米沢藩士・宮島誠一郎の明治、内務省設置案
理系の大学生の話についていけず、「私は弥生人?それとも遺跡?」そういうと男孫はただニコニコ。スマホにしたものの急ぐ旅でなしスピード無用、しかも機能満載で目まぐるしい。
器機の進歩は止まることを知らず、居ながらにして多大な情報が得られる。しかし、真偽不明なものが紛れていたり、時として通信障害がおきる。2022年7月2日発生した通信障害は全面復旧まで時間がかかり3000万人余に影響する大きなトラブルになった。
それはさておき現代は対面でなくても情報を得られる。しかし昔はそうはいかなかった。幕末は何かと物騒だったが多くの人士が情報を得ようと自ら、あるいは命ぜられて江戸や京へ向かった。*米沢藩士・宮島誠一郎もそうした一人である。
<1863文久3年、八月十八日の政変>
会津・薩摩両藩を中心とした公武合体派が、長州藩を主とした尊攘派を京都から一掃したクーデターである。
その一ヶ月前、事を協議する会津藩士の京都三本木の宿所を宮島誠一郎が訪れた。宮島は*藤井竹外宅で開かれた漢詩の賦会で会津藩士と出会い、会合の場に行き会わせたのである。宮島はそのことを、
「文久三年七月十六日、秋月悌次郎、広沢富次郎(安任)、大野栄馬、柴秀治(太一郎)・・・・・ いずれも会藩士有名なり」と日記に記した。
会津藩士が京都で人気があったのがうかがわれ誠一郎の名を覚えた。しかし、その後は名を見かけず忘れていた。たまたま国会図書館デジタルコレクション「宮島誠一郎関係資料」に柴五郎の書翰があり、五郎の長兄・柴太一郎と面識があるのを思い出した。
そこで、手元の人名事典を見たが載ってない。却って気になり図書館で探すと、『戊辰雪冤』米沢藩士・宮島誠一郎の「明治」という新書があった。その新書と漢詩の方面から宮島誠一郎をみたが、その歩みは佐幕派というか判官贔屓の心に沿わないのが惜しい。
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藤井竹外:1807~1866 江戸後期の儒者・漢詩人。詩にすぐれ、頼山陽に師事し、梁川星巌・広瀬淡窓などと交わる。七言絶句をよくし「絶句竹外」と称される。
宮島 誠一郎
1838天保9年7月20日、山形県米沢市猪苗代片町5448番に生まれる。
名・吉久。号・栗香。別号・八十八渓漁夫。
学問を千坂循渓、詩を山田蠖堂に学ぶ。
1842天保13年、4歳にして唐詩数首を暗誦して神童といわれる。
1848嘉永元年、10歳。藩校・興譲館に入り、13歳には「左伝」の素読を終える。
1863文久3年2月、25歳。父吉利に従い、江戸や京に赴く。
京の誠一郎は、藤井竹外・宮原潜庵・頼復次郎らと詩文をやりとり。かたわら会津藩士らと交流したり世の情勢を見、考える。この当時の誠一郎の詩文を『明治漢詩文集』(筑摩書房)で読める。
8月24日、誠一郎は面識のある会津藩公用方の柴太一郎・安部井磐根らと面会、八月十八日政変に至る経緯を聞き出し、藩に報告するとともに、今後のとるべき道を考える。
1864元治元年7月、誠一郎は小田切とともに奥羽諸藩探索の旅に出たが警戒される。
1866慶応2年6月、幕府は長州征伐にふみきるも失敗。
1867慶応3年10月、徳川慶喜、大政奉還。
1868慶応4年1月、戊辰戦争おこる。
5月、奥羽越列藩同盟なる。誠一郎は興譲館教授であったが、天下の大勢にを洞察して王事に心をよせ、奥羽諸藩の間を奔走して、連名の建白書を携え、密かに京に上り、山内容堂を介して朝廷に進達。この時は誠一郎と米沢藩は奥羽列藩同盟の中心として活躍。
6月、誠一郎は勝海舟と会い、自藩第一主義だと云われ藩の動向を考えさせられる。ともあれ、米沢藩は出兵する。
7月、新発田藩が新政府軍を手引きして同盟を離脱すると、米沢藩は会津藩の要請にも関わらず越後戦線から撤退する。
明治元年9月8日、慶応から明治に改元。
9月22日、会津藩降伏。米沢藩も新政府に対抗したため14万7000石に減封となる。以来、誠一郎は米沢藩と藩主の復権のために奔走する。
1870明治3年、誠一郎は待招院(有志者の建白を奨励するため設置した機関)に出仕。
東京市麹町区麹町平河町5丁目17番地に居住。
1871明治4年、廃藩置県。
官制改革で太政官に設置された左院(立法諮問機関)少議官に任ぜられる。内務省設置(6年設置)案など献策し大久保利通に重用される。
1872明治5年4月3日、誠一郎は建白書「立国建議」を*内務省設立の建議とともに左院議長の後藤象二郎に提出する。
