« 近代大阪の文化に寄与した平瀬露香(亀之助)、家は大阪屈指の両替商 | トップページ | 幕末・明治の風俗研究家、新聞記者、篠田鉱造 »

2022年10月29日 (土)

旗本の明治は牧師・詩人・史論家、戸川残花

 2022年秋、世界も日本も酷いニュースが目立っている。将来の希望より不安が先立つ世の中、一体誰が想像したろう。
 コロナ禍の社会を長引く不況が追い打ち、なかでも若者の進路選びを困難にしている。それでも情報を活用し何とか行く先、生きる手立てをも見つけるだろう。
 ところで、瓦版があっても新聞はなかった幕末、情報が限られていたと思うが、人びとは江戸から明治の世代わりをどう知った。世に言う「御一新」は農民や町人にとって大変な出来事、武士にとっても重大事である。
 幕臣・戸川残花の場合、慶應義塾で学んだり、キリスト教徒になって布教活動に入る。やがて詩を創り、旧幕府之の記録を著述する傍ら大学で教えたりして明治の新時代を生き、活躍して大正期に没する。
 ちなみに当時、詩といえば漢詩であるが、残花のはモダンな「*新体詩」である。賛美歌も作った。幕末の安政に生まれ、大正まで生きたその一生や如何に。

   新体詩: 明治期に欧米の詩にならい誕生した新しい詩形。近代的叙情は森鴎外らの訳詩集『於母影』に生かされ、島崎藤村の『若菜集』へと発展。以後、土井晩翠・与謝野鉄幹らにより確立。

     戸川 残花     (とがわ ざんか)

 1855安政2年10月22日、江戸牛込(東京新宿区)で生まれる。諱は安宅(やすいえ)。
    父は幕臣・戸川内蔵助安行。家は備中庭瀬藩主の分家で、知行所は備中早島三千石。残花が家を継いだ、慶応4年は五千石。
   築地の邸は大隈重信が購入し、世に築地の梁山泊と呼ばれた。
 1868慶応4年/明治元年、上野の彰義隊に参加、13歳。

 1873明治6年、邸の向かい側に設立された、一致派新栄教会で宣教しタムソンの聖書講義を聞き、翌7年12月、受洗。
  ?年、 学業は慶應義塾、大学南校などで学ぶ。
  ?年、 東大キリスト教青年会で『旧約聖書』の「詩篇」などを講じる。
 1883明治16年、組合派岡山教会に転籍、京阪神および岡山県下を伝道。
 1887明治20年ごろ、大阪府岸和田教会の牧師となる。
  ?年、 帰京。一致派(日本基督教会)に復帰。麹町教会の牧師となる。以後、1897明治30年頃まで伝道者としてたち、賛美歌製作、賛美歌集編集に尽力。

 1890明治23年、*奥野昌綱と共編『童蒙賛美歌』十字屋から刊行。
   『安息日学校行儀心得』ジョン・シ・ベルリ著、戸川安宅・訳
   日本基督(キリスト)教会の指導的役割を果たした植村正久の『日本評論』に長短の詩を発表。

   奥野昌綱: 彰義隊の戦いで敗北。牧師。聖書翻訳、賛美歌編纂の功労者。ヘボンの日本語教師。

 1891明治24年『新撰賛美歌てびき』警醒社から刊行。
 1893明治26年1月、島崎藤村、北村透谷ら雑誌『文学界』創刊。
   残花は客員として参加、ことに新体詩人として名があった。第4号に「明智光秀」を寄稿して以来、多くの評伝・詩・短歌を発表。
  なかでも「桂川(情死を弔ふ歌)」は、北村透谷「『桂川』(吊歌)を評して情死に及ぶ」で佳品として激賞された。透谷の評は『現代日本文学全集9』p118で読める

    桂 川 (情死を弔ふ歌)
      上
  こヽは處も桂川、  桂といふも名のみにて、
  月の都も夏なれば、木ノ下闇か、蔭くらし。・・・・・
  ・・・・・ 思へば昔、年若き  男女(をとこおみな)のいくたりが、
  意(こころ)の駒の狂ひいで、 心の猿(ましら)おろかんも、夏草しげき煩悩に、
  人の正道(まさみち)ふみ迷ひ、 危き梢、深き淵。
  あな浅ましや、あさましや、・・・・・(以下略

  詩の続きは『明治詩人集(一)』p113でどうぞ。もと旗本が漢詩ではなく新体詩を次々発表というのが、世のなりゆきを感じる。
 残花の詩篇は単行の詩集がなく、『青葉集』ほかの詞華集にそれぞれ採られている。

