生い立ち暮らしが作品に生きている小説家・小寺(尾島)菊子
「親ガチャ」、何のことか分からなかったが、子どもは親を選べないの意らしい。悲しいかな酷い親がいるし、我が子を追い詰めてしまう親もいて悲惨な事件が起きている。
多くは温かい親の元に生まれ育っているのに、悲惨な境遇にあるのに親を選べない子にとって現実は酷い。それをあらわす「親ガチャ」、なんと悲しい言葉だろう。
昔も貧富の差、境遇の差はあったが、そのことだけで皆の一生が決まってしまっただろうか。そういう人もいただろうが、思い違いでなければ、いまの社会より努力は報われていたような気がする。それが極端に少ないから「親ガチャ」が広まっているのかしれない。
自家は金持ちではなかったが、和やかで人がよく来て賑やかだった。そのせいか、のんびり育った。まあ上流に縁がなく豪華や贅沢を知らないせいもあるかもしれない。
大人になって家柄もよく裕福で恵まれた同世代に会ったが、皆それぞれ誇ることなく温かい。貧富に関係なくどんな境遇でも人はいろいろだ。
さて、恵まれた家に生まれ育っても、それが一生続くとは限らない。
突然、破綻することもある。そうなると、辛い状況に陥り涙にくれる人もあれば、逆境に耐え奮発する人もいる。
明治生まれの女流作家、尾島菊子こと小寺菊子は、そうした厳しい状況を引き受け、生計を支え、作家活動をして世に認められた。
与謝野晶子、長谷川時雨らと同時代人の小寺菊子を見てみたい。
けやきのブログⅡ2021.11.27<明治の劇作家・長谷川時雨、夫は「雪之丞変化」作者・三上於菟吉>
小寺(尾島) 喜久子
1884明治17年8月7日、富山市旅籠町一二番地に生まれる。
父は尾島英慶。家は薬舗で裕福であったが、母は投機的な父親と姑の抑圧に泣かされていた。
?年、高等小学校を卒業。
?年、父が下獄。刑に服しため女学校進学は叶わなかった。
1894明治27年8月1日、日清戦争。11月21日、旅順占領。
1901明治34年、17歳で上京し、下谷中根岸の従姉・樽井ふさ方に寄寓。
寄寓先の生活が苦しかったので、学資も所持品も樽井家に提供してしまう。菊子は文学書を愛読していた従姉ふさの影響をうける。そのふさが離婚。菊子は頼るところを失い自活するも生活難は尋常でなかった。あるとき、須賀橋の上で脳貧血を起こし明治病院へかつぎ込まれたことがあった。
1903明治36年、徳田秋声に師事、秋香女史の筆名で「破家の露」(『新著文芸』)を、その月創刊の『新著文芸』に発表。
1904明治37年2月10日、宣戦布告、日露戦争始まる。
9月、与謝野晶子が詩「君死にたまふこと勿れ」を『明星』に発表。
けやきのブログⅡ2022.2.12<堺刃物・堺燈台・与謝野晶子>
1906明治39年5月、「妾の弟」を『少女界』に発表、少女小説の先駆けとなる。
1907明治40年、このころ東京で母、弟妹と家をもち夫を迎えた。しかし、夫が不身持ちだったので離婚。
?年、教育会の教員養成所へ通いタイピスト、婦人記者となる。
蔵前の高等工業学校のタイプライターの技手に雇われる。
―――学校では閨秀タイピストとして文学好きな教授からも書記からもやや色気づいた学生からも過分な親切を受けてゐたが、鳥渡した短編の恋愛小説を書いたのが問題となって解雇された・・・・・若気の至りで口惜しまぎれに更に「文子の涙」といふ小説を書いて解雇処分の内幕を暴いた・・・・・筆つきにはまだ幼いところが脱けないが、生活に触れた面の広さは苦労人だけに広いと思われる・・・・・(生方敏郎『明治女流文学集(二)』)。
1908明治41年、「妹の縁」を尾島菊子の署名で『趣味』に発表。
1909明治42年5月、「御殿桜」を『少女界』に発表。
1910明治43年、「飢えたる女」を読売新聞に発表。
4月、『文子の涙』を金港堂より出版。
12月、「赤坂」を『中央公論』に発表。塩田良平による粗筋と丁寧な解説が『明治女流文学集(二)』にある。ちなみに、記事の作品年次は『明治女流文学集(二)』の小寺菊子年譜を主に参照した。
1911明治44年4月~9月、「なさぬ仲」を『少女の友』に連載。
『大阪朝日新聞』が懸賞小説を募集、菊子の「父の罪」が選ばれ連載された。もう一編は*田村俊子の「あきらめ」である。
10月、「ある夜」を『青鞜』に、「蔭の女」を『新小説』に発表。
田村俊子:幸田露伴に師事。一時、女優をする。優れた才能を生かせなかった不遇の女流作家として知られる。
1912明治45年/大正元年、「太鼓の音」を『少女畫報』、「黄昏」を『台灣愛国婦人』に発表。
1913大正2年、自伝的な「朱蝋燭の灯影」を『早稲田文学』に発表。
1914大正3年、画家の小寺健吉と結婚。ちなみに、夫は政治家の小寺健吉とは別人。
小寺菊子の名で「悲しき祖母」「情熱の春」「父の帰宅」「梅雨時」「深夜の歌」発表。
1915大正4年、過去の体験を描いた「百日紅の蔭」「河原の対面」を発表。
塩田良平は「河原の対面」を次のように評している。
―――この作品は作者の数ある自伝的作品の中では、長編に近い最も読みごたへするもので作者の幼年時代を書いたものと思はれ・・・・・父の為造がある破廉恥行為から入獄する。そして、町の近くの監獄から河原の堤防工事に他の囚人とともに就役させられる。それを家族の者が知って、ひそかに食べ物を運ぶ・・・・・ お町は母や祖母に連れられて、その囚人を見に行った・・・・・ この父を運だ暗い家庭からいつかは離れようと、いとけない胸に思ひこんだ・・・・・ 菊子の作品の中では傑作の一つといへよう。
1921大正10年、「祖母」を『報知新聞』に発表。
1926大正15年/昭和元年、42歳。「あこがれの中に」を『名古屋新聞』に掲載。
1930昭和5年、代表作集『情熱の春』出版。
1933昭和8年、「産院情景」発表。
1941昭和16年12月8日、日本軍、ハワイ真珠湾を奇襲攻撃、対米英宣戦布告。
1942昭和17年、随筆集『花犬小鳥』(人文書院)発表。
――― 菊子の文壇歴は永く、小説の他、随筆、少女小説、童話等がある・・・・・ 徳田声門の人々の発行した雑誌『あらくれ』にも、一時活躍した・・・・・ (『明治女流文学集(二)』年譜、福谷幸子編)。
1945昭和20年8月14日、ポツダム宣言。9月2日、降伏文書に調印する。
1947昭和22年、脳溢血で半身不随になる。
大戦中、甲府に疎開し、戦後帰京したが病にたおれ10年間病床にあった。
1956昭和31年11月26日、脳溢血で死去。享年72。
参考: 『明治女流文学集(二)』1983筑摩書房 / 『明治時代史大辞典』2012吉川弘文館 / 『近現代史用語事典』安岡昭男編1992新人物往来社 / 『日本人名辞典』1993三省堂
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