明治文化・浮世絵・江戸出版史、井上和雄
<桜島が噴火、住民が避難>のニュース。何十年も前、麓の道を観光バスで通ったのを思い出した。
その時なぜか怖かった。噴火のイメージでなのか、それともごつごつした山肌のせいだったのか、よく分からない。ともあれ、波静か陽に輝く錦江湾と対照的だったのを覚えている。
ところで、桜島を描いた浮世絵はあるだろうか。
その桜島がある薩摩ゆかりの人物に浮世絵の鑑定、研究で知られる井上和雄がいる。井上の研究は浮世絵のほかに、江戸出版史の研究・明治文化史などと多岐にわたるが、なぜか知る人は少ない。
なお、井上の蒐集した浮世絵や著述など国会図書館デジタルコレクションで閲覧できる。
井上和雄の祖父は井上石見守祐則といい、維新の元勲・大久保利通と親しく、岩倉具視とも相識の間柄。戊辰戦争、五稜郭の戦い前後、箱館裁判所(維新政府の行政機関)の役人であった。
箱館の民政を担っていた石見は、エトロフ・根室を箱館丸に乗船して視察に行った帰り、海上で行方不明になってしまう。石見は未だ38歳と若く、残された若い妻と子は苦労をする。石見の次男の子である孫が井上和雄である・・・・・ 山東直砥は石見と同じく箱館裁判所の役人で権判事をしていた・・・・・(『明治の一郎・山東直砥』)。
実は、井上和雄が山東直砥について書いた文を読んで井上に興味をもった。ところが、資料が少ない。それでも、興味深い人物なので分かる範囲で紹介したい。
井上 和雄
1889明治22年6月19日、京都で生まれる。井上岩見の子、井上千代野の次男。号は雨石。
勤王家で立派な武門に生まれたものの家は貧乏であった。井上の面倒を見た*宮武外骨は、井上を鹿児島人と記している。
――― 井上さんの家は、ずいぶん古くから代々神官として島津家に仕えた名家であったらしい。慶長一二年以来明治初年におよぶという。その第二一代目の祐行という人は、元治元年に天照大明神の大宮司に補せられた・・・・・ 井上さんの家は二十代目の弟で祐行が創められた。この人が幕末の勤皇家として、藩内でも京都でも知られた勤皇家、井上岩見守祐行・・・・・ 1868慶応四年四月、蝦夷開拓判官として赴任、同年八月、樺太沿岸、択捉島を巡視しての帰途難船して殉職した・・・・・(西田長寿)。
宮武外骨:香川県生まれ。ジャーナリスト・文化風俗研究家。新聞雑誌研究家。東大法学部に明治新聞雑誌文庫を創設。
1900明治33年6月、鹿児島で尋常小学校を卒業。
京都の古本屋・山田聖華房に11年間住み込み、小僧奉公。
ここでの古本修行が、のちのちの学者人生を大きく方向づける。
奉公中に、京都にあった京都の皇典研究所(京都國学院)の夜間部に入学。
卒業年度、未詳。神道の学位を得、国語古典を修める。
この頃から、のちに出版する『慶長以来書賈集覧』に手を付けていた。
1911明治44年10月、大阪に出て、宮武外骨が自宅に開設した雅俗文庫に入る。
――― 外骨が創刊の雑誌『此花』の編集助手となる。『此花』は浮世絵研究に関する唯一の雑誌として注目を集めていた。井上は外骨の教えを受け、浮世絵の基礎を固め・・・・・ 第十八号から終刊まで携わる・・・・・(『三田村鳶魚の時代』)。
井上は外骨の家に寄寓、『此花』の編集ばかりでなく、その他の著述も手伝っていたようだ。
1912明治45年7月、『此花』終刊になり退職。
京都府立図書館に勤務、1年程で辞める。
1916大正5年7月、東京に出る。外骨の世話で雑誌『浮世絵』の編集部員になる。
9月、江戸書籍商名鑑『慶長以来書賈集覧』編著、彙文堂書店発刊。
10月、季刊誌『浮世絵の研究』編集部員に抜擢される。
1923大正12年9月1日、関東大震災。
12月10日、井上は吉野作蔵邸を訪問。屏風の鑑定、浮世絵の評価などする。井上は浮世絵の優れた鑑定家であった。
1924大正13年10月、井上は外骨と二人で吉野作造を訪ね、「明治文化」の相談。吉野は大いに賛成。
11月、「明治文化研究会」創立。近代文学、思想、風俗全般に関心をもつ研究者組織で学界を長く裨益。
『明治文化全集』全24巻、今なお多くの図書館に所蔵され、明治に興味がある者を惹きつける。
