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2022年10月22日 (土)

近代大阪の文化に寄与した平瀬露香(亀之助)、家は大阪屈指の両替商

 子どもが着ている服で金持ちの子か、そうでないか、見た目で分かる時代があった。今は誰もが身ぎれいになって見た目で貧富は分からない。一見、社会全体の生活レベルが上がったようだが、実は格差が広がっているらしい。
 それはさておき、いつの時代も有り余る財産を思いのままにする富貴者がいる。その階層に縁もなく興味もないが、文化に寄与した富豪ならその活動や人となりを見てみたい。そうした一人、平瀬露香を記してみた。

  ―――「家業の他は知らざるものなし」といわれた博識の文人で、能楽・茶道・俳諧・書法を能くし、財界人としての活動のほか大阪博物場長、日本美術協会大阪支部長をつとめた(『大阪墓碑人物事典』)。
  ―――[カメノスケ] 亀之輔(平瀬)大阪の俳人。あしの丸家を継ぎて貞瑛と呼ぶ。又露香の号あり。銀行頭取及び保険会社長たり(『日本人名辭典』大正3年)。

 この2例でも、平瀬露香がただの大金持ちでなく花も実もあり中味の濃い人物と分かる。全国的に知られていると思い、手元の人名辞典を見たが出てない。しかし、『坂本龍馬関係文書』「海援隊日史」には出ている。
 大阪なら史料がありそうだが遠い。手元の資料だけでは年代など未詳だが、それでも露香の思いや事績が伝わるといい。

     平瀬 露香   (ひらせ ろこう)

 1839天保10年、十人両替の一人、六代目千草屋・平瀬宗十郎の子に生まれる。
   名は春愛。号は露香・同学斎・芦の屋貞瑛。通商、千草屋亀之助(千種屋亀之輔とも)。
   千草屋は、日本生命ビル本館(大阪市中央区今橋4丁目)がある辺りにあった両替店。大名貸しをするほどの豪商であったが、商売自体は堅実で、明治維新を乗りきる力を有していた。
  ?年、 母が本妻ではなかったため、幼い時に実家の平瀬家から赤松家へ養子に出される。
   青年時代は天龍寺で雲水の修行をしたこともある。
 1859安政6年、20歳。「懐徳堂永続助成金覚書」、千草屋からの助成金に対する覚え書きがある。
   露香は漢学者・並河寒泉・中井桐園時代の懐徳堂に入門している。

 1866慶応2年、父の宗十郎が病没。七代目として平瀬家に戻る。露香27歳。
   家督をめぐってひと揉めあったが、賢明な露香は親類筋と悶着をおこすのを避け、経営は番頭・手代に任せる。
   養子時代の赤松家当主が、能や雑芸に没頭していたためか、家業を受け継ぐも番頭や手代任せとし、自らは趣味風流の世界に熱中。
  ―――金持ちだから一流の師匠についた。漢学は後藤松陰、和歌は有賀長隣、国学は平田一門や岩崎長世、書道は大道寺梅林、能は金剛流、茶は官休庵・・・・・ 読書を好み、書庫には万巻の書物があふれ、有職故実に凝るかと思えば、俳諧、遊芸、歌謡に軽妙な才知を見せた。
 中でも能へ肩入れ・・・・・ 金剛流の名手野村三治郎の愛弟子で、本宅に稽古用の能舞台を設け・・・・・ 高価な面や能装束も私財を投じて買い集め・・・・・(2015.12.29大阪日日)

 1867慶応3年6月5日、「海援隊日史」p90。
  ―――七ツ時頃急御召ニ付泉州屋敷当御将軍様御旅館ニおゐて御勘定奉行大阪町奉行大目付立合会 星野豊後守被仰渡下次第
       鴻池之事 山中善右衛門・・・・・ 
   右兵庫開港ニより交易取締頭取 被仰帯刀御免 新田之内百石ヅツ被下置候
       米屋  殿村平右衛門・・・・・(中略)・・・・・ 千草屋 平瀬亀之助・・・・・
   右同所取締方被仰付辰久 平上本ノマヽ 苗字御免非常帯刀被仰付 新田之内五拾石ツツ被下置候
       他ニ御用方 新規加入 夫々名前不知・・・・・(『坂本竜馬関係文書. 第二』)。

   兵庫開港が勅許されると幕府は大阪の富商20名に商社結成、兵庫開港資金の拠出を命じたのである。
  『明治の一郎・山東直砥』主人公は、紀州藩御用商人・岩橋万蔵の紹介で露香と出会い、自らの『一切経』出版の資金を得る。その際、露香と意気投合した山東は、鹿島岩蔵を露香に紹介する。岩蔵はそのおかげで鉄道建設に乗り出す資金を得られ、鹿島組発展に繋がる。

