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2022年7月 9日 (土)

甲斐-江戸-静岡-十勝-19県(土石調査)-鹿児島-十島-札幌、博物家・白野夏雲

 猛暑の最中、エアコンが毀れ買い換えた。設置を終えた工事の人が部屋を見回して「?」
 雑然と並ぶファイル、本棚に面白そうな小説はなく地味な本ばかり、パソコン・プリンター、壁に家族写真はあれど殺風景、とても主婦の部屋とは思えない。
   「幕末・明治とか歴史ブログを書いてるんです」「会津とか、そういうの?」「そうなんです」「白虎隊とか?」「よくご存じですね」 「白虎隊は有名じゃないですか。歴史はけっこう好きです」
 思いがけず会話が弾み、新しいエアコンの風は心地よく、暑さも吹き飛んだ。
 工事の人が帰り、動かしたファイルを元に戻しつつ手元のコピーを見ると、白野夏雲というのが見えた。本名かな、雅号かな。
 人名辞典を見たが無い。何か気になる。探すとあった。白野夏雲は知る人ぞ知る素敵な人だった。

   ―――白野といふ苗字は有つてもよい苗字だけれども、江戸でも甲州でも又他の地方でもつひぞ耳にしたことのない家名であり、しかも余りによく夏雲の号と調和し、且つ両者を一貫して、余りに適切に其持主の事業と経歴とを表現しているやうに思ふ。自分(柳田国男)は弱冠の頃に、屡々此人の文章を読んで、いつも斯ういふ氏名を名のる気になつた筆者の心境を譬へ様もなくゆかしく懐つたことであつた・・・・・(『退読書歴』)。

    白野 夏雲    (しらの かうん)

 1827文政10年閏6月26日(1827.8.18)、甲斐国都留郡白野村(山梨県大月市笹子町白野)の左官、今泉茂助の長男に生まれる。代官の手代とも。初名・耕作(今泉耕作)。
  ?年、 甲府・徽典館への入学を許される。学頭・*岩瀬忠震に見いだされ江戸に出て岩瀬の用人となり、太田耕作と名乗る。
   岩瀬忠震:幕臣。老中・阿部正弘に抜擢され、ペリー来航以後、外交で活躍。日米修好通商条約調印。将軍継嗣問題で一橋派につき、安政の大獄で職禄剥奪、謹慎、永蟄居。江戸向島墨堤の岐雲園で隠居。
 1861文久元年7月11日、岩瀬忠震、親愛の臣・白野夏雲にみとられ病没。44歳。
 1862文久2年、幕臣・御中間となり、以後、白野夏雲を名乗る。

 1868明治元年1月、鳥羽伏見の戦い。
   2月、両番格歩兵指図役頭取に出世。
   8月、静岡藩士となり、鉱石調査にあたる。
   静岡藩:江戸開城とともに所領を削られた徳川宗家の70万石(駿河・遠海・三河)。
 1869明治2年、北海道の開拓と経営を行う行政機関、開拓使設置。
 1870明治3年1月、十勝開業方となり、状況報告書と『十勝州略志説』を作成。

 1872明治5年1月、開拓使九等出仕。柳田国男は「開拓使の微職に就いた」と表現。
 1873明治6年、岩村通俊大判官の辞職後、開拓使を辞職。

 1874明治7年、「徴兵告諭」静岡県士族・白野夏雲講訳・二葉堂。
   ――― 公布の徴兵告諭を講読(解説)したもの。同書中の「血税」はフランス語の「兵役の義務」を直訳したものだったが、本当に血を絞り取られるという流言が広まり、各地で「血税一揆」と呼ばれる暴動が起きた(国会図書館常設展示第107回解説)。

 1875明治8年3月、内務省地理寮十一等出仕。
   19県の土石調査を行う(19県を知りたいが、資料が見あたらなかった)。
 1877明治10年、西南戦争。
   <告諭書>岩村通俊県令、西郷隆盛に順逆を説く(10.6.25東京曙新聞)。

 1879明治12年、白野夏雲、鹿児島県四島属。勧業・物産取調にあたる。
   海産物図鑑『麑海(げいかい)漁譜』(国会図書館デジタルコレクションで閲覧可)。
   ―――白野夏雲氏、鹿児島近海にヘコアユを獲(麑海魚譜に図)・・・・・白野氏得るところに評品は現に宮内省博物局に蔵むるを以て余親しく之をみる・・・・・(ヘコアユ・圖第一版)。
   トカラ列島の地誌『十島図譜』作成。
   『十島図譜』:十島村。鹿児島県南部、トカラ(吐喝喇)列島を占める村。
   ――― (奄美大島出身)永井龍一君が・・・・・『十島図譜』の自筆本を、ほぼ原図の通りに映印して、心有る者の手に留めようとせられることは、独り南方の荒海の上に孤存する道の島々の住民を欣喜せしむるのみでは無く、兼ねて又一人の忘れられんとする学徒に対する何よりの供養でもあつた。白野夏雲といふ人はどんな人であつたか。西洋の文化の新しい色と香とが、殆ど一世を陶酔せしめようとした時代に、前には北辺の曠野に在つて夷人を友とし、更に身を翻して南東の離れ小島の、一つ一つを訪ひ寄つた彼の志は何れに存したか・・・・・(『退読遍歴』)。