―――明治文化研究会の起原は・・・・・ 『新旧時代』という雑誌がありますが、井上和雄という好事家みたいな人が宮武外骨(1867~1955)さんのところに来て、明治文化の同好会をしようじゃないかと。宮武は大賛成ということで・・・・・ 二人で吉野作造のところへ行って話したら、吉野さんも大賛成というんで、それでできたというんです。・・・・・ 新旧というのは要するに一つは震災ですね。・・・・・ 東京は、特に下町は壊滅してしまいましたね。大学は焼けたでしょう。あれがまあ大正の一つの大きな転換期で、政治的にも文化的にも転換期で、ちょうどその時に井上和雄がそんなことを思いついて言い出して、その同人が石井研堂(文化史家)、尾佐竹猛(法学者・大審院判事)、石川巌(書誌研究家)、小野秀雄(新聞学者)、藤井甚太郎(歴史学者)、それに吉野さんと井上さんとその八人が同人で、その目的は[明治初期以来の社会万般の事相をを研究し、之を我が国民史の資料として発表すること]・・・・・(「大久保利謙先生に聞く」)。
大久保利謙:大久保利通の孫。昭和期の歴史学者。
1925大正14年、雑誌『新旧時代』発刊。
井上が編集を担当。苦心して作り上げた『新旧時代』だったが売れ行きが悪く、そのせいか版元の福永書店が倒産。発行も三省堂にかわる。井上、明治研究会を脱会。
1926大正15年、東大法学部に明治新聞雑誌文庫設立。
宮武外骨、主任として文庫の充実に尽力。
――― 私が直接(井上和雄に)お目にかかったのは数度で、いずれも明治新聞雑誌文庫へ宮武外骨先生を訪ねられたおりであった。どこか、物事にふかく拘泥しない飄々としたところがあり、それでいてなかなかに気骨にとんでおられたようであった。お酒は好きであったらしい。文字もなかなかりっぱだし、絵も書かれたらしい、和歌もつくられたようである・・・・・井上さんが藤沢に移り住んでからの親友、服部清通さんによって紹介されている・・・・・(西田長寿)。
1931昭和6年9月、代表的著作、『浮世絵師伝』渡辺版画店より刊行。
1932昭和7年、『浮世絵標準画集. 第10巻 (北斎)』編集、高見沢木版社。
北斎について精しい解説あり。
1933昭和8年、『浮世絵概観』井上和雄 解説、大鳳閣書房。
1935昭和10年、外骨によれば井上は、「京都の幸神社で社司を勤めて居る」。
在野の学者・井上、職場を転々としながらも、研究活動をやめようとしなかった。
1939昭和14年、『書物三見』書物展望社より出版。
―――明治文化史の研究成果を盛り込んだ本、「三見」は、浮世絵・江戸出版史・明治文化史の三分野の書物を手にとっての意味・・・・・(『三田村鳶魚の時代』)。
1940昭15年、『浮世絵十五大家集 』高見沢木版社編輯部編、高見沢木版社。
歌麿の焦點・寫樂の輪廓・北齊の全貌。国会図書館デジタルコレクションにて、白黒ながら各作品が見られる。
?年、 晩年、藤沢へ転居。藤沢で郷土史家として活動。
1945昭和20年8月15日。太平洋戦争敗戦。
1946昭和21年6月20日、栄養失調で死去。享年58。
――― 在野の学者生活を突っ走った結果が、敗戦後の栄養失調では、あまりにも悲しい。ただ、そんな苦境続きの彼を外骨が、終生庇護したことは、大いに評価していいだろう。しかも、外骨は、井上の研究の助けになるならばと、自分の蔵書の全部をりようさせたという・・・・・(『三田村鳶魚の時代』)。
<井上和雄が息子たちに書き残した 「戒」 七ヶ条>
一、自ラノ長ハ守リ、短ハ捨ツルコト。 二、自ラノ短ヲ補フニ他ノ長ヲ以テスルコト。
三、他ノ忠告ヲ容シ、可ト思ハバ直ニ実行スベシ。 四、万事速ヲ尊ビ遅ヲ賤ニヨ。
五、凡ベテ軽ヲ軽トセズ、重ヲ恐ルル勿レ。 六、他ノ事ヲ先ニシ自ノ自ノ事ヲ後ニスベシ。 七、公私ノ区別ヲ厳明ニスルコト。
参考: 「井上和雄と蛯原八郎君」(『明治文化全集25巻』1967月報)西田長寿 / 『石井研堂―庶民派エンサイクロペデェストの小伝』1986山下恒夫 /『参考書誌研究.73』「大久保利謙先生に聞く:近代政治史料収集のあゆみ(一)」2010国立国会図書館 / 『民間学事典 事項編』1997三省堂 / 『三田村鳶魚の時代』安食文雄2004鳥影社 / 『明治の一郎・山東直砥』中井けやき2018百年書房
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