神宮外苑イチョウ並木、公園行政の祖・折下吉延
近所で水道管の取り替え工事が行われている。その近くのケヤキの大木がいい木陰をつくり、ときおり工事の人が一息ついている。
欅は落葉しても雄々しい樹形が現れる冬がまたいい。同じく公孫樹のすっきりした樹形も捨てがたい。イチョウといえば並木道、とくに黄葉散り敷く道を歩くと愉しい。
イチョウ並木は珍しくないが、早稲田大学キャンパスに親近感がある。というのも、早大オープンカレッジの知人がキャンパスで拾ったギンナンを分けてくれたからである。ただその時、茶碗蒸ししか思いつかず「食べきれない」と遠慮した。
すると「銀杏を紙袋に入れ電子レンジでチンすればいい」と教えてくれた。試してみたら美味しかった。この秋も講座帰りのカルチャー女子、ビニール袋持参でギンナン拾いするかな。それとも、コロナ禍だからまっすぐ帰宅かな。
さて、イチョウ並木といえば、明治神宮外苑が思い浮かぶ。そこには聖徳記念絵画館、野球場、ラグビー場など施設が数あるが、神宮球場のナイターに何回か行った。
夕闇せまるスタンドにそよ吹く風がとても心地よく、選手を間近で見られるのもよかった。ただ、雨が降るとね。
ところで、いま外苑一帯の再開発計画がイチョウ並木に影を落としている。拡張するとイチョウの根が傷み、やがて枯れてしまうと心配しているのだ。その心配に同感しつつイチョウ並木を設計した人物、折下吉延をみてみた。
折下 吉延 (おりしも よしのぶ)
1881明治14年10月5日、東京市麻布区(東京都港区)で生まれる。
1906明治39年1月、三崎臨海実験所を植物学者・大賀一郎、川村多実二らと訪れる(「崎臨海實驗所冬期日誌抄」東京動物學會1906-02-15)。
他の資料が見当たらず経緯は分からないが何日か宿泊しており、学生時代の交流は興味深い。
1908明治41年、東京帝国大学農科大学卒業。宮内省苑技師となる。
1912明治45年、東京府立園芸学校(東京都立園芸高)で教鞭をとる。
7月30日、大正と改元。
奈良女校師範に赴任。在任中、橿原神宮の林苑整備事業に携わる。
1915大正4年、明治神宮造営局技師に就任。
日本式の典雅さと西洋式の明快さを巧に折衷した新意匠を実現させる。
――― 日露戦争が終わると、陸軍は「青山練兵場は狭すぎる」として代々木に新しい練兵場を開設した・・・・・ 敷地は内務省に変換され、その後は・・・・・「広大な空き地」となっていた・・・・・(中略)・・・・・ 明治神宮の内苑は国費によって造営されたのだが、外苑の方は、阪谷芳郎市長や渋沢栄一が神宮創建を提案した当初から国民の献金によって造営して明治神宮に奉献されることとなっていた。・・・・・ 明治神宮奉賛会という団体が設立されて献金の受付を開始する・・・・・(『国立競技場の100年』)。
1916大正5年12月末、献金は目標額をはるかに上回る624万円が集まった。
1917大正6年、奉賛会が外苑の設計・施工を明治神宮造営局に依頼し、日本の土木界の権威、古市公威を設計工事顧問とした。
造営局は外苑課を設置、東大教授・佐野利器がマスタープランを作成、造営局技師の折下吉延が実施案を設計した。
1918大正7年6月1日、地鎮祭を経て神宮外苑諸施設が着工される。
1919大正8年3月、明治神宮造営局主事・折下吉延、三重県へ出張(造神宮支庁)。
この年、外遊して欧米を視察。
1920大正9年、帰国。都市計画に公園を組み込むことに力を注ぎ、都市における大規模公園の設置を唱えた。
青山通りから聖徳記念絵画館方向に向かうイチョウ並木を当初の計画では一列ずつだったのを二列ずつに変更したのは、外遊したさいの見聞をもとにしたものである。
――― (「折下吉延先生業績録」)」主要道路の両側に幅員二間の植樹帯をとり更に歩道の外側に各二間を加えて四条の公孫樹並木帯をつくり、樹下を芝生として以て外苑の表玄関とも言うべき風趣を造ったことは堂々たる着眼であった」・・・・・ (『明治神宮の建築』)。
1921大正10年5月、外苑内だけでなく周辺の都市計画道路も検討、認可された。
――― 折下はその計画が外苑に及ぼす影響を懸念し、中央線の線路下をくぐるようにするなど計画変更を求めた。・・・・・ 折下は明治神宮造営局外苑課の技師だっただけでなく、関東大震災復興事業をになう復興局の技師でもあったので、道路計画を知る立場にあり、それが外苑に重大な影響をもたらすと考えて代案を提案したのである・・・・・(『明治神宮の建築』)。