―――建議のなかで、まず天皇が有する「父母たるの権利」と「人民を保護するの義務」を国憲に定め、それを政府が代行するものとする。そのうえで、「国憲」をもとに人民の権利と義務を定めた民法、これらに反したときの罰則規定である刑法を制定すべきだと主張・・・・・ この「国憲」の基本理念を誠一郎は「君民同治」という言葉であらわしている
―――誠一郎は中央集権体制の確立をめざして藩政改革を推進し、米沢藩から政府に人材を送り込んでいく。廃藩置県によりこれまでの地位を失った諸藩主の位置づけは政府に重要な課題でもあった。その一例が海外留学の奨励であった・・・・・ 旧米沢藩主・上杉茂憲は海路イギリスへ横浜を出航する(『戊辰雪冤』)。
内務省:広範で強力な権限をもつ中央官庁。
1876明治9年8月、山縣・鶴岡・置賜三県が合併して山形県となり、初代県令は三島通庸。
誠一郎はさっそく三島を訪ね、富岡製糸場にならい米沢製糸場建設の計画を述べる。また、明治天皇巡幸に先立ち、奥羽各地を視察中の大久保利通にも話して激励される。
こうした誠一郎について、内務省輔の前島密が三島に手紙で「米沢人の多く云うところによれば、宮島の所論は甚だ同地人の気に入らず」と報じている。製糸場建設にあたって旧藩士らに無理がたたった為らしい。
1877明治10年10月、米沢製糸場開業。
誠一郎は修史館御用掛兼宮内省御用掛となり、上京。
この年、初代駐日公使・何如璋に従い、黄遵憲・清国公使館書記官が来日。
―――時恰も琉球問題の為、両国(日本と中国)間に葛藤を生ぜし折柄、米国前大統領グラント(克蘭徳)、清国を経て我が国に来たので・・・・・外務大輔吉田清成の紹介により、グラントに面接し、胸襟を披き意見を交換し、グラントより記念として、彼れ自身の写真に署名して、君に贈られたことがあつた・・・・・(『東亜先覚志士記伝』)。
黄遵憲は琉球帰属問題、朝鮮問題など毅然とした態度で交渉に臨む一方で、日本を研究し『日本雑事詩』を著している。この書は平凡社の東洋文庫に収められている。また、黄遵憲は日本の政治家・文人と交わりは親切濃厚であった。詩の唱和をしたり添削を受けるため伊藤博文・榎本武揚・岡千仞(鹿門)ら多くの日本人がまじわりを求めた。
誠一郎はその黄遵憲から、「君の詩は実に僕に勝る」と評価される。
1881明治14年、明治十四年の政変。大隈重信が政府から追放され、明治23年国会開設の詔書が出される。
1882明治15年、宮島栗香(誠一郎)『養浩堂詩集』五巻三冊、善隣書院から刊行。
1884明治17年、参事院(法律・規則の制定・審査など担当)の議員補となる。初代議長は伊藤博文。
―――幕末以来、作詞の技量が進歩し、士人は己の思想感情を発表する工具とした。その伝統が受け継がれて旧幕時代の諸侯・維新の元勲・政府の高官・学者・軍人など皆詩を善くした・・・・・(『日本漢詩鑑賞辞典』)。
1885明治18年、このころ、野口常共(松陽)・大沼沈山・藤川三渓ら漢詩人と交遊(誠一郎・過去仙客交遊簿より)。
1889明治22年、宮内省爵位局主事。
1896明治29年、貴族院議員に勅撰。
1898明治31年3月2日、徳川慶喜が明治になって初めて参内、天皇・皇后に拝謁した。
―――拝謁の背後には、旧藩主・斉憲の意志を継いだ誠一郎の尽力があったのだが、それを知る者は家達・溝口を除き、世間では誰もいないという。そして、そのことを誠一郎は「上出来」としたのである。そこには固い信念を抱きながらも、みずからの分を知り、あくまで影に徹した男の姿があった(『戊辰雪冤』)。
1905明治38年12月、宮島誠一郎著『国憲編纂起原』元真社。
1911明治44年3月15日、糖尿病の悪化、脱疽小症の悪化により死去。享年73。
青山墓地に葬られる。
宮島大八(詠士)は宮島誠一郎の長子で書家、中国語研究でも知られる。弟は小森長政。
1940昭和15年『養浩堂詩鈔』を刊行。翌年、陸軍大将・柴五郎に贈呈、礼状「養浩堂詩鈔御恵贈有難し」が残されている。また、大八は五郎に揮毫を依頼したり交際しているのは父の縁か、それとも五郎の中国北京での活躍もあるだろうか。いずれにしても、軍人でありながら住民の暮らしを思いやる五郎を思うと、大八もまた五郎と似た思考の持主かも知れない。
参考: 『戊辰雪冤――米沢藩士・宮島誠一郎の「明治」』友田昌宏2009講談社現代新書 / 『近現代史用語事典』安岡昭男編1992新人物往来社 / 『明治漢詩文集』(明治文学全集62)1983筑摩書房 / 『日本人の漢詩』石川忠久2003大修館書店 / 『日本漢詩鑑賞辞典』猪口篤志1980角川書店 / 『東亜先覚志士記伝』葛生能久1936黒龍会出版部
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