明治・大正・昭和期の漫画家、北沢楽天
息子が小学生の頃、ベッドの蒲団の下に漫画本を隠していた。何でと思いつつも蒲団を干した日はそのまま戻しておいた。ある日、それに気づいた息子が「漫画はダメかと思ってた」という。「えっ、そんなこと言ったことないでしょ」に息子は「うん」。
宿題も見てやらず活字に夢中の母、子どもなりに気を遣っていたのだ。なんだか息子に申し訳ない気がした。
それからウン十年、子も孫も私の読み書きに全く興味がない。こちらも漫画やアニメはさっぱり、時代に取り残されていそう。
それはさておき、今や漫画は日本を代表する文化の一つ! 漫画を読まなくても分かる。そこで、名前を知っている明治の漫画家、北沢楽天を見てみた。
なお、北沢楽天の表記は引用資料のまま、北澤または北沢とした。
北沢 楽天
1876明治9年7月20日、埼玉県大宮(さいたま市)、北澤保定、高橋ゑ以の四男に生まれる。本名・保次(やすじ)。
北沢家は大宮宿脇本陣・紀州鷹場本陣を代々務めた旧家。父の保定は明治維新後も戸長役を務めていたが、参勤交代による収入や紀州家からの扶持を失った。そこで、幾つかの事業を試みたがうまくゆかず、家督を長男に譲って大宮を離れた。
生後間もない保次(楽天)は、父の内務省勤務のため東京・神田錦町に移住。
こうした事情は、楽天の薩長藩閥政府に対する批判の強い政治漫画、風刺漫画に影響したと思われる。
1890明治23年、14歳。神田錦町小学校を卒業。
絵が得意であったが、父の意向で医師の修行に横須賀の医師・井上春瑞のもとに行くが、1年ほどで実家に戻る。
1892明治25年、麹町の絵画研究所「大幸館」(大野幸彦主宰)で洋画を学ぶ。
1895明治28年、横浜に出て、オーストリアの漫画家フランク・A・ナンキベルに師事。
西洋の風刺漫画のテクニックを学ぶ。英語は私立の夜学校、開文学舎で学ぶ。
――― 四月の日清講和条約を題材に「講話の三面李鴻章の題下に、日本に哀願する一面西太后さらに一面列強に哀願する李爺の窮状」っを描いたというのが、漫画界へのデビューでした・・・・・(『北沢楽天』)。
1896明治29年、横浜の外国人向け英文週刊誌「ボックス・オブ・キュリオス」に絵画記者として採用される。
1899明治32年、横浜から神田駿河台の実家に帰り、『時事新報』絵画部の記者として、本格的に勤務し始める。
―――楽天の漫画<帽子の下はチョンゲゲ> 金ピカの洋服に羽のついた帽子、これは子どもばかりでなく、大人にとってもあこがれのまとで、新時代のえらい人の象徴でした。こんにちでこそ、みることもできない遺物となってしまったが、そのころは、衣冠束帯やかみしもにかわる新しい威厳をしめすものだったのです。それなのにその帽子をとってみると、まだ封建時代のチョンマゲがのっかっている、つまり頭が古いことをわらったのがこの漫画です。この大将は山縣大将で、藩閥(主として薩長土肥の旧藩で明治新政府をぎゅうじっていた)の総大将のように勢力をふるって男です・・・・・(『漫画学校』)。
1900明治33年、福澤諭吉に招かれ、『時事新報』に絵画部員として入社。
はじめて「漫画」という名称を用いる。時事漫画を連載すると大評判で、福澤諭吉は「絵をもって世の中を動かすのは、漫画のほかにない」と激励した。感銘した楽天は生涯を漫画にかける決意をする。
この辺りの経緯、出会い、楽天の漫画への心意気、後輩や仕事ぶりなど、竹内一郎著『北澤楽天と岡本一平 日本漫画の二人の祖』に詳しい。簡潔で具体的な説明、図もあって分かりやすい。
2020年出版で比較的新しくどこの図書館にもありそう。興味のある方いかが。
1901明治34年、この年、父71歳、福澤諭吉68歳で死去。
1902明治35年、『時事新報』はそれまでの*ポンチ絵とは趣を異にする漫画専門の「時事漫画」欄を新設。翌36年から北沢楽天の名前でサイン。
ポンチ絵:ワーグマン創刊『ジャパン・パンチ』の影響を受けた時局風刺画。文明開化の風潮の中で漫画を意味する言葉として普及。
1905明治38年1月、28歳。東京麹町の商家の三女、鈴木いの20歳と結婚。
4月、日本初のカラー漫画雑誌『東京パック』を創刊、主筆。
