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2022年7月23日 (土)

父は熊本藩士・嘉悦氏房、娘は明治大正期の女子教育者・嘉悦孝

 2022年参議院議員選挙、女性当選者が増えた。しかし世界ではかなり少数、順位116位という低さである。男女の別なく活躍できる社会がいいと思うが、残念ですませがち。せめてブログで女子を応援したい。
 男性優位の日本の近代であるが、自身の向学心を満たすだけでなく、方針は異なるも女子の力になた女性は少なくない。嘉悦孝(たか)もその一人である。
 ちなみに、同じ熊本生まれ女性史研究家・高群逸枝は、嘉悦孝が熊本女学校で教えていた年に生まれた。
  けやきのブログⅡ2016.5.21<火の国の女、高群逸枝(熊本県)>

 ところで明治期は江戸の名残りが色濃く、富裕層でも娘の学問や読書を嫌がる風があった。これでは女性が知識を力にかえて活躍するのは簡単ではない。それでも自ら進んで学び、指導者となり女子教育に尽力した女性は少なくない。
 ただし、世間にもてはやされたのは家政を優先しつつ自分を磨くというもの。現代ではそのまま受け入れがたいが、それを説いたのが嘉悦孝である。
 孝の父は旧熊本藩士・政治家の嘉悦氏房、その生涯をみると孝の考えが分かる。

     嘉悦 氏房     (かえつ うじふさ)

 1834天保5年1月、熊本県飽託郡本山村763で生まれる。
   東京豊多摩郡千駄ヶ谷村881番地寄留。
 1867慶応3年、長女・孝(たか)うまれる。
   嘉永初年、横井小楠(熊本藩士・幕末の思想家)に入門、宮部鼎蔵らと学んだ。
   山田武甫・宮川房之・安場保和とともに小楠門下の四天王といわれた氏房は熊本藩勤王方。たびたび京へ出て、梁川星巌・橋本左内らと会い国事を謀議。
 1863文久3年7月、薩英戦争。藩命で鹿児島に赴く。
   ―――外国と兵を構ふるを責め其の利害を諭し・・・・・同藩の同意を得るや薩の吉井幸介、高崎伊太郎、奈良原繁、越前の中根雪江らと京攝の間に往復し・・・・・(『立身致富信用公録』)。
 1868明治元年? 民部省出仕、胆沢(いざわ。岩手県)県大参事。
   このときの県庁給仕が、のちの男爵・斎藤実と後藤新平であった。
 1869明治2年、版籍奉還。肥後藩は熊本藩となる。
 1870明治3年5月、民部省監督大佐。 7月、大蔵省諸務大佐。
   9月、胆沢県大参事。同月、熊本県少参事。
 1871明治4年、廃藩置県。熊本藩は熊本県、その後熊本県は県庁を二本木に移して白川県と称し、八代・白川両県を併合。熊本県知事・細川護久。
   横井門下が熊本の実学党政権をにない、嘉悦氏房(市之進)は小参事。
 1872明治5年4月、八代県権参事。
 1873明治6年1月、白川県権参事。
    けやきのブログⅡ<2018.3.24 白川県権令・安岡良亮の機知(熊本県)>

 1874明治7年1月、氏房は白川県権令・安岡良亮と意見が合わず辞表をだす。
   共立学校を設立。徳富一敬らと誠治経済の学を、本山村に広取黌(広取学校)を起し英学の研究を始める。のちの県立中学校。
 1875明治8年6月、緑川製糸場操業をはじめる。
   輸出用生糸の生産を目的とする西日本最大の器械製糸場。熊本藩士族120名が資本金1万円を出して設立。舎長は嘉悦氏房。
   ―――小楠門下の一つの拠点で、嘉悦の娘孝・徳富一敬(蘇峰の父)の娘音羽(おとわ)、兼坂止水の妹きんなど実学党有力者の女子が、工女や監督として働いていた・・・・・ 西南戦争で兵火があったが、製糸場は災害をまぬがれたが・・・・・ 明治15年、ついに休業・・・・・(『熊本県』)。

 1876明治9年、神風連(敬神党)の乱。
 1877明治10年、西南戦争。
 1879明治12年、熊本県会議員。1880明治13~14年、県会議長。
 1892明治25年、熊本第5選挙区、衆議院議員。
 1893明治26年7月、自由党熊本支部が正式に発足。幹事・嘉悦氏房・高田露・松山守善・古荘幹実ら8人。
   11月、第5議会・星亨不信任案可決。12月、解散。
 1894明治27年9月1日、日清戦争中に第4回総選挙。
   氏房は熊本自由党から出るも、宗像(田村)政に敗れ落選。
 1908明治41年10月30日、死去。享年74。
   次男の敏は陸軍騎兵大尉。袁世凱(清国・北洋軍閥の巨頭)の幕賓。

     嘉悦 孝     (かえつ たか)
 
 1867慶応3年、氏房の長女にうまれる。明治元年生まれとするものもある。
   たくさんの弟妹のなかで最も父の気性を受け継ぎ、氏房は「若し男であったならば」。
 1878明治11年、緑川製糸場、水車と蒸気機関を併用し当時最大の工場となる。
   ―――氏房の娘・孝、徳富一敬の娘・音羽(蘇峰の姉)、矢島楫子(日本基督教婦人矯風会会頭)らも女工として働き、彼女たち会社閉鎖後も家庭や婚家で養蚕製糸の技を伝え、県下各地の製糸業発展に寄与・・・・・(『熊本県の百年』)。
   まだ11歳の少女孝は、小学校をやめて製糸場で働き、小学校へ通う弟・敏(さとし)からいろいろ聞いて向学心をみたしていた。
 1882明治15年、緑川製糸は隆盛になったが原料不足、横浜の生糸荷預所設置問題、松方デフレ政策が相まって工場は閉鎖となる。

