『森羅萬象録 いけだ雑学これくしよん』池田文痴庵
令和4年7月8日、久しぶりに本やブログの話しとかして気分よく帰宅、マスクを外してテレビをつけて、もうびっくり!
<参議院議員選挙応援演説中の安倍元首相撃たれる!>
政治家に限らず特定人物に批判が集まることはよくあるが、どんな理由でも命を奪う事は許されない。それがこの日本で起きた。
漠然と感じている以上に日本社会も物騒になっているかもしれない。そうなると、誰もがますます世相に敏感、コロナ禍もあいまって人と人の距離がますます開きそう。
こんな時、平凡な、今となっては何のこともない暮らしが貴重に思えてくる。平穏無事な日常の品々を蒐集、雑学いろいろ著述したのが、池田文痴庵(菴)である。
文痴庵を知ったのは『明治の一郎・山東直砥』を執筆中、文痴庵が山東直砥と面識があると知って興味をもった。しかし、関連情報も文痴庵自身についても、資料が見つからずそのまま諦めた。その文痴庵は、
――― 「ナンデモ屋」といわれ、絵葉書、ポスター、マッチ箱から番付け、古瓦、果ては恋文、原稿までの森羅万象にわたる蒐集で知られる・・・・・(『民間学事典』)。
―――「池田文化史料研究所」を主宰。江戸後期から昭和期に至る大衆文化資料の収集と執筆で知られる・・・・・(『三田村鳶魚の時代』)。
という風で学者・芸術家・議員でもないせいか人名辞典にないが、分かる範囲で記してみる。
池田 文痴庵(菴) (いけだ ぶんちあん)
1901明治34年9月20日、東京市麻布区森本町に生まれる。
本名・信一。
1907明治40年、6歳ごろ蒐集癖が旺盛になり小学生で古本の良さに目覚めた。
?年、明治薬学校(明治薬科大学)卒業。
1918大正7年、海軍省、造兵廠などの化学部門の仕事を担当。5年間。
軍縮会議による残務整理掛主任を最後に依願退職。
?年、森永製菓に入社。長くつとめ、その間に同社の社史など編纂。
1923大正12年9月1日、関東大震災発生。
文痴庵は勤務先(森永製菓)丸ビルから、麻布の自宅に帰る道々、ビルの焼け落ちた壁土・切断された電線・焼け跡の時計・溶けたガラスの塊などを持ち帰る。それらの震災コレクションはその後、数をふやし自作の震災地図に記入。
―――文痴庵が私淑した人物に宮武外骨がいる・・・・・ 蒐集観は『今日在って明日なくなるもの命永かれ』というものであった。その時代の文化を反映し、自他ともに利益に浴するという趣旨に沿った募集でなければならなかった・・・・・(『三田村鳶魚の時代』)。
1926大正15年、以後、森永製菓の各種出版物の主筆兼署名人という要職につく。
1927昭和2年7月、個人雑誌『冥福』創刊。
「故人追慕讃仰誌」と銘うった趣味の雑誌で「六十一号 自殺号」まで発行。
創刊号「声明」
―――「本誌の内容は、専ら大正時代に於ける故人の追慕伝記並びに其の遺徳墓碑等を記述するの外、一切の懐古、蒐集趣味に関する記録、古来の紹介を行ふ」とある。大正時代を丸ごと追慕し記録することを主な目的にした雑誌・・・・・ こういう特異な個人雑誌を発行しようと思い立った動機は、関東大震災にあったと見て間違いないだろう。崩れ去った明治大正文化の、それこそ冥福を祈りその総てを記録しておきたいという願望が、彼にはあったのだ・・・・・(『三田村鳶魚の時代』)。
夏。三越呉服店で開催の「明治文化展」にたくさんの収集資料を出品。
1928昭和3年6月、古今東西のラブレターを蒐集、考察した『蘿舞連多雑考』出版。
1936昭和11年、『森羅万象録 いけだ雑学コレクション』[限定限]初版100部。