――― 大判多色石版刷、英語、中国語入りの美しい雑誌で、たちまち十数万部の発行をみた。政治漫画だけでなく、ナンセンス漫画もつぎつぎにのせ、助手として、山本鼎、坂本繁二郎、石井鶴三、近藤浩一路、川端龍子ら、後に大成した人たちも多い(『子供之友原画集4』)。
――― 漫画のキャプションには英語と中国語も表記され、楽天の気持ちが世界を向いていることがわかる。朝鮮半島や中国大陸、台湾などでも販売された・・・・・(『北沢楽天と岡本一平』)。
翌39年から、月2回の発行になり、即戦力となる画学生を採用。川端龍子・近藤浩一路・坂本繁二郎・山本鼎・石井鶴蔵らで、いずれものちの美術界代表。
1908明治41年、こども雑誌『フレンド』発刊。
楽天は子ども好きで描くのも得意だった。凸(デコ)坊やや茶目(チャメ)は「時事漫画」や「少年」で、楽天が創造したキャラクター。
1912明治45年、『東京パック』終刊。
発行元の事情もあるが、大逆事件などで諷刺を発揮するには困難な時代のせいもあるらしい。楽天は自ら出版社をたちあげ『楽天パック』創刊したが、経営は苦戦つづきだったよう。
1912大正元年、ライバル岡本一平が『朝日新聞』入社。
岡本は文章付き漫画スタイル「漫画散文」など長編ストーリー漫画のスタイルをつくりあげる。のち「東京漫画界」を結成しリーダー的役割を担う。楽天や門下も参加し漫画と漫画家をアピールした。
1914大正3年4月、『子供之友』創刊。
――― 以後5年にわたって表紙、口絵、挿絵、ポンチ絵などに力強いデッサン、美しい色刷、卓抜な企画(変り絵、判じ物、ひらき絵など)で大活躍する。子供を愛し、又動物をも愛する・・・・・ 第一次世界大戦中(1914~18)は、『時事新報』にも多くの国際漫画をかき、ひきつづき政治漫画界の第一人者であった(『子供之友原画集4』)。
1922大正11年、小川治平が入社。楽天とのコンビが生まれる。
「やさしい画びかき方」を連載、漫画志望者を出すことにつとめた。このころ、「漫画好楽会」結成。
1926大正15年、長兄の長十郎が死去。子がなく保次こと楽天が大宮の北沢家を継いだ。
1929昭和4年、いの夫人とヨーロッパ、世界漫遊の旅に出る。諸処の風俗を毎週『時事新報』に連載。
1930昭和5年、帰国。見聞記『洋行土産』を出版。
1932昭和7年、時事新報社を退社。
「三光漫画スタジオ」結成。
自宅アトリエを開放しクロッキー教室を設け、残りの生涯を後進の育成にかけた。
――― 大学生になって、先生のお宅にできたクロッキー研究所に通い、そこで改めて先生の基礎的デッサン力に驚き、若いころの猛勉強ぶりをあれこれ創造したものだ・・・・・ 一人でこれだけ広い幅に活躍できる人は今後もいないだろうと思う(『子供之友原画集4』*根本進)。
根本進:漫画家。朝日新聞に40年間、「クリちゃん」を連載。
1941昭和16年12月8日、日本軍、ハワイ真珠湾を奇襲攻撃、対米英宣戦布告する。
1943昭和18年、大政翼賛会による漫画家を取り込むための「日本漫画奉公会」会長となる。顧問・岡本一平、理事長・麻生豊。
1945昭和20年、太平洋戦争、敗戦。
1948昭和23年、故郷の大宮に帰り、日本画を描いて自適の生活をおくる。力のこもった屏風画の大作など画家として力量を示した。
――― 最後は、水墨画が殆どで、まるで禅僧の絵のようだ。根本的に欲のない人だったのだろう。・・・・・ (『北沢楽天と岡本一平』)。
1955昭和30年、死去。
いの夫人は楽天の作品や遺品、さらに自身が住んでいる「楽天居」を市に寄贈、その管理を市と北沢楽天顕彰会にゆだねた。
1966昭和41年、日本初の公立漫画美術館、さいたま市立漫画会館が開館。
1986昭和61年から漫画コンテスト<北沢楽天漫画大賞>開催。
締切せまる!
募集テーマ: ①共生 ②自由(時事漫画/似顔絵等)
応募期間: 2022年8月1日(月)~9月1日(木)
参考: 『日本人名事典』1993三省堂 / 『子供之友原画集4 北澤楽天』1986婦人之友社 / 『漫画学校』松山文雄1950大雅堂 / 『北澤楽天と岡本一平 日本漫画の二人の祖』竹内一郎2020集英社新書 / 『北沢楽天 日本で初めての漫画家』2019北沢楽天顕彰会編著2019さきたま出版会
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