 1876明治19年、上京。神田駿河台の成立学舎女子部に入学。
 1889明治22年4月、高等科に進む。
   10月、英語・漢学・数学三教科教授の嘱託を受け、土子金四郎について簿記を学ぶ。
 1891明治24年4月、成立学舎で教え、傍ら二松学舎で漢学、林甕臣に和学を学ぶ。
 1892明治25年12月、熊本県宇土郡宇土町に女学校設立、招聘され帰郷。
 1893明治26年4月、熊本の女学校で教える。
 1896明治29年12月、女学校を辞職し上京。
   再び、二松学舎で漢学、三輪義方に和学を学ぶ。傍ら、有志の依頼で自家に子女を寄宿させ家庭教育を授ける。

 1898明治31年6月、大日本婦人教育会付属・女紅学校監督ならびに教授を担当。
 1899明治32年12月、小石川に吉村寅太郎創立の成女学校の教授。   
 1900明治33年1月、成女学校の幹事・家事科教授・学監。
 1903明治36年10月1日、私立女子商業学校を設立(入学者8人、3年制)。
   この年。井口あぐり、アメリカ留学から帰国、スウェーデン体操紹介。棚橋絢子・東京高等女学校、山脇房子・実修女学校(山脇高等女学校)設立。羽仁もと子『家庭之友』創刊。

 190明治41年、麹町区土手三番町に女子商業学校を新築移転。
   孝は寄宿舎内に生徒と起臥をともにし教室の掃除から煮炊き、縫い物まで真っ先にした。暑中休暇を利用し三島中州の漢学塾へ通う。
   米価高騰のとき外国米をたくさん買い込み、貧民に原価で販売し感謝された。
    ――― 女史の演説は、態度調子がなかなか堂々たるもので・・・・・ 女子の気質はサツパリとして寛大で、娑婆気があつて、ちょっと政治家肌がある。又其体格が、ツングリとした骨太で、太い明晰な音声が、全くその性格と一致して居る。・・・・・ 意外に艶種があるけれども、いまだに独身主義だ。・・・・・女子はいつも、演壇の右へ出て、左手(ゆんで)を演壇にかけ、右手(めて)を袴の下に入れて演説される、エヽそれからと云ふのが口癖で・・・・・(『現代名士の演説振』)。

 1911明治44年、―――嘉悦孝<新年と女子の遊び>・・・・・ 私は国粋保存主義で御座いますから、何でも日本古来の事が好きです。家では夜分など私が先に立って自分で裁縫を致しますが「よく裁縫などする暇がある」と仰いますけれども・・・・・ 何れも家庭に入る人達を預つて居るのですから、日本の家庭でする事は、なるべく此所で躾ける様に致しております・・・・・(『四十大家現代女性観』)。
   ――― 女流教育家有数ノ活動家トシテ東奔西走シ、自ラ斯界ノ時弊ヲ指摘シテ同志ニ激シ、終始一貫渝ラサル熱誠ハ有髭男児ヲシテ顔色ナカラシム、是女子ガ言動ナリ・・・・・ 麹町区土手三番町二一 電話番町二一二七・・・・・(『信用名鑑』)。
   
 1915大正4年、『怒るな働け』(洛陽堂)出版。のち再刊(昭和3年、新生堂)。
 1917大正6年、『貯金の出来る経済の取り方 : 附・上品な内職』嘉悦孝子 実業之日本社。
 1919大正8年、私立女子商業学校を日本女子商業学校と改称。のちの嘉悦学園。
 1925大正14年、『家庭と予算生活』教化団体聯合会(教化資料・第35輯)。
 1926大正15年、『女四書 : 現代語評釈』(聚芳閣教育部)出版。
   内務省社会局、第1回家庭経済講習会講演。

 1919昭和24年、死去。
   ―――女子はいつも元気の好い顔に、愉快の色をたたえて、「怒るな働け」主義で、着実な婦女の養成に余念がないのである。また、学校の名に「商業」の2字を被らせて、兼ねての希の通り、経済の上手な婦女の養成に余念がないのである・・・・・(『淑女鑑』)。

     著書:『学校生活』(金港堂)・『割烹新書. 上巻』(隆文館)井上善兵衛・ 嘉悦孝子・『主婦の修養』嘉悦孝子・ 津川梅村(平民書房)、『惣菜料理のおけいこ』宝永館・『家政学講話』同文館・『花より実をとれ』忠誠堂・『貯金の出来る経済の取り方 : 附・上品な内職』・『礼法要項詳解 : 文部省制定』・『新東亜建設を誘導する人々』(日本教育資料刊行会編)・『価値ある生涯』(丁未出版社)・『家庭生活の改造』

   参考: 『日本教育史年表』1994三省堂 / 『日本人名事典』1993三省堂 / 『熊本県』1982昌平社 / 『熊本県の百年』1987山川出版社 / 『熊本県の百年』1987山川出版社 / 『立身致富信用公録』1903国鏡社 / 『四十大家現代女性観』加藤教栄編1911日高有倫堂 / 『淑女鑑」田島教恵1914文永館 / 『信用名鑑』1911信用名鑑発行所 / 『現代名士の演説振』小野田亮正1908博文館

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