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2022年8月13日 (土)

漢詩への招待、中国古典文学者・石川忠久

 高校時代、漢文の授業は苦手で退屈だった。
  それが、吉川幸次郎(中国文学者日本中国学会第二代理事長)の『新唐詩選』を読んで、漢詩をいいと思うようになった。余裕、含みのある解釈のおかげで愉しめた。
 時には、杜甫の「国破れて山河あり 城春にして草木ふかし(春望)」など暗誦したりした。
 ところが、『三国志』『水滸伝』、司馬遷の『史記』など物語や歴史に夢中になった。<中国古典文学全集>全60巻を買い揃え、手当たり次第読んだ。全集にはもちろん「杜甫」 「白楽天」をはじめ詩人の本もあるが、あまり開かなかった。

 それが、昭和の終わりころ、<漢詩をよむ>というNHKの番組を見始めると、また漢詩が気に入ってテキストも買った。
   けやきのブログⅡ2013.9.14 “十五夜それとも十三夜”

 そのうち、石川忠久先生の講座を受講するようになり、これがほんとうに愉しかった。悠揚迫らぬ大人(たいじん)の風がある先生は、いつも笑顔で難しいことをやさしく解説してくださるので情景が浮かび、興味津々。漢詩人の背景や作風の説明も勉強になった。そして、漢詩の朗読が何とも素敵だった。
 石川先生が中国語で漢詩を詠み上げるとそれは音楽、漢詩の世界に浸れる。
 テレビでも対面授業でも先生の講義はほんとうに愉しい。
 ところが、先生のご都合で、2017平成29年、毎日文化センターの講座「NHK漢詩紀行 漢詩入門」が終わってしまった。

 ただ、その講座のおり幸いにも石川先生とお話しする機会を得られ、貴重なお話しを伺うことができた。
 「明治人、会津の柴五郎の姉、望月つまの子孫」と教えてくださったのだ。
 もう嬉しく、身の程知らずに『明治の兄弟 柴太一郎・東海散士柴四朗・柴五郎』を謹呈してしまった。
 その貴重な機会を得られたのは、中山正道(全日本漢詩連盟常務理事)先生のおかげである。

 中山先生は、石川先生の漢詩入門講座に同行されていた。そのころ自分は『明治の一郎・山東直砥』の資料集めの最中、山東の漢詩を見ることができたが、訳すことができず、ほんとうに困っていた。
 せっかく、主人公の作品に出会ったのに意味も分からず、見過ごすしかないのか。どこへ行けばいいのかと、ただ呆然。思いあまって、中山先生に「実は」とお願いしてみた。
 すると中山先生は何処の誰とも分からぬ者の頼みを快く聞いてくださり、親切に面倒をみてくださった。おかげで、主人公・山東直砥の想いを表現することができ、人間像が豊になった気がしている。ほんとうに助かった。有難く感謝しかない。

 そのこともあって、石川忠久、中山正道、両先生お二人に再会する日を楽しみに待っていた。しかし、この夏、石川忠久先生は遠く旅立たれてしまった。
 心から追悼しご冥福をお祈り申し上げるばかりであるが、なんとも残念で寂しい。
 そこで石川忠久先生をと書き出した途端、呆然としてしまった。石川先生の学問、業績、大きすぎて何一つ分かっていない。第一、自分には漢学の素養が無い。気づくのが遅すぎると反省したものの他を当たる時間が無い。またも至らぬ記事で申しわけない。

     石川  忠久    (いしかわ  ただひさ)

 1932昭和7年4月9日、東京で生まれる。 号・岳堂。
  ?年、東京大学文学部中国文学科入学。
 1945昭和20年8月15日、太平洋戦争敗戦。
 1949昭和24年、二松学舎大学文学部国文科・中国文学科設置。
 1955昭和30年、東京大学文学部中国文学科卒業。同大学院修了
 1962昭和37年、東京大学人文科学研究科 中国語学文学。大学院博士課程。
 1966昭和41年、桜美林大学文学部助教授。1972昭和47年、教授。

