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2022年8月 6日 (土)

福島と新潟つなぐ只見線

 コロナ禍と酷暑の夏だけど学生さんはじめ夏休みの旅に出ている人はいるでしょう。自分もと言いたいけど今は我慢。せめて行き先をと考え中、ローカル線の現実を知らせる新聞記事の「只見線」がに目がとまった。それというのも、只見線が走る新潟-福島の道が気になるから。
 『ある明治人の記録』主人公柴五郎、その兄と会津藩士が戊辰の戦を戦うために往来した道と、只見線の線路は近そうと思ったからである。そしてそれは当たっていた。

   ――― 会津軍が六十里越峠(六里が六十里にも相当する苦難の道)を越えて小出陣屋を拠点に防備を固め、三国峠や柏崎方面から攻め寄せた薩長軍など官軍と、小出島や四日市で戦った。会津軍は敗れて、ふたたび六十里越から会津へ引き上げたのである
・・・・・ 有名な長岡の河井継之助が只見へ遁れてきた・・・・・河井は負傷して松本良順のすすめで若松に向かうことに・・・・・しかし傷は悪化し、死亡した・・・・・ 六十里越えと八十里越えの両ルートは、越後と会津を昔から結びつけてきた、重要な峠道であった(『只見線物語』)。

   <只見線に乗って出掛けませんか >
  “トロッコ列車「風っこ只見線紅葉号」”(あいづわかまつ市政だより29.10.1
  いつか、友だち誘って只見線に乗ろう。今はその時を楽しみに、『只見線物語』を主な参考に只見線を見ておこう。

     只見線
   ―――JR只見線 会津若松-小出 135.2km。 沿線は豪雪地帯で、冬期には併走する国道が積雪により通行止めになることから、只見地区と魚沼地方を結ぶ唯一の交通手段となり、利用者が少ないにも関わらず廃線を免れている。もっとも本数の多い会津若松-会津坂下間は一日7往復、最も少ない会津川口-只見は1日3往復のみ(2009『鉄道手帳』)。

 1920大正9年11月22日、衆議院議長宛に只見線建設の陳情書を提出。
 1921大正10年11月、「小出-柳津線鉄道期成会」結成。
   ――― こうして始まった建設運動だが、実際県境の六十里越え峠を越えて両県を鉄道で結ぶまでには、このあと五十年・・・・・(『只見線物語』)。
 1923大正12年9月1日、関東大震災。
   関東一円を襲った大地震は不況下の経済に大打撃。政府はその復興に全力を傾注、そのため鉄道の新線建設は後退せざるを得なかった。
 
 1925大正14年2月、関屋孫一代議士、只見線建設促進を国会に建議。内容は
   ① 小出郷は大半が会津藩の領地で・・・・・会津と小出郷は六十里の峠を越えて交流がさかんだった。
   ② 県境の大森林は・・・・・交通不便なゆに資源を活用できないでいる。
   ③ この地帯は水力発電事業の中心地である。
   ④ 銅鉱を中心とする地下資源の豊富な地帯・・・・・ (『只見線物語』)。

 1933昭和8年12月8日、鉄道省会議で小出-柳津間の鉄道は、小出-只見と柳津-川口の二つに分けて建設する方針が決まった。
 1934昭和9年3月、帝国議会に只見線の着工線繰り入れが提案され衆議院を通過。測量調査が2年間続けられる。
 1935昭和10年春、只見線本工事に着手。 
   ルートに当たった家屋その他の建物は移転を迫られた。
 1937昭和12年、盧溝橋事件に端を発し日中戦争おこる。
   あらゆる面で戦争遂行と勝利のために力を尽くさなければならなくなった。突然、只見線の工事は中止される。

 1941昭和16年12月8日、真珠湾攻撃、日本は太平洋戦争に突入。
   戦線は拡大、物資の窮迫が深刻になる。開発可能な物資が掘り起こされ、只見線沿線の硅石やブナ材が注目される。それらの物資を運ぶため只見線の工事が再開。