 1872明治5年11月、国立銀行条例。各地に国立銀行の設立を奨励。大阪でも20年迄に20近くの私立銀行が設立される。

 1875明治8年、大阪博物場を西町奉行所跡にオープン。
   始めは春季100日、秋期50日開場、他の日は集会場に使用していた。のち増築、明治17年ころ動物園を設ける。
   ちなみに1915大正4年まとめて移転したのが市立天王寺動物園である。
   露香は大阪博物場長となり、自ら古美術の解説や目利きもして市民に喜ばれた。大阪市の美術・工芸の保存と発展の礎は、露香が築いたとも言える。

 1876明治9年、露香は一族をあげ、第三十二国立銀行を創立、頭取となる。のち、浪花銀行と改称。
 1879明治12年、中之島に豊国神社(のち大阪城に移転)建設の発起人になる。
 1881明治14年、「大阪市在 国立市立銀行早見表」(国立銀行の部)によると次のようである。
   第三十二国立銀行・資本三拾万円・東区今橋五丁目十九番地 頭取・平瀬亀之助。

 1886明治19年、この年から大阪博物場は毎日開場。
   露香の道具売り立て。
   ―――平瀬家が明治期以降の家業の損失を補填するため明治十九年、三十六年、三十九年と三回にわたって道具売立を行った・・・・・ 第二回入札においては青井戸茶碗「柴田」などが想定外の高値をよんだことによって「平瀬相場」とまで呼ばれる成功を収めた。・・・・・(中野朋子)。

 1888明治21年11月、南地に「女紅場」(女子に技芸を教える学校)と、公演のための「演舞場」を建てる運動に尽力。年2回公演「芦辺踊り」を催した。歌詞は露香の作。
 1895明治28年、府立大阪博物場「豊公時代品展覧会目録 : 明治廿八年」
   平瀬亀之輔:抹茶飾り。掛物・秀吉公自画賛。
    君が世はまんまんかそへ かきりなく 老ともならぬ白菊の花

 ?年、 大阪株式取引所・手形交換所の創設に尽力。日本火災保険会社の社長。大阪貯蓄銀行の取締役。
 ?年、『大阪市史』編纂に協力。

   露香は和歌・俳諧・能楽・茶道・書に通じ、趣味人、博学多才として有名。大阪では「粋」な人物として名を馳せた。
  ――― 平瀬氏は俳句とよしこの「即ち東京の百々一(どどいつ)」を一様に見て居るといふので俳人連が非常に攻撃したことがある すると或る時俳人を招きて一会を催し その床に同家珍蔵の芭蕉翁の「かこちながらも月日はおくるさても命はあるものよ」といふ よしこのヽ一軸をかけてあつたので俳人達も唖然として一語なかつた。此の一話は能く阪地に話柄に上つている・・・・・(『閑話休題』)。

 1908明治41年2月8日、死去。享年69。
      墓は大阪市北区の連興寺。
  ―――君性芳醇和怜悧にして而も風雅の心あり 俳諧に巧なり、有情の月を賞し解語の花を品するのかたわら、蕉翁の昔を趁()ふて独り自ら楽む、胸中の閑雅真に羨むに堪たり、君又温故の心深く珍書奇品を叙する事山の如しといふ、特選せられて当博物場長の名誉職にあるや  聞くが如くんば君が家 近来酷だ潤富ならずとか、併しながら是れ或いは嫉妬者の口より出でたるものならん、さもあらばあれ大阪千草屋の声誉は盤石なり、一朝一夕の人言に由って容易に動かざるべきにあらず(『当世人物管見』)。

   参考: 『日本人名辭典』芳賀矢一1914思文閣 / 『大阪墓碑人物事典』近松譽文1995東方出版 / 『明治大正図誌 11巻』1978筑摩書房 / 『大阪と博覧会』1902第五回内国勧業博覧会協賛会編 / <2015.12.29大阪日日新聞[なにわ人物伝-平瀬露香]> / 『当世人物管見』1893著作出版とも米倉萩露 / 「三好弥次兵衞筆「香茶棚物図誌」(「香茶棚物寸法之図」)」中野朋子2020大阪市 / 『閑話休題』1908民友社 / 『坂本龍馬関係文書 第二』岩崎英重1926日本史籍協会 / 国会図書館デジタルコレクション

 

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