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2022年10月 1日 (土)

英和辞書・日刊新聞の開祖・実業、子安峻

 スポーツの秋、コロナ禍ではあるが様々な競技で観客がもどりつつある。しかし、応援するプロ野球チームが低迷、東京ドームへ行く気になれない。
 それはさておき、様々な競技で活躍する選手がいる一方、引退する選手もいる。社会人なら働き盛りの年代に引退を余儀なくされると、人気の有無にかかわらず今までと異なる、しかも長い人生が待っている。キツイかもしれない。それを思うと他人事ながらさびしくなる。まして、好きな選手の引退はね。
 先だって、巨人から西武に移籍した内海哲也投手(40)の引退登板があった。

<毎日新聞スポーツ記事“Foucusプロ野球”>
  ――― [内海 真っすぐ野球人生] 最後は真っ向勝負で挑んだ。 「決して速くはないが『本格派左腕』だと自分に言い聞かせて、真っすぐを生かせるようにやってきた」 そんな野球人生に思いをはせるように、楽天の先頭打者・山崎剛に向かって投げ込んだのは全て直球・・・・・ かつての本拠地東京ドームでは、エースの誇りを受け継ぐ古巣の後輩菅野智之投手が快投を見せた・・・・・(2022.9.21毎日新聞)。

 こうしたスポーツ記事もだが、新聞は政治経済、教育や育児家庭問題まで社会のあらゆる出来事を届けてくれる。おかげで居ながらにして世の中が垣間見える。休刊日はさびしいが、休みは誰にも必要だから文句はない。
 器機の発達はめざましく、ニュースに接する方法は色々あって新聞を取らない家もある。しかし、自分はじっくり読める紙の新聞がいい。
 さて明治初期の新聞発行は活字もなく大変だった。官も始めは新聞発行を応援したが、言論が活発になると「新聞紙条例」など公布・施行して取り締まった。
 それはさておき、ここでは横浜で日刊新聞発行の始まりに寄与した子安峻を見てみたい。

     子安 峻      (こやす たかし)

 1836天保7年、美濃国(岐阜県)大垣藩士、子安宗茂の長男に生まれる。
   幼名・鉄五郎、号・悟風。
 1849嘉永2年、大垣藩の敬教堂の句読教授となる。
  江戸に出て下曽根金三郎に砲術を学び、次いで佐久間象山に入門し蘭学を学ぶ。象山に深く愛され、舎密術(せいみじゅつ 科学)を修得して藩に帰る。
  藩に戻ると藩主の命で子弟に舎密術と蘭書を教えた。
  ?年、藩主に請い再び江戸に出て、長州藩士・村田蔵六に入門。蘭書と兵学を学ぶ。就いて蘭学を修める。
 1862文久2年、幕府の命により幕府洋書調所(開成所)教授、手伝い。
  横浜運上所(開港地の幕府出先機関)翻訳通訳掛となる。

 1868明治元年、神奈川県庁の大録に任ぜられ、神奈川裁判所・外国局翻訳官となる。
 1869明治2年、外務省翻訳官となる。
   時に白露奴隷放還事件があったが、これに関し功があった。
   オーストリア政府からモールス電信機二座が献上、天覧にあたり、邦文符号を考案して実地通信を試み、電信機について説明した。のち、足らない文字は吉田正秀らが補足して、通信用符号を完成する。

 1870明治3年4月、井関盛艮(もりみち)が県令(知事)に昇任。
  井関は知事になる前から神奈川県判事をつとめ横浜に在勤、外国人の新聞発行を見聞しており、日々のニュースを伝える邦文新聞の必要を痛感していた。
 折しも、長崎の本木昌造が鉛活字鋳造に成功したのを知り、これを利用することを思い立ち、横浜の富商に出資せしめて新聞発行の力になる。
 本木の門人・陽其二(よう そのじ)を招き、且つ旧幕時代、横浜で輸入書の検閲官であった子安峻らと共に新式新聞の計画を立てさせ、新聞発行のため「横浜活版社」を創設した。
 『横浜新聞』 編集を神奈川県運上所翻訳官・子安峻、印刷は長崎で本木昌造の元で活版印刷の事業に従事していた陽其二と上原鶴寿が担当した。のち、『横浜毎日新聞』と改題。

  12月8日、日本初の日刊新聞 『横浜毎日新聞』 創刊。
   当時高価で用いられなかった洋紙を用いて両面印刷の一枚刷り、鉛活字で印刷。島田三郎(明治6年入社)・肥塚龍(8年入社)などが健筆を振るった。のち明治12年、沼間守一が買い受け、本社を東京に移し『東京横浜毎日新聞』とする。沼間がこの新聞を引き受けたのは、自ら指導した嚶鳴社の言論機関が欲しかったからである。

 1872明治5年5月、横浜・東京間鉄道開通。鉄道により東京へ進出しやすくなる。
   マリア・ルース号事件では子安峻は外務少丞として尽力。
  子安竣は柴田昌吉、本野盛亨(神奈川県大参事)らと横浜に鉛活版印刷所「日就社」をつくり社長となる。

 1873明治6年、それまで横浜にあった「日就社」は芝の琴平町に移転。
  1月、『附音插図英和字彙』長崎・柴田昌吉、大垣・子安峻、日就社。国会図書館デジタルコレクションで閲覧できる。
  旧播州山崎藩の江戸屋敷跡を改修し、印刷設備を横浜から搬入。英和辞書の訳語に傍訓を取り入れ読みやすくした。
  ―――「英和字彙」は田中平八(幕末・維新期の実業家)の援助でできたものである・・・・・(『横浜近代史辞典』改題横浜社会辞彙)。