 1942昭和17年10月28日、「鉄道省告示第244号」
   11月1日ヨリ只見線小出 大白川間鉄道運輸営業ヲ開始ス 鉄道大臣・八田嘉明。 其ノ停車場・小出・越後広瀬・越後須原・入広瀬・大白川。
   ――― 太平洋戦争突入は12月8日、只見線はまもなく雪に埋もれたはずであり、工事再開は雪消えを待ったのだろう。再開後、工事は突貫工事だった・・・・・ 11月1日、小出小学校で行われた只見線開通祝賀式は、国鉄や沿線町村の関係者ら約五百人が参加して盛大に挙行された。・・・・・ 日本軍は各地で戦火をあげていたころで、戦争に負けるなどということは夢にも思わず、誰もが勝つものと決めつけていた・・・・・(『只見線物語』)。

 1945昭和20年、太平洋戦争敗戦。
   国内はあらゆる物資が不足、国民はやっと命をつないでいる有様だった。只見線は石炭がなくて走れない状態になる。
 1947昭和22年7月、小出郷開発振興会が発足。
   戦後の混乱の中で少しでも新しい希望をと、只見線の全通と只見川水系の電源開発をあげる。
 1952昭和27年、只見線は戦前並みに、一日4往復が復活。
   只見線は元気を取り戻したが、このころから“赤字”が浮上。新潟、福島両県でふたたび只見線全通への機運がもりあがる。

 1953昭和28年、田子倉ダム・発電所の専用線が只見線の田子倉駅として営業開始。
   ―――「只見川の電源開発」 尾瀬を水源に福島を経て新潟へ、越後山脈の起伏激しい中を流れる只見川。雪解け水により水量が豊富で、落差も大きい好条件から、水力発電に注目・・・・・ 明治時代から多くの電力会社が電源開発も試みるも、山岳の険しい地形と、豪雪によって開発が阻まれ・・・・・ 技術の進歩と共にこの年から、田子倉ダムの建設が始まり、1960昭和35年に完成。現在でも、発電用ダムとしては、全国2位の貯水量・・・・・(『鉄道手帳』)。

 1962昭和37年3月、鉄道審議会で、上越線の小出に結ぶ只見線の全通が決められる。
 1965昭和40年代。
   山間僻地の過疎現象が大きな社会問題となりはじめ、只見線沿線も同じであった。
 1968昭和43年9月、国鉄諮問委員会が只見線を含む全国83線区の赤字廃止を国鉄に勧告。
   その間にも、只見中線の建設はどんどん進み、一方では廃止勧告という矛盾を抱えていた。

 1970昭和45年9月28日、新潟、福島両県が地下で結ばれる。
   ――― 只見線とは、小出-会津若松間の138キロの鉄道であり、只見中線とは、その中間にある未開通区間の大白川-只見間に、いわば便宜上付けた名称である。その間が開通する意義は大きかった。そのなかでも中心となる6・4キロ近いトンネルが貫通・・・・・ 只見中線の建設工事のなかで最大の難関、県境の山脈のドテッ腹にでかい風穴をぶちぬいて、トンネルが貫通・・・・・ 貫通式には、田白川口から八台のジープで田中角栄期成同盟会長をはじめ、新潟県側の町村長ら、只見口からは工事用ディーゼルカーに分乗した藤原鉄道建設公団総裁、只見町長ほか沿線町村長らが、ヘルメット姿でトンネルまで進んだ・・・・・(『只見線物語』)

 2004平成16年、新潟中越地震。

 2022令和4年、<沿線住民 廃線に危機感>
   ――― 在来線全体の総距離の35%が赤字、100円の収入を得るために1万5546円の経費がかかっている区間もある・・・・・ 只見線(只見-小出)・・・・・ 「只見線は上下分離」 福島県と新潟謙を結ぶ只見線は2011年7月の豪雨で橋が流失し、会津川口(福島県金山町)-只見(同県只見町)間(27.6キロ)が今も不通のままだ。
 JR東は今年10月に全線で運行を再開する予定・・・・・ 県が線路や駅舎を保有し、JR東が運行を担う「上下分離方式」で維持する事が決まった・・・・・(2022.7.29毎日新聞)。

 2022.10.1
  <JR只見線 11年ぶり全線再開>
  地元の熱意で復活! 今後は赤字解消に向け利用客を増やすように努めるとのこと。どうか願いが叶いますように。

   参考: 『只見線物語』磯部定治1989恒文社 / 『鉄道手帳 東日本編』監修・今尾恵介2009東京書籍 / 『コンサイス地名辞典』1996三省堂 / 国会図書館デジタルコレクション
  

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