   5月、文学談話会「筑土文学会」を立ち上げ、植村正久・内田不知庵・尾崎紅葉・北村透谷・坪内逍遙・三宅雪嶺らと毎月例会を開くこととする。
  この年、キリスト教人道主義の雑誌『三籟(さんらい)』を松村介石らと創刊。散文は本名および百合園主人の名で執筆。

 1894明治27年、『三百諸侯』博文館(~28年)。
   5月16日、健康を害し静養に努めていた北村透谷だが、芝公園内地内の自宅の庭で縊死。満24歳。
   残花、『毎日新聞』懸賞募集新体詩選者となる。
 1895明治28年5月、残花は透谷を思い『文学界』に、
   「一年は夢の間にすぎぬ今日は北村透谷ぬしの世をさり給ひし日なりと思ひいでヽよめる」を発表。
   「大隈伯の花園」を『毎日新聞』に連載。

 1897明治30年4月、『旧幕府』を勝海舟・榎本武揚らの賛助を得て創刊。
   旧幕の遺臣の気分をもって生き、薄れて無くなりがちな幕府側の足跡を歴史に留めようと編集、発行に意を注いだ。明治34年で終刊。

 1898明治31年~32年にかけ『幕末小史』三巻を春陽堂より刊行。
  ―――追懐の情を史料探査に融解させた幕府滅亡史である。その意味で、*島田三郎・*福地源一郎(桜痴)・*山路愛山ら旧幕府出身の史論家の一人と数えられる(『民間学事典』1997三省堂)。

   島田三郎: 政治家・ジャーナリスト『横浜毎日新聞』主筆。
   福地源一郎: 長崎出身。政治評論家『東京日日新聞』主筆。
   山路愛山: 受洗。『信濃毎日新聞』主筆。独自の社会主義論を主張。

 1901明治34年4月、日本女子大学校開校。
   校長の成瀬仁蔵を助け、創立に協力していた残花は国文科教授となり、附属高等女学校国語教師を兼任。以後、10年間婦人教育に専念した。
  ――― 残花 戸川安宅氏の演説ぶりは、その風采態度が如何にも奇抜だ。・・・・・ 純江戸っ子型であると同時に、また純江戸っ子であるから、非常に言葉に富んでいる。ベランメーから遊ばせ語(ことば)まで、噛み分け呑み込んで居らるるので、言廻しが誠に巧だ。・・・・・ 伝ふる所に依れば、氏が女子大学の創立当初、寄附金勧誘に廻らるるに、ドッカと応接室へ腰を下し、穏やかな粘り気ある弁で、根気強く説かるるので、大抵は往生して多少の寄付をする。流石の大隈(重信)伯も、氏の根気に負けて其の勧誘に応じた(『現代名士の演説振』)。

 1904明治37年、日露戦争。
 1905明治38年、「俳諧と禅宗」を秋声会系統の機関紙『卯杖』に掲載。
 1906明治39年、51歳。毎日新聞社客員。
 1909明治42年、「伊藤公等の梁山泊の遺跡」を『中央公論』に発表。
 1910明治43年、成功雑誌社から『海舟先生』刊行。

  ?年、 紀州徳川家・*南葵文庫の主任。
   南葵文庫: 紀州藩の蔵書をもとに明治期の書籍も加え創設。東京市麻布、旧藩主邸の一部に設立。2万冊の蔵書中には、山東直砥の薔薇楼の出版物もある。
    
 1912明治45年/大正元年4月、内外出版協会より『江戸史蹟』刊行。
 1914大正3年、ドイツに宣戦布告。第一次世界大戦に参加する。
 1915大正4年、江戸記念博覧会に出品。
   「具足絵巻」―― 関ヶ原役、東軍に属した戸川肥後守達安着用の具足一式を解体して写生したもの(「江戸記念博覧会案内」より)。
 1918大正7年、禅宗による得度式を挙げ、宗鑑の名を授けられる。
 1920大正9年、65歳。隠居して東京市外大井村に住み、12年末、京都に転居。さらに大阪に移る。 
 1924大正13年12月8日(7日とも)、死去。享年69。
  

   参考:  『明治時代史大辞典』2012吉川弘文館 /『現代名士の演説振』小野田亮正1908博文館 / 『日本人名辞典』1993三省堂 / 明治文学全集60『明治詩人集(一)』1983筑摩書房 / 『現代日本文学全集9』(北村透谷集・附文学界派)1980講談社(侍姿の残花、家族写真あり) / 国会図書館デジタルコレクション

|

« 近代大阪の文化に寄与した平瀬露香(亀之助)、家は大阪屈指の両替商 | トップページ | 幕末・明治の風俗研究家、新聞記者、篠田鉱造 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 近代大阪の文化に寄与した平瀬露香(亀之助)、家は大阪屈指の両替商 | トップページ | 幕末・明治の風俗研究家、新聞記者、篠田鉱造 »