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2022年9月17日 (土)

尺八、達人の本を繰れば自然と調和の音が体内を廻るかも

 今年の中秋の名月は満月、いつにもましてきれいだった。家に入るのがもったいなくて暫く佇んでいたら、どこからともなく尺八の音が・・・・・ 残念ながら空耳。でも、なぜ、しゃれた横笛でなく、地味な竹の笛、尺八を想ったのだろう。
 昔、近所のおじさんが首をふりふり尺八を吹いていた。親戚にも尺八好きが居たけど今、尺八を見ない。しかし、演奏者は少なからず居る。
 尺八と洋楽の合奏を視聴すると、違和感がないばかりか尺八が引き立っているのに感心する。尺八の音色が好きだから、そう思うのかな。
 『大菩薩峠』の机龍之介は“鈴慕”を吹くが、虚無僧は何を吹くのでしょう。そもそも尺八に虚無僧のイメージは何故?
 尺八に関する本を数冊、そして国会図書館デジタルコレクションであたってみた。
 なお、< >は引用図書の項目、そして著作者名。
 まずはデジタルコレクションで検索、すると日露戦争がでてきた。

   <敵前の尺八> 岩谷小波

 ――― 彼の仁川の戦に、一発の弾丸狙い誤たず、敵の大鑑ワリヤークを、見事撃ち沈めてしまつたのは、全く浅間艦の功労であります・・・・・今にも敵艦見付かり次第、火蓋を切らう云ふ意気組で、乗組の仕官も水兵も、皆腕を鳴らし、胸を躍らせて居りますと、こは如何に! 何処からとも無く尺八の音が・・・・・ 「今この戦争の間際に、平気で尺八を吹くなどヽは、大胆な人もあればあるものだ」・・・・・ これは浅間艦長海軍大佐、八代六郎でありますから、人々は驚いて、皆その辺に集まり、そしてその尺八の音に、耳を澄まして聞き惚れました。 この時大佐の奏しましたのは、千鳥と云ふ曲でありました・・・・・(『少年日露戦史』)。


   <八代(やしろ)将軍の「風流」> 小笠原長生

 ――― 戦闘開始前晩、敵艦を前にし、悠々尺八を弄んだと云うふ事は、如何にも八代将軍の逸話としてふさはしい・・・・・ ある時、将軍から手紙が来、・・・・・ 其のころ読書界で大評判となってゐた中里介山氏の『大菩薩峠』の事が書いてあつた・・・・・ 読んでみると*私の父の事が書いてあつた」・・・・・(『侠将八代六郎』)。

  手紙には『大菩薩峠』「不破の関の巻」登場人物など紹介、机龍之介の名もみえる。
  私の父:肥前唐津藩主小笠原長昌の長男・小笠原長行(ながみち)。生麦事件の償金問題。独断で10万ポンドをイギリスに交付し、老中格を罷免される。

   <寒山月を吹く不破の関守> 中里介山

 ――― あれは、何処から響いて来ますか、あの短笛の音は・・・・・ 亮々として、藪にも、畠にも、叢にも、虫の声にも、いささ黒血川の流れのせせらぎにも和して聞ゆる一曲の管声が、今も宛転として萬野のうちに流れてゐるのです。 「ああさうでした、あの、尺八の音のするあたりが丁度、不破の関に當ませう」 「寒山月を吹いてゐますね」・・・・・ 不破の古関の跡を守る関守に、心憎いのがあつて、人の知らざる曲を吹く、吹いて酣(たけなわ)なるに至れば至るほどわからない。悲壮に人の腸を断つの声であるが・・・・・(『大菩薩峠』)。

   <普化尺八> 上野堅實

 ――― 現在使われている尺八は「普化尺八」とよばれる系統のものである。これは、古代尺八とは長さと指孔数の点で、一節切尺八とは長さと節数の点で、それぞれ相違がある。この尺八が普化尺八と呼ばれるのは、禅宗の一派を唱える普化宗の僧=虚無僧たちが、かつて専ら吹いていた尺八だからである。普化宗とは、中国唐代の禅僧普化を祖と仰ぐ一派で、虚無僧たちは、吹笛修行と称し、この尺八を吹いて民家の門先に立ち、布施を乞うものであった・・・・・ (『尺八の歴史』)。

   <虚無僧の習俗> 値賀笋童(ちか じゅんどう)