1923大正12年9月1日、関東大震災。関東一円を襲った地震で死者、行方不明者15万人。不況下の経済に大打撃を与えた。
折下は内務省復興局建築部公園課長に起用され、日本初のリバーサイド公園である墨田公園や横浜の山下公園といった大公園造成、街路樹や橋台地緑化などの事業に取り組む。
横浜の臨海公園を統括した市嘱託・楢岡徹(のち助役)は折下吉延と親交があり、楢岡の長崎時代、同市顧問として公園行政を推進している(「臨海公園の誕生と横浜市」)。
東大学農学部農学教室内に「園芸学会」創立。菊池秋雄会長、折下吉延は理事。『演芸会雑誌』発行。
1924大正13年10月、明治神宮外苑競技場竣工。
――― 明治神宮競技大会が開かれ、外苑は、あたかも運動公園と見紛うばかりの姿を呈していく。1940昭和15年に計画されていた東京オリンピックの会場として、はじめはこの明治神宮外苑が予定され・・・・・ 隣接する土地には日本青年会館ができる。この施設は、明治神宮造営への勤労奉仕の功績に対する皇太子(昭和天皇)の令旨(りょうじ)を記念し、青年団からの寄付金で建てられた。・・・・・ 太平洋戦争のさなか、学徒出陣の壮行会場として外苑の競技場が選定された・・・・・(『明治神宮の出現』)。
1926大正15年10月23日、野球場と相撲場の竣工式が開かれ東京六大学選抜試合、大相撲が行われる。
12月25日、昭和と改元。
1927昭和2年7月、改正計画道路(現在の外苑西通り)の建設はじまる。それに立体交差して、カーブ状の斜路でつながる内外苑連絡道路の千駄ヶ谷駅前までが1930昭和5年11月竣工。
1932昭和7年、満洲に渡り、満洲各地の都市計画事業に参画。
1933昭和8年5月、渋谷川右岸の護岸工事に続き、左岸工事はじまり翌9年3月竣工。
―――この一連の工事で、外苑敷地が守られただけでなく、景観上も好ましい結果になった。その最大の功労者は折下吉延である・・・・・ 青山通りから聖徳記念絵画館方向に向かうイチョウ並木を左右二列ずつにしたのも、折下による提案にした・・・・・(『明治神宮の建築』)。
1934昭和9年4月28日、「特務部都市計画委員会開催の件報告」(経済調査会第三部、折下吉延・小川卓馬) 場所・関東軍司令部新食堂(「哈爾賓ハルピン都市建設方策」南満州鉄道経済調査会)。
1946昭和21年、満洲より復員。
以後、後進の育成に努める傍ら、地方の都市計画指導や軍用跡地の公園化促進、東京の緑化事業に尽くす。
1952昭和27年3月、明治神宮と文部省、体育団体をメンバーに「明治神宮外苑運営委員会」が発足。元内務省神社局長・児玉九一、外苑建設の当事者・折下吉延らが委員となる。
1966昭和41年12月23日、死去。享年、85。
――― 「公園行政の祖」とよばれ、造園を行政分野として確立した功労者とされる。没後、遺族の意向を組んだ都市計画協会により、緑地行政に功績のあった人に贈られる「公園緑地折下功労賞」が制定された(『植物文化人物事典』)。
参考: 『植物文化人物事典』(江戸から近現代・植物に魅せられた人々)大場秀章2007日外アソシエーツ / 『国立競技場の100年』(明治神宮から見る日本の近代スポーツ)後藤健生2013ミネルヴァ書房 / 『明治神宮の建築』(日本近代を象徴する空間)藤岡洋保2018鹿島出版会 / 自主研究レポート「臨海公園の誕生と横浜市」田中祥夫1996横浜市 / 『明治神宮の出現』山口輝臣2005吉川弘文館 / 国会図書館デジタルコレクション
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( 余録 )2024.11.23毎日新聞
―――黄葉のシーズンを迎えた東京・明治神宮外苑のイチョウ並木は146本である。「4列の並木」で知られるのは128本。その並木の途中で西側に折れ、ラグビー場に向かう道に2列18本の並木がある。・・・・・外苑の再開発計画が進む中、この2列のイチョウの扱いが注目されている。・・・・・146本の並木は近代造園の父、折下吉延が大正末期に整備した。いずれも新宿御苑で種を採ったことから「兄弟木」と呼ばれている。再開発反対・慎重派などから18本の移植が失敗したり、最終的に伐採されたりすることを危ぶむ声が出ている・・・・・(後略)
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