ヴィクトル・ユーゴーと板垣退助の会見通訳、今村和郎
自分はアナログでいいと言ってもデジタル社会は容赦ない。仕方なくガラ携をスマホにしたら機能満載、でも使いこなせない。
それでも試しに検索してみると、答えが素早い。鵜呑みにすれば簡単、その上これもどうかと提示があり、親切というか、お節介というか自分の頭を使わなくていい。
しかし筆者はマイペース、紙の辞書・事典の頁を繰りつつ探す方が愉しい。探し物の隣に興味が移ったりも面白い。
先だっては『海を越えた日本人名事典』で人物を探し中、今村和郎という人物に目がいった。
明治前期のフランス語通訳で、官にあって順当に累進している。しかしその本人より周辺人物や、エピソードから明治の一端が垣間見え、興味をもった。
今村 和郎 (いまむら わろう)
1846弘化3年9月、高知県土佐に生まれる。
1869明治2年、*箕作麟祥が東京神田南神保町に開いた家塾でフランス語を学ぶ。
同学に、*大井憲太郎・*中江篤助(兆民)・*福地源一郎(桜痴)らがいた。このときは一歳下の同郷、中江とは面識がなく、留学先で知り合う。
箕作麟祥:洋学者。外国奉行翻訳方。遣仏使節(慶応3年)に随行。
大井憲太郎:明治の自由党左派の指導者。大阪事件で入獄。
中江篤助(兆民):土佐藩出身の民権思想家。著作『三酔人経綸問答』。
福地源一郎(桜痴):長崎出身。『東京日日新聞』主筆。
1871明治4年11月、岩倉使節団が出航。
文部省からは米教育の視察のため、田中不二麿が理事官として随行。随員として、今村和郎・*長与専斎ら5名が任命され、欧州に出張。アメリカ・イギリス・フランス・スイス・ロシア・オランダ・デンマーク・プロシャ8ヵ国を視察。今村はフランスの教育調査にあたった。
けやきのブログⅡ2022.1.22<長与専斎・長与又郎・長与善郎父子の123年>
1872明治5年、文部省中助教授、九等出仕。
―――日本の司法省よりフランス公使・鮫島尚信に法学部教授を日本に招聘するよう依頼・・・・・パリ大学法学部教授ボアソナードを推薦・・・・・パリに滞在している名村泰蔵、井上毅、今村和郎ら6人の留学生はボアソナードに法学を学ぶことに・・・・・(『法学事始め』)。
1873明治6年、今村和郎、中江兆民ともにパリに留学していたが、文部省は留学生帰国の指令を各国駐在公使に送達。今村は留学延長を認められるが、中江は召還方針に反対するも認められず帰国となる。
―――(今村と中江)パリにあって初めて交際し、お互い留学していながら勉強はそっちのけで高談放論にうつつを抜かし、どこへも正式には入学しなかったらしい。ただし、ボアソナードが司法省法学校教授として来日するに先立ってパリ大学総監シャルル・ジロの紹介で、在仏日本人に憲法・刑法を講義した際には出席している(『海を越えた日本人名事典』)。
1874明治7年、今村、左院御用掛。
4月、ボアソナードは司法省法学校教授に迎えられ・・・・・パリ大学で行った講義と同じ内容の、刑法、行政法についてフランス語で・・・・・15人の学生はフランス語は学修していても、法学の専門用語を理解するのは難しかった(『法学事始め』)。
1878明治11年、太政官法制局権少書記官。
1881明治14年、今村、太政官法制局権大書記官。
<明治14年の政変>
伊藤博文は対立者の大隈重信を政府から追放し最高指導者となる。
1882明治15年、免官となった大隈は立憲改進党を組織、沼間守一が嚶鳴社(民権結社)をひきいて参加、国会開設をまえに政党結成があいついだ。
板垣退助の自由党・大阪の立憲政党・九州改進党・立憲帝政党など地方遊説をする中で、4月、岐阜県富茂登村で自由党総理板垣退助が小学校訓導の相原尚褧に襲われ負傷。事件直後に探偵が耳にしたという板垣の「吾死スルトモ自由ハ死セン」は民権運動の合い言葉となった。
この事件から半年あまり板垣は後藤象二郎とともに洋行することになった。