   ―――白野夏雲といふ人はどんな人であつたか。西洋の文化の新しい色と香とが、殆ど一世を陶酔せしめようとした時代に、前には北辺の曠野に在つて夷人を友とし、更に身を翻して南東の離れ小島の、一つ一つを訪ひ寄つた彼の志は何れに存したか。・・・・・ 十島は久しい間、ただ地図上の一奇現象であつた。単に其島影を望んで馳せ過ぐる者は、年に何千といふ船の数であつたが、親しく足を其土に踏み立てた者は誠に少なく、島人がこの壺中の天地に於て、如何に生死し盛衰しつつあるかを、省みる者は愈々稀であつた。・・・・・(『退読書歴』)。

 1882明治15年6月、『かごしま案内』(愛々堂)。
   著述出版人・静岡県士族・白野夏雲。絵入り、本分ふりがな付き。
   ――― 白野夏雲著の七五調で、当時の市街地の模様を伝える・・・・・ 序に「明治十四年のかごしまの冬の夜は、長きよろこひあるも、寒きくるしみなれ、ともしびのもとに夏雲しるす」とある・・・・・(『鹿児島市史. 3』)。

 1883明治16年、『麑海魚譜. 上』『麑海魚譜. 下』白野夏雲 編・鹿児島県。
   麑海(げいかい):麑は鹿児島の古名、鹿児島の海の魚の図鑑。国会図書館デジタルコレクションで鑑賞できる。

 1884明治17年11月、農商務省に転じる。
   『七島問答』―――白野夏雲(鹿児島県勧業課吏員)地押調査の予備調査。未刊、鹿児島県立図書館所蔵写本を永井龍一により1932年刊行(「近代日本の「文化統合」と周辺地域:「奄美」を事例にして」)。

 1886明治19年7月、白野、北海道判任官二等。
   白野は鹿児島県時代の上司、岩村通俊初代北海道長官の北海道へ赴任。
   岩村は従来の拓殖政策に大改革を加え、土地払下げ規則を公布する。ちなみに、岩村はのち男爵、貴族院議員。
   『硯材誌』白野夏雲著。出版者不明。硯材は硯石か、巻末に「地質要報」12月地質局とあるから『地質要報』誌の一部らしい。

 1890明治23年~1899明治32年まで、北海道神宮、札幌神社宮司となる。
   ――― 宮司であった白野夏雲は、神職のかたわら、北海道の自然や歴史に感心をもっていたようですから、いろんなものが白野宮司のもとに集まってきた・・・・・ ひょっとしたら、神宮の資料は、樺太・千島交換条約のため、1876明治9年対雁に強制移住させられた樺太アイヌの人々と関係があるのかもしれません。
 また、1894明治27年の絵画に、当時、神宮境内にアイヌのチセ(家屋)があったことが描かれています・・・・・(『北海道開拓記念館だより.34』)。
   東京地学協会、大日本水産学会に属し、著書は民俗学上貴重な資料とされる。
   柳田国男は、白野夏雲を田代安定・笹森儀助とともに「島の三大旅行家」と評している。

 1899明治32年9月8日、札幌で歿す。従六位・正七位。享年・72。
   岩瀬忠震との出会いが才能を活かすきっかけになったかも知れない。また次の初代北海道長官・岩村通俊にも用いられて仕事と学問を両立できたのだろうか。外国人に学んだ形跡がみられず独学でこれだけの仕事と著述、生きた学問をしたのはすごい才能と思う。叙爵については割愛する事が多いが、白野夏雲にかぎっては良かったと思い記した。

   参考: 『鹿児島市史. 3』1971鹿児島市史編さん委員会 / 『麑海魚譜. 上』白野夏雲編・鹿児島県 / 『退読書歴』柳田国男1933書物展望社 / 『明治時代史大辞典』2012吉川弘文館 /「近代日本の「文化統合」と周辺地域:「奄美」を事例にして」高江洲昌哉2015法政大学大原社会問題研究所 / 「直弼/象山/忠震(2): 競争する記念碑」阿部安成2008滋賀大学経済経営研究所『彦根論叢.373』 / 『ヘコアユ(圖第一版)』岡田信利1888東京動物學會『動物学雑誌. 1(2)』 / 『北海道開拓記念館だより.34』2005北海道開拓記念館。 
   ちなみに、北海道出版企画センター『白野夏雲』は残念ながら未見。

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