 ――― 初期の虚無僧は吸竹(すいちく)が普化禅を修する行法であるという宗旨を信条としていた・・・・・ 曲目は虚霊(嘘鈴)・虚空・霧海篪(むかいじ)の三曲が普化宗の根元曲または三虚霊(琴古流では古伝三曲)といわれるようになった・・・・・
 ――― 江戸初期は普化信奉者の集団を幕府は認めていなかった。然し、豊臣の残党や大名のお家取りつぶし、改易などででる多数の浪人の取り締に手を焼いていたので・・・・・ 宗教団体としてなかば公認され・・・・・
 ――― 1871明治4年の宗教改革で、明治政府に嫌われた普化宗は修験宗と共に、廃寺を命ぜられ・・・・・ 普化宗が禁止されると、一般の人々には吹くことを許されなかった普化宗専用の法器である尺八は楽器として存続を認められる・・・・・ (『伝統古典尺八覚え書き』*値賀笋童)。

   値賀笋童: 1915大正4年、東京うまれ。京大医学部卒。 戦歴=陸軍の短期軍医として戦車隊付軍医で満洲からルソン島へ渡り、米軍と4回戦闘して800名の戦車連隊が30数名生き残り、1946昭和21年帰還。 竹歴=1933昭和8年、高校入学と同時に伊藤如法師に入門・・・・・ 1960昭和35年琴古流本曲を終了して免状を貰った。

   <尺八の歴史> 山本邦山

 ――― 管の上端を削ぎ落としただけの吹き口を持つ縦笛は、尺八だけではなく、北アフリカからインドにかけて使われている「ネイ」とか「ナーイ」・・・・・ 中国や朝鮮でも縦笛は古くから使われていた。アンデスの笛「ケーナ」・・・・・ 古代尺八は、古代中国などから日本に伝来した音楽、「雅楽」に使われていたが・・・・・ 中世になって登場してくるのが「一節切り(ひとよぎり)尺八」・・・・・ 猿楽法師や田楽法師が歌謡の音頭取り(前奏)に使ったり、旅法師が吹いて門付けしたり、連歌師などが小歌の伴奏や自分だけの慰みのために吹いていた・・・・・ それとあい前後して登場するのが、現在使われている尺八・・・・・ 江戸期に入って、竹の根元の節の混んだ部分から利用するようになったため七節を標準とするようになったようである・・・・・ なお、武士の身分でなければ虚無僧になることは許されないという掟もあった・・・・・
 ――― 江戸時代には虚無僧たちは各地に虚無僧寺を設けて、そこを拠点として活動したが、京都の明暗寺や関東の鈴法寺・一月寺が中心的な存在であった。その鈴法寺・一月寺の江戸での尺八吸合所(稽古所)の指南役であり、古典尺八本曲の集大成をはかったのが、琴古流の始祖と仰がれている黒沢琴古(1710-71)である・・・・・ (『尺八演奏論』)。

   <ジャンルを越えて> 山本邦山

 ――― 1964年に諸井誠氏が尺八のソロの《竹籟五章》を書かれて大変話題になった。この曲は、すごく新しい感じがし、「うわぁ、素晴らしい」とびっくりしたものである。とても現代的だが、よく聴いて一つひとつ音を分析していくと、古典尺八本曲のようでもあり、それでいて新しい匂いがした。
 1966年、武満徹氏が《エクリプス》と《ノベンバー・ステップス》という素晴らしい作品を発表され、《ノベンバー・ステップス》は横山勝也氏の尺八と鶴田錦史氏の琵琶で小澤征爾氏指揮のニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団によって演奏され、これが大変な成功を収め、アメリカで大きな反響を呼んだのであった。
 ――― 私(山本邦山)の場合、他のジャンルとの共演は、まずジャズから・・・・・ ジャズの特徴はなんといっても即興演奏である。その点、尺八は昔から即興演奏をやっていた。
 ――― 尺八という楽器は、竹一本で、ただ五つの穴でもって自分のからだ、いわゆる手先、肌で感じながら吹くという、すごく単純な楽器だけにむずかしいわけです。昔首振り三年と言いますけど、尺八は首を振ることによって、すごく技法というものが出てくるわけですね・・・・・ 土くさい感じをなんとなく印象を与える楽器だ、ということですね・・・・・(『尺八演奏論』)。

 

   参考:『侠将八代六郎』小笠原長生1932政教社 / 『少年日露戦史・開戰の卷』巌谷小波1904博文館 / 『尺八の歴史』上野堅實2002出版芸術社 /『伝統古典尺八覚え書き』値賀笋童1998芸術出版社 / 『尺八演奏論』山本邦山2000出版芸術社 / 『大菩薩峠』中里介山1956角川文庫

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