板垣の洋行に反対の馬場辰猪は、「自由党はやっと結成されたばかり・・・・・党の最高責任者が洋行、長く党を留守にするなどとは・・・・・話にならない。まして政府の金で洋行するなど以てのほかである」と板垣に意見したが、聞き入れられず自由党を離れた(『明治の兄弟 柴太一郎・東海散士柴四朗・柴五郎』)。
板垣は金の出所については知らないようであったという。
6月、司法省蔵版『白耳義刑法』今村和郎 訳。
11月11日、後藤象二郎、板垣退助、自由党員の栗原亮一、今村和郎は通訳としてヨーロッパに向けて出航。
12月22日、マルセイユ上陸、27日パリ着。
後藤は、憲法調査のため渡欧しプロシャ憲法を学んでいる伊藤博文に、ドイツ帝国のベルリンとイギリスのロンドンで面会。今村は後藤について行ったもよう。この時、板垣は同行していない。
板垣はパリに3ヶ月滞在。
ちなみに、板垣はベルリンからパリに戻った後藤に資金のことを相談したが断わられている。板垣は今村の通訳に対する不満、感情面で後藤と対立。今村に渡す金にも困るなど資金不足などで帰国を早める決心をする。
―――今村によると、結局後藤が板垣に金を分与してフランスにしばらく滞在させる考えを示し・・・・・板垣はフランスに5月まで滞在(『板垣退助』)。
―――此程龍動より達したる書翰に拠れば、板垣総理には本年一月巴里に着せられたる以来、何か後藤氏と意見の合れざる事ありて、其交りも殆んど前日の如きに非ず、其の寓居を同じくせられたるの日なども甚だ少なく、殊に今村和郎氏の如きは、全く後藤氏のみ随従して、板垣総理の為には通弁の助をさへもなしたる事なき程なりと・・・・・(『自由新聞』明治16年6月2日)。
1883明治16年春、パリの板垣退助。
グレヴィー大統領夜会に出席したり、ジョルジュ・クレマンソーと面会したりしていた。また、フランスの詩人・小説家*ヴィクトル・ユゴー邸で会見。
ヴィクトル・ユゴー:『レ・ミゼラブル』
―――ユーゴーは共和主義者としても著名であり、板垣を若き東洋の自由改革家として喜んで歓迎(『板垣退助』)。今村はその場に栗田とともに立ち合ったのである。
ユゴーの葬儀(1885明治18年5月)の情景を、当時、留学中の山本芳翠(洋画家)が描いたものが東京藝術大学に所蔵されている(『世界を創った人々』)。
5月13日、板垣はパリから帰国の途につき、6月22日、横浜に帰港。
6月、後藤象二郎帰国。
この年、今村、ドイツ出張。
1884明治17年1月19日、帰国。
3月、外務省の外務省権大書記官。
1885明治18年12月、初めての内閣、伊藤博文内閣が誕生。
余談。大臣10人のうち8人が薩長出身という藩閥内閣にあって、農商務大臣・谷干城は土佐出身である。伊藤にヨーロッパ巡回視察を命ぜられ、これに秘書官として東海散士・柴四朗が随行。東海散士はアメリカ・ヨーロッパを見聞し外から日本を見、日本の運命を憂え、帰国後、『佳人の奇遇』を著すのである。
1890明治23年6月、『民法正義.』財産編、訳・今村和郎ほか共著。財産取得編、人事編、債権担保編、証拠編。出版者・新法註釈会(明治法律学校講会内)。全12冊(国会図書館デジタルコレクション)。
7月、『解難』今村和郎(中隠居士)出版・長尾景弼
1891明治24年1月、行政裁判所評定官となる。
5月6日、死去。享年45。東京都豊島区雑司が谷霊園に葬られる。
今村和郎の役職:明治3年以降、少助教、中助教授兼大舎長、大助教、太政官権少書記官兼司法権少書記官、内務・外務の各権大書記官、参事院議官補、法制局参事官、同局長、行政裁判所評定官。
参考: 新訂増補『海を越えた日本人名事典』2005日外アソシエーツ / 『世界を創った人々 ヴィクトル・ユゴー』1980平凡社 / 『板垣退助』中元崇智2020中公新書 / 「田中不二麿の欧米視察と幼児教育への着目:岩倉使節団随行をめぐって」湯川嘉津美1989日本保育学会大会準備委員会 / 『議会制度七十年史. 第1』1960衆議院・参議院編1960大蔵省印刷局 / 『法学事始め』ボアソナードと門弟物語り――尾辻紀子2009新人物往来社 / 『日本人名事典』1993三省堂
| 固定リンク
コメント