  ――― 幕末すでに英和小辞典の発行はあったが、大部のものはこれをもってはじめとする。労作である上に、印刷機械を外国から購入する等の苦心を以てしたことは、しに緒言よって知ることができる・・・・・ 「緒言」恭惟 皇朝今日ノ政体、広ク衆美ヲ海外諸邦ニ鑑ミ給ヒ、百般ノ学術ヲ(以下略)・・・・・・・・・・ 神武天皇即位期限二千五百三十三年 明治六年一月 長崎・柴田昌吉 大垣・子安峻・・・・・(『日本電気技術者伝』)。

  ――― 幕末より明治初期にかけて刊行された代表的英和辞典のうち・・・・・『英和對譯袖珍辭書』・・・・・ 『和譯英辭書』・『和譯英辭林』[「薩摩辞書」]・・・・・とは,後者が前者の海賊版であるという出版上の倫理的問題はあるにしても,内容的には一つの系譜を構成していると言ってよい。この「対訳袖珍」~「薩摩辞書」系と拮抗して,明治中ごろまでの英語辞書界に君臨したもうひとつの系統が,ここに紹介する『附音挿圖 英和字彙』(以下『英和字彙』と略す)を源とする流れである。本書は・・・・・柴田昌吉・子安峻を編者として,読売新聞社の前身である日就社より刊行された。明治15年には第2版『増補訂正 英和字彙』が,明治20年にはその増補再版(実質的には第3版)が発行されている・・・・・(『香川大学附属図書館報no.32』)。

 1874明治7年、11月2日、『読売新聞』創刊。
  「俗談平話を旨」とするルビ付きの平易な通俗紙 「小新聞」 を日就社から発行。編集総括は鈴木田正雄が当たり、東京日日から高畠藍泉が来て雑報を書き、藤野永昌、鈴木彦之進らも加わって執筆した。
  第一号・稟告
 「此新ぶん紙は女童(おんなこども)のおしえにとて為になる事柄を誰にでも分るように書てえだす旨趣(つもり)でございますから耳近い有益(ためになる)ことは文を談話(はなし)のように認(したため)て御名(おな)まえ所がきをしるし投書(よせぶみ)を偏(ひとえ)に願います」・・・・・(『近代日本新聞小史』)
  刷り上がった新聞を“読売屋”といわれた売り子が鈴をならしながら、東京市内を売り歩いた。

 1875明治8年12月、外務権大丞。  
 1877明治10年4月、退官。
   この頃から『読売新聞』を文芸色豊かな「中新聞」へと紙面の転換をはかる。
   実業界でも活躍、横浜に扶桑商会を創立、共済五百名社を起して生命保険業を営み、その他、貯蓄銀行、三田農具製作所、製氷会社、漉水会社などを興し、日本銀行設立に際しては監事に推された。
  この年、『西洋諺草』岩見鑑造抄訳・子安竣校閲、日就社。

 1878明治11年、ロシア皇帝より魯()国皇帝より露国神聖神聖アンナ第三勲等章を受領。
  3月、『大日本駅程宝鑑』室田義雄 編、校正出版人・子安峻、日就社。
 11月、『博物要論』佐々木武綱訳 日就社。

 1887明治20年、『読売新聞』は、高田早苗を主筆として紙面の改革に着手、坪内逍遥に文学面を主宰させる。
  坪内は尾崎紅葉や幸田露伴を迎えて、『読売新聞』をして文壇一方の雄たらしめる。高田は政治社会の論評に健筆を振るい、改進党員として活躍した。記者も専門学校(早稲田大学)出身者が多い。

 1889明治22年1月、新聞経営のかたわら経営していた炭鉱事業に失敗。読売社長を辞任。
 1893明治26年、「いさみ新聞」創刊。
 1898明治31年1月、死去。享年62。

   参考: 『民間学事典 人名編』1997三省堂 / 『日本電気技術者伝』田村栄太郎1943科学新興社 / 『香川大学附属図書館報no.32』2001.6『附音挿圖 英和字彙』、教育学部教授/竹中辰則 /  「国立国会図書館月報728」2021 / 「日本人名事典」1993三省堂/ 『立志の友 : 智識進歩』篠田正作(秋野散史)1892鍾美堂 / 『横浜近代史辞典(改題横浜社会辞彙)』1986湘南堂書店 / 『幕末明治 新聞ことはじめ』奥武則2016朝日新聞 / 『近代日本新聞小史』岡満男1969ミネルヴァ書房 
 
          ***  ***  ***  ***  ***  
   <余録>
 『青鞜』がともした女性ジャーナリズムのともしびを新聞界に最初に導入したのは、「読売新聞」である。1914大正3年4月3日から毎日一面の婦人付録を設けた。羽仁もと子の夫・羽仁吉一を編集顧問に、平塚と同窓の日本女子大出身の小橋三四子を編集主任に招き、田村俊子、与謝野晶子らをスタッフに加えて発足、やがて作家の水野仙子が身の上相談を担当して、今日各紙にみられる家庭欄・女性欄のパターンを生んだ・・・・・(『近代日本新聞小史』)

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