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2022年6月11日 (土)

厚生保護の父・社会事業家、原胤昭

 関東地方は梅雨入り。雨に濡れるだけでも憂鬱なのにコロナ禍、ロシアのウクライナ侵攻などと暗いニュース続き、つい俯いてトボトボ歩きになる。こんな時こそ、「この人がいて世の中真っ暗闇にならずにすんでいる」そういう人物を挙げてみたい。
『明治の一郎・山東直砥』を執筆中、幕末ペリー来航時に生まれ昭和まで生きた原胤昭に出会って感動した。
 明治の新聞紙条例・言論取締で入獄、江戸の人足寄場そのままの牢に入れられ死にかけるが何とか生還。釈放後は進んで囚人保護に力を尽くし、終生の事業とするのである。

     原 胤昭   (はら たねあき)
 1853嘉永6年2月2日、東京日本橋茅場町で生まれる。父は江戸日本橋の町方与力・佐久間健三郎(健叟)。母は南町奉行所年番与力・原胤輝の娘・とき。「元和大殉教」(1622元和8)で処刑され、列福されたヨハネ(ジョアン)原胤信(主水)の大叔父の子孫にあたる。
 1864元治元年、母の実家の当主・原胤保が早世したため養子となる。
 1866慶応2年、江戸南町奉行所の見習。翌3年、本勤めとなる。

 1868明治元年、東京府職員・東京府記録方になる。
 1869明治2年、宣教師クリストファー・カロザースについてキリスト教を学ぶ。
 1871明治4年、18歳。父兄の開国主義に感化される。
   アメリカ人教師を傭い、家庭を開放し英学所に充てる。
 1872明治5年、職員減員のため免職。
 1874明治7年、東京第一長老教会でカロザース宣教師より洗礼を受ける。
   キリスト教書(洋書)の書店、銀座に十字屋を創業。
   東京築地に教会を創設。伝道師にならず、教会や伝道会社の資金を受けず、家産を投じて事業を経営。また政党には属さなかったが自由民権に熱を入れる。
 1876明治9年、ジュリア・カロザースの経営していた成樹学校を改組改名、キリスト教主義の原女学校を東京銀座三十間堀に創設。ちなみに、明治13年廃校。
   キリスト教伝道のため、巨額を投じ『和漢対訳新約聖書』銅版、『訓詁格物採原』週刊雑誌『東京新報』など刊行。

 1879明治12~1880明治13年、錦絵問屋を神田須田町に開く。
   地本錦絵刊行をはじめ、主に小林清親の作品を出版。
   錦絵版画の改良、精緻彫刻に努め、輸出品を製作して版画界に一新機軸を起した。地本問屋組合幹事。
 1881明治14年6月、キリスト教大意編『耶蘇教易知. 第1(耶蘇教大意篇)』出版。
   3月、『訓点神道総論』(米人・ネヴィアス著・奥野昌綱訓点、序・敬宇中村正直)。

 1882明治15年、清親の錦絵「三十二相追加百面相」・福島事件被告の肖像画「天福六家撰」を版行。
 1883明治16年、新聞紙条例改正、言論取締強化。
   ―――河野広中以下五名の絵双紙(天福六家撰)は不都合の廉ありとて、その筋より発売を禁ぜられ、絵双紙百枚、木版六枚を没収せられたり(16.9.926『朝野新聞』)。
  ―――壮挙に共鳴し、宣伝の資料に出版した河野広中・田母野秀顕・花香恭次郎氏その他志士六名の肖像画に、転覆をもじつて「天福六家撰」と題し、其の頭書にチョイと、筆を走らせた。其れが、現に刑法に触れたるものを曲庇するの論文と認められ・・・・・画作は版画界に珍重されて居る小林清親翁の筆である・・・・・忽ち発売禁止。警視庁に召還、直ぐ私は裁判所に廻された(原胤昭)。
   ―――河野広中以下五名の絵双紙は不都合の廉ありとて、その筋より発売を禁ぜられ、絵双紙百枚、木版六枚を没収せられたりとのこと(16.9.926『朝野新聞』)。
  ―――私は東京石川島の監獄、昔から在ッた佃島の人足寄場を繕った牢屋に放り込まれ、散々に究苦を嘗めさせられた。その牢屋と云ッたら、二千人も一ツ構内に押し込められた。私の入れられた監房は、三番監と云ふ三百人も一緒に押込められる大牢であつた。
 其頃の監獄には、旧幕府時代の牢名主、専横の牢風が遺っていた・・・・・ 木の葉散る初冬の寒冷、薄い木綿の単衣一枚では凌げない。とうとう感冒に懸かり発熱、苦悶数日、激烈なチブス。同監囚人の伝染して斃るるもの幾人か、毎日毎日担ぎ出す。新患者は数十名
   ・・・・・患者を看護する役目になつて当病者をいたはり、病監入りの世話をして・・・・・身を捧げて病者をいたはつた・・・・・終に自分も感染・・・・・熱度高昇、立ち居も出来なく、看護囚人に負れて、漸く病監に写された・・・・・枕を並べた囚人は、高熱に浮かされて呻く者、怒鳴る者、炎熱に堪えかね夢中で病床を駆け出す者、看護囚人は之を押へて病床に連れ戻り、四布ぶとんでグルグル巻き、息づまつて窒死する者さえあつた。
   ・・・・・眼を開けて、あたりを見回すと、前日の病室では無い、着衣も無い、まるはだかだ。幾人かの囚人が、牢内をのぞき、ワヤワヤ云つている。316(原の囚人番号)、おめへ良かつたなァ、生き返つたのだぜへ。脇を見な皆ンな死人だぜへ(『前科者は、ナゼ、又、行るか』)。原は囚人に対する非人道的な取り扱いを見て、保護事業を志す。
   10月、神田で釈放者保護、無償で自邸を免囚の保護所に(のち東京出獄人保護所)。

