« 尺八、達人の本を繰れば自然と調和の音が体内を廻るかも | トップページ | 英和辞書・日刊新聞の開祖・実業、子安峻 »

2022年9月24日 (土)

明治時代の政治家・星亨、人とエピソード

 大型台風14号が日本列島を縦断して九州をはじめ西日本に大きな被害をもたらす最中、遠くイギリスではエリザベス女王の国葬が厳かにとりおこなわれていた。
 その日、NHKテレビは日本の台風被災地の惨状と大英帝国を偲ばせるエリザベス女王の葬儀を交互に映し出していた。あまりの対比におろおろ落ち着かなかった。
 そのうち、葬儀の映像ばかりになって見入ってしまったが、ふと明治初期に「女王の呼称問題があったのを思いだした。新日本にやってきた大国イギリスの領事やパークス公使らと横浜税関長・星亨との間でやりとりがあった。
 少し長いが、明治初期の横浜とその経緯を『明治の一郎 山東直砥』より引用。

 ――― 条約で積荷目録に記載漏れの荷物は船会社より15ドルあての罰金を税関に納めるなどの手数料を支払う取り決めだったが、旧運上所時代の仕来り通りに係の役人が役得として自分の懐に・・・・・ 星は官紀振粛につとめ、外国人にたいしても硬骨漢ぶりを発揮した。外国人が日本を見下し治外法権を乱用し規則を守らないとき、法をもってきっちり対処した。各国領事は、萎縮することなく対等の権利をもって税関事務につとめる星を喜ばなかった。・・・・・ あるとき、
 ロシアの代理公使オロロスキーが決められた波止場以外から上陸しようとして税関役人に注意され、荷物検査を強要されたとして外交特権を主張し抗議してきた。これに対し星は、・・・・・ 所定の波止場以外から乗下船しようとする外国人にたいし密輸封じに厳重な取締りを行った。

 こうした折しも、外国人の中でも権力のあるイギリスのパークス公使が外務省に抗議に赴く事態がおきた。英国商人の反則(密商・脱税)をめぐって、イギリス領事館と文書をやりとりする中で、ロバートソン領事が、本題の税抗争でない枝葉に走り、日本側文書の Her Majesty にあたる日本語が「女帝」ではなく「女王陛下」となっているのは不敬無礼だと難癖をつけてきたのである。

 これに対し星は、イギリスで Empress でなく Queen を自称しているのだから「女王陛下」で誤りでないと突っぱねた。すると、各国使臣の首席で勢威常に日本政府を圧する公使パークスが直接外務省に抗議、星亨横浜税関長の免職と謝罪を迫った。
 この「女王事件」に困った三条太政大臣と寺島外務卿は、星に文書を改め陳謝するよう言い含めたが、星は先方こそ不当だとして太政大臣に上申。イギリスを恐れる政府は、公文書には外国君主の公称はすべて皇帝を宛てることとし、星に対しては、「新律綱領・官吏犯行公罪」を適用、罰金二円を科し横浜税関長を免職にしパークス公使をなだめ事件を決着させた。
 星はイギリス留学を命じられ、外国留学を志望していたから受け入れた。・・・・・ 大英帝国が相手でも、星亨は信念をまげなかった。
 そういう剛直な面を評価する者もあれば、よく思わない側もあり、好き嫌いが分かれる人物である。
 剛胆、博学の人、星亨はエピソードに事欠かない。以下、主な経歴を記す。

      星 亨    (ほし とおる)

 1850嘉永3年、江戸の築地小田原町の左官・佃屋徳兵衛と漁夫の娘・松子の長男に生まれる。幼名は浜吉・登。姉二人。
  母は越後中蒲原郡の人・星泰順と再婚し星は養子になる。養父・星泰順は医者であったが世渡り下手で零落、江戸から横浜へ移る。横浜で蘭方医・渡邉禎庵の薬局生になり高島嘉右衛門の英語学校に通う。優れた記憶力で英学を修め、居留地の商館の書記になる。
  ?年、前島密・何礼之に認められ、開成所(帝国大学前身)に通学、卒業後、同校助教授となり、その給料で両親を扶助する。星はかなりの家族思いであった。
 1869慶応2年、名を亨と改める。*陸奥宗光の世話で和歌山洋学校助教授となる。
  陸奥宗光: 和歌山藩士。海援隊に参加。のち、外相として条約改正、日清戦争に活躍する。