 1980昭和55年、日本中国学会理事。
 1984昭和59年、全国漢文教育学会会長。
 1987昭和57年、『漢詩への招待』(新潮社)、あとがき。
   ――― ラジオの放送で、山水とか風流とか酒のテーマに分けて漢詩の解説をするうち、漢詩の流れを知りたいとの声がよく寄せられました。何といっても、中国の詩は三千年余りずっと流れ続けてきたものですから、それを通して見ることはたいせつです。・・・・・この書の出版を勧めてくれた新樹社の楠悦郎氏は、昔、寮生活を共にした私の古い友人です・・・・・(2016文春文庫)。

 1989平成元年、斯文会理事長。
 1990平成2年、二松学舎大学教授。
   二松学舎: 1877明治10年創立。三島中洲(幕末・明治期の漢学者、岡山県)が、麹町一番町に家塾、二松学舎を設立。生徒に夏目漱石(塩原金之助)、嘉納治五郎がいる。歴代舎長(学長)、渋澤栄一・金子堅太郎・吉田茂。

 1991平成3年、東方学会地区委員、評議員。
 1995平成7年、日本中国学会理事長。
 1992平成4年、「陶淵明研究」で東大文学博士。
 1995平成7年、日本中国学会理事長。
 1997平成9年、六朝学術学会顧問。
 2001平成13年、二松学舎学長に就任。
 2003平成15年、全日本漢詩連盟設立。初代会長に就任。

 2006平成18年、『漢詩の魅力』(2006筑摩書房)あとがき。
   ―――いうまでもなく、漢詩文は日本文化の基底を成すものです。戦後の学校教育で「漢文」がおろそかにされているのがおかしいです。・・・・・ やはり学校でもっと漢文をやらなければ・・・・・ 漢詩は理屈抜きに面白い。いろいろな切り口によって、味わいは尽きることがありません・・・・・。

 2016平成28年、『漢詩への招待』(文藝春秋)より。
   「人百其身」 人をして其の身を百にせん(生き埋めになったますらお
   ――― 殉死の悲劇をうたったもの・・・・・紀元前六二一年のことです。ひとりの権力者が死ぬと、そのおともに多くの人が殺される殉死の風習は、むかしからどこの国にもありました。いま、殷代のお墓を発掘すると何百人、何千人の外骨がでてくることがあります(「詩経」と楚辞――周代)。
   漢詩の世界は風雅なものだけではないと思うが、これほど悲惨なものもあるとは、ウクライナとロシアの戦争を思わずにはいられない。この詩をとりあげた石川先生の思いを察したい。

 2019令和元年、「平成」に代わる新元号の考案を政府から委嘱された一人。
   ――― 提案した「万和(ばんな)」は、「令和」などとともに最終候補の6案に残った。

 2022令和4年7月12日、心不全のため死去。享年90。
   そう遠くない日に、立派な評伝が出されることでしょう。

  NHK『漢詩を読む 杜甫』巻末、著者・石川忠久先生の「杜甫の最後」を引用。
   ――― 大暦五年(七七〇)四月になって、潭州刺史が部下に殺され、潭州は大混乱になった。杜甫は乱を避けて、南下して郴州(ちんしゅう)の叔父を頼ろうとしたが、途中、耒陽(らいよう)で大水に遇い進めなくなった。仕方なく放田(ほうでん)駅に泊まったが、十日間も食糧が手に入らなかった。・・・・・ 大水がなかなか引かないので、杜甫は郴州へ行くことをあきらめ、潭州に引き返したのである。そして、大暦五年冬、潭州から岳州へ向かう途中、舟の中で歿した。行年五十九。最後まで帰郷の夢を持ち続けたが、ついに果たせなかった。

   著書多数。『漢詩の世界』 『漢詩の風景』 『漢詩日記』 『石川忠久 漢詩の講義』 『漢詩の楽しみ』 『隠逸と田園』 『玉台新詠』 『唐詩選』 『陶淵明とその時代』

   参考: https://researchmap.jp/read0027849 researchmap石川忠久 / 『漢詩をよむ』NHK1986石川忠久(李白・杜甫・その他) / 『日本人の漢詩』石川忠久2003大修館書店

     ***  ***  ***  *** 
   令和4年夏、甲子園球場では高校球児らが熱戦を繰り広げている。8月9日は二松学舎大附属が札幌大谷と対戦、3:2でサヨナラ勝。次の試合はどこと対戦するのだろう。  

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