 1884明治17年、キリスト教教誨師として兵庫仮留監、神戸に赴任。
   山県有朋内相らの内命を受けて各地方の監獄を巡回、視察し、清浦奎吾警補局長に報告。監獄改良の意見書を提出。
 1887明治20年8月、釧路監獄署を訪れる。
   囚人労働の苛酷な実態を聞き、囚人たちが働いているアトサヌプリ硫黄山を訪れ、非道い実態を知る。
 1888明治21年、自ら求めて北海道釧路監獄署の日本最初のキリスト者教誨師となる。り北海道釧路に赴く。次いで樺太集治監教誨師。
   ―――原は教誨師としての任務だけでなく、国家的な監獄改良事業の推進に関わる。原の職務遂行を支えたのは、清浦奎吾警補局長や兵庫仮留監の阪部典獄をはじめとして、アメリカン・ボードの宣教医ボードや宣教師のD.C.グリーン、及び神戸教会の関係者たちであった(片岡優子)。
 1888明治22年、大日本帝国憲法発布、大赦令により赦免。
   ―――受刑入監中、囚者の実況を体験し、自己信仰のキリスト教に基づき、之を教導し、出獄後保護するの要を認め、直ちに実行、家庭を開放して出獄人を収容保護するに至った。そのうち犯罪の原因、囚人の心理など釈放者の保護上、研究の必要に迫られ、進んで囚徒教誨の職任に当たるべく志し、新に建設せられた兵庫仮留監(該監は全国の重罪囚徒を各集治監に収集仮留する場所)雇員を拝命。
 1895明治28年12月、辞職。

 1897明治30年1月、英照皇太后崩御大赦により、恩赦に浴した囚徒が保護を求めて次々来、保護所の必要に迫られる。東京市神田区南神保町に東京出獄人保護所を設立。
   11月、『刑罰及犯罪予防論』ウィリアム・タラック著、原胤昭翻訳、同情会出版。

 1898明治31年、東京出獄人保護所を創立。囚人保護の社会事業に尽力、1万3千人を超える出獄人を保護。また、日本で初めて本格的に児童虐待の問題に取り組んだ。
   ―――友人原胤昭君に請ひ「出獄人保護の実験」なる一文章を・・・・・読者は必ず出獄人なるものは之を善導するに適切なる方法と其人物を得るに於ては必ずや成功すへきものなるとを了解せらるべし・・・・・(『慈善問題』*留岡幸助・警醒社)。
   留岡幸助:牧師・社会事業家。北海走空知集治監教誨師。東京巣鴨に家庭学校を創設。
 1903明治36年8月1日、保護所敷地として国有地貸し下げ、神田区元柳原町30番地に建設移転。
   保護所建設以前、私費経営の14年間に於ける被保護人305人。その後、大正15年4月に至る釈放者保護総員7628人、その保護成績は良好約十分の七を示す。

 1913大正2年、『出獄人保護』原胤昭著、出版・天福堂。
 1918大正7年、細民地区改善事業。米騒動時にさいし、東京府社会事業協会の委嘱により、小石川柳町ほか6ヶ所に経営、米および雑貨を販売させる。
 1923大正12年9月1日、関東大震災。
   保護所は全焼。原は保護者名簿のみを持って避難。

 1935昭和10年、―――最近、私(*石山賢吉)が一番感心した人は、原胤昭氏である。こんな偉い人はないと思ふ・・・・・刑余者の保護事業を始めてから、今日まで五十年の間に、一万人からの人を手掛けた。そして、その中の七割、即ち七千人に、改過遷善の実を結ばせた。ミリエル僧正の感化はジャン・バルジャン一人に過ぎない。それとこれとは、とても比較にならぬ。・・・・・事業に要する経費を、私財と浄財でやつてゐる。筋の通らぬ金は、決して貰はない。政府からも、金を貰はぬ。政府の金は税金である。税金には涙が籠つてゐないから、自分の事業には使はないというのである・・・・・ ユーゴーの理想的の人物以上ではないか、斯う云ふ人は我々凡人の学び得る処ではないが、私はせめて其の徳だけでもたヽえたいのである(『先人に学ぶ』)。
   石山賢吉:大正・昭和期の出版業者。新聞記者を経て、経済雑誌『ダイヤモンド』創刊。衆議院議員。
 1942昭和17年2月23日、死去。享年89。

   参考: 『半生を社会事業に捧げたる人々』1926慶福会 / 『日本人名事典』1993三省堂 / 『先人に学ぶ』石山賢吉1938千倉書房 / 『前科者は、ナゼ、又、行るか。』原胤昭著述出版1933 / 『全国社会事業名鑑. 昭和2年版』中央社会事業協編 / 「原胤昭の生涯とその事業―― 兵庫仮留監教誨師時代を中心として」片岡優子2006関西大学・社会学部紀要100号) / 『明治日本発掘3』1994河出書房新社 ・ 国会図書館デジタルコレクション

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