 1969明治2年7月、和歌山から横浜へ出張。
 1970明治3年、兵庫県令(陸奥宗光)に招かれ大阪在留、旧和歌山藩子弟を教える。

 1872明治5年3月、神奈川県二等訳官。9月、大蔵省租税寮七等出仕。
   『海外万国偉績叢伝. 巻之1』星享著、出版者・東生亀次郎。
 1873明治6年、海関税法取調掛。『印紙税略説』星亨・有島武編訳、大蔵省。
 1874明治7年1月、横浜税関長。7月、税関長罷免、罰金2円に処せられる。
   太政官よりイギリスに派遣され、法律学を修める。
 1874明治7年10月、星はフランス汽船メンザレー号で横浜出航。ロンドンで猛勉強に明け暮れ、合間に憲法や法律関係の書籍を買い集めた。

 1877明治10年、星はバリスターの証書を授与され、アメリカ経由で帰国。帰国後、住まいを京橋日吉町に移し、代言(弁護士)事務所を開設する。
 1878明治11年、司法省付属代言人となる。
 1882明治15年、大井憲太郎らの勧めで自由党入党。
   機関紙『自由の燈』と題して新聞発行、藩閥政府を攻撃。

 1883明治16年、福島事件の裁判に河野広中の弁護人として活躍。
   『各国国会要覧』星亨編著・麗沢館
 1884明治17年12月、新潟裁判所で官吏侮辱罪で重禁錮6ヶ月、罰金40円の刑。
 1885明治18年、*大阪事件の弁護をする。
  大阪事件: 大井憲太郎らが朝鮮での親日政権の樹立と日本国内の改革を企図したが、渡航直前、大阪で逮捕された事件。大井・景山英子らは外患罪で下獄。

 1887明治20年、自由党の残徒を糾合し外務大臣井上馨の条約改正に反対、*三大事件建白運動を後援。
   12月、保安条例により東京退去を命ぜられる。
  三大事件建白運動:言論・集会の自由、地租軽減、外交失策挽回を主張した建白書を元老院に提出。政府は保安条例を公布して弾圧。

 1888明治21年、出版条例違犯で入獄。
 1889明治22年2月、大日本帝国憲法発布の大赦により出獄。
   3月、欧米漫遊。翌23年、帰国。
 1892明治25年2月、栃木県から出馬し衆議院議員当選、議長に推されるも反対派の策動でまもなく除名される。
   この秋、「めざまし新聞」発刊。
 1894明治27年、日清戦争にさいし第二次伊藤内閣と自由党との妥協に奔走。
   3月、朝鮮国法律顧問に聘される。

 1896明治29年3月、朝鮮国顧問を辞任して帰国。
   4月、特命全権公使として、アメリカ・ワシントン駐在。
 1898明治31年8月、憲政党を基盤とする第一次大隈内閣(隈板内閣)の成立を聞き、政府の許可を得ずに帰国。憲政党を分裂させ、旧自由党だけで憲政党を組織し、その領袖として手腕を振るう。この頃より、新建の国は積極政策をとるべしとして主として軍備拡充費と鉄道国有と産業開発とを主張。