次は『森羅万象録』【昭和十一年(丙午)】<結婚式まで>より引用。
▲ 元旦の暁に、新龍土町の異人館(デンマーク人)から出火で、母は頗る驚いたが、二月廿六から廿九日に亘って目と鼻の近きにある、歩兵第一、第三聯隊の突発事変。即ち、*二・二六事件には非常な驚愕と多大のショックを受けた・・・・・
▲ 夏の第十一回オリムピック大会(伯林)により、一九四〇年の大会は、全くニツポンが決定版となつた。一時は、イタリー、フヰンランド、英国と猛烈な会場争奪戦で、随分、気を、もんだが、之も首尾上々は喜ばしい事であつた。
▲ 八月中は、第五回 森永キヤラメル芸術十余萬点の審査から、昆虫童謡と伝説、昆虫のハナシ一万枚余の選で文字通り汗ダクダクになつて、前者は、棚橋絢子の東京高等女学校講堂で、後者は、味の素ビルデヰングの楼上で執務した。
▲ てうど、わたくしの誕生日に、森永ミルクキヤラメルのサック中に、昆虫漫画が三色刷りで美麗な装ひを現す事になつた。
▲ 農学博士・石井 剃の解説、岡本一平の選になる同門俊才の麗筆で、本邦包袋界の一新紀元うぃ劃した。
▲ 十月に入ると、東京市内、平塚市、山梨、神奈川両県下の小学校に手工教育の講演出張。それに家庭の整理整頓、十一月の挙式準備と日々、大車輪で時間を足りない勝に過ごした。
二・二六事件:皇道派青年将校による2.26事件。*斎藤実内大臣・高橋是清蔵相らが殺害された。同日、戒厳令施行。奉勅命令で反乱軍を包囲、29日に鎮圧。死刑17名。3月、粛軍。世論の批判の中で軍部が行った人事異動。
同書奥付〔転載の場合は必ず・いけだ雑学これくしよん・の出所明記の事〕。
<2012.2.24 けやきのブログⅡ 2.26事件、斎藤実(岩手県水沢)>
1945昭和20年5月20日、東京大空襲で麻布一帯が灰燼に帰し、戦前の蒐集物の総てを失う。
1948昭和23年、埼玉県浦和市(さいたま市)岸町に転居、亡くなるまで暮らした。
多年の蒐集資料は、浦和の市史編纂に参加した縁もあって浦和図書館(現埼玉県立図書館)に収蔵された。
1952昭和27年、森永製菓を退職。
1957昭和32年、「菓子の二千六百年史」を専門雑誌に15年にわたり連載。
1960昭和35年9月、『日本洋菓子史』(日本洋菓子菓子協会)著述編集、刊行。
項目:大正年間洋菓子界・菓子商標・雷おこし・菓子の由来と変遷・明治大正洋菓子製造-成功者伝・菓子文芸・昭和現代洋菓子界現勢・日本洋菓子協会沿革史など。
1962昭和37年、東京高等製菓学校講師。日本菓子史を講義。
1968昭和43年10月、東京高等製菓学校校長に選ばれる。
1972昭和47年2月27日、死去。享年71。
放逸な人柄に文痴庵のファンは多く、学校葬をもって名物校長に別れを告げた。
1973昭和48年10月、浦和県立図書館で池田文痴庵文庫を開設、展覧会を開催。
―――文痴庵死去後、寄贈された著述と主要な収集資料を一括整理保存し、「展示資料目録」を作成・・・・・それを見ると、古書や稀籍の分類中に江戸後期や明治期の出版物も多数・・・・・これらは文痴庵が戦前に集めたものではなくて、戦後に改めて古書即売会などで買い求めたものであろう・・・・・(『三田村鳶魚の時代』)。
参考: 『三田村鳶魚の時代』安食文雄2004鳥影社 / 『民間学事典 人名編』1997三省堂 / 『森羅万象録 いけだ雑学コレクション』1936東京市麻布区龍土町44・文痴菴書斎 / 『近現代史用語事典』安岡昭男1992新人物往来社 / 『日本史辞典』1981角川書店
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