
1886明治19年、納富介次郎『府県漆器沿革漆工伝統誌』農務局・工務局発行。
工芸品の製作に指導的な役割を果たす人材の養成、実業教育に力を入れる。
石川県に招かれ、陶器漆器の改良に着手。対立していた地元業者の結束を図る。
1887明治20年、石川県金沢区工業学校を創立、石川県立工業学校長。
―――経費は校長以下職員の俸給を支弁せんことは難じなれども博物館の一部を借りて開校式を挙げ・・・・・見聞した森有礼文部大臣が知事に県立と為すよう告げ県立となる・・・・・(「澳国博覧会参同記要」)。
1892明治25年冬、病気療養として帰京。
1894明治27年、日清戦争。
富山県高岡に工芸学校設立。内国勧業博覧会、審査官兼報告員。
1895明治28年、富山県工芸学校長。
3月8日、逓信大臣大本営所在地へ出張につき随行を命ぜられる。
1897明治30年11月、富山県工芸学校長、休職。
1898明治31年、香川県工芸学校長。
各地の工芸学校長をつとめ、産業界の技術指導にあたったのである。
1900明治33年、パリ万国博覧会の有田焼の出品を指導。
佐賀県がパリ万博にそなえ陶磁器出品協会を設けたとき、瀬戸の陶器学校訓導だった寺内信一を技師としてスカウト、有田の窯元の指導に当たらせる。
1901明治34年、郷里の佐賀県工業学校長。
1904明治27年、日露戦争。
1905明治38年 佐賀県立佐賀工業学校長。
―――有田工業高校は1881明治14年に日本で初の陶磁器産業の技術者養成機関として設立の「勉脩学舎」が前身でこの年、佐賀県工業学校有田分校となる・・・・・本校の初代校長である納富介次郎は、石川(石川県立工業高等学校)、富山(富山県立高岡工芸高等学校)、香川県(香川県立高松工芸高等学校)に工芸系の専門高校を作った歴史的人物で、現在本校を含むこの4校は姉妹校として交流を続けている(「吉永伸裕 (日本弁理士会 2013-02-10)『パテント』2013日本弁理士会)。
1918大正7年3月9日、死去。享年75。
伝統工芸の量産化(機械化・企業化)、国際化を果たした点は工芸教育のみならず、日本産業への貢献もまた多大であった。
参考:『澳国博覧会参同記要』田中芳男・平山成信1897森山春雍 / 『新訂増補 海を越えた日本人名事典』2005日外アソシエーツ / 『日本人名事典』1993三省堂 / <意匠制度120年の歩み 特許庁2009-03> / 『日本経済史文献. 続篇』本庄栄治郎1927内外出版 / 『納富介次郎』(三好信浩著)烏田直哉2013佐賀県立佐賀城本丸歴史館) / 「ひかり野 : 佐賀大学附属図書館報. 41」佐賀大学附属図書館2017佐賀大学
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