  アメリカ・ワシントンでのエピソード
 <星亨に一矢>
  ――― 秋山真之(海軍駐在武官)の米国駐在中の公使は有名な星亨氏であった。星亨という人は其の頃 から余程傑出した人物であって、館員たちも平素余り接近しえなかったほどであったが、独り真之だけは平気で遠慮無く公使の部屋に出入りしていた。・・・・・ 星氏の書家には色々な書籍がぎっしり・・・・・ 真之は其の書架から読みたい本を勝手に取り出して読んでゐた。・・・・・ 星氏がそれを叱責、大抵の者だと縮みあがつてしまふのだが、真之は平然として答えた。「公使はいろいろ貴重な書籍を購入されるが一向それを閲覧されるといふ模様がない。それで僕が好意を以て、公使に代つて読んでゐるのです」 剛腹を以て一世に鳴つていた星亨氏も、此の真之の剛胆には開いた口が塞がらなかつた・・・・・(『提督秋山真之』)。

 ちなみに、陸軍駐在武官は柴五郎。五郎は同じ西戦争観戦武官の秋山真之は陸士同期の秋山好古の弟でもあるし、先輩として面倒をみた。
 その第一報告は、アメリカ軍のキューバ上陸開始前で大西洋船中から発し、第二報告は、ワシントンで星駐米公使に連れられて陸軍省に赴き従軍許可を求めたとある。
 柴五郎の諜報報告は、米西戦争のいきさつ、キューバ・プエルトルコ・フィリッピンなどの軍事、アメリカ陸軍の動員と編成、義勇兵、武器など。この時点でアメリカ陸軍は弱かったので、五郎はそれを観察したまま報告した。ところが、後々まで「アメリカ陸軍は弱い」という観念が抜けなかったためアメリカを見くびって戦争を仕掛けたという説もある。

 1899明治32年6月、東京市会議員当選。
 1900明治33年、立憲政友会創立に参加、第四次伊藤内閣で逓信大臣となる。
   おりしも東京市に疑獄事件おこり検挙者が続出。長年市会を牛耳っていた星にも嫌疑がかかり逓相を辞任、原敬と交代した。
   この年の星亨:6月、東京市築港調査委員長。 7月、市区改正常務委員。 8月、伊藤博文と政友会をつくり総務委員に推される。 9月、市務調査委員長。 10月、逓信大臣、市学務委員長となる。 12月、第15議会では院内総務として力をふるう。依願免本官。
 
  この年2月15日、田中正造、足尾鉱毒被災民弾圧につき衆議院で質問。

 1901明治34年1月、東京市会議長当選。
   6月21日、東京市役所で遭難。剣客・*伊庭想太郞に暗殺される。
  ――― 「星亨の蓋棺」生ては一世の雄となり死しては万人の惜む所となり兇変、天聴に達するや従三位に叙せられ勲二等に叙し瑞宝章を賜はる死も亦星亨に敢て誠に栄なるかな・・・・・ 吊詞、総裁・伊藤博文、老友・板垣退助、東京市長・松田秀雄・・・・・(『怪傑星亨』)。

  伊庭想太郞: 幕府講武所剣術師範・伊庭軍兵衛の次男。旧唐津(佐賀県)藩主の嗣子の家庭教師の一方、私塾を開いた。のち、東京農学校校長となり、また日本貯蓄銀行の設立に参与。星亨を刺殺後、無期徒刑に処され、小菅監獄で病没。

   参考: 『英雄偉人を出した学校と父母の教訓』岩崎高敏1935二松堂書店 / 『怪傑星亨 : 付・刺客論』川越重治 編1901日東館 / 『憲政殊勲者年譜集』小久保喜七 編1939小久保昇 / 『衆議院議員列伝』山崎謙 編1901衆議院議員列伝発行所 / 『提督秋山真之』秋山真之会編1997岩波書店 / 『日本人名事典』1993三省堂 / 『現代史用語事典』安岡昭男編1992新人物往来社

|

« 尺八、達人の本を繰れば自然と調和の音が体内を廻るかも | トップページ | 英和辞書・日刊新聞の開祖・実業、子安峻 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 尺八、達人の本を繰れば自然と調和の音が体内を廻るかも | トップページ | 英和辞書・日刊新聞の開祖・実